拝啓 故郷に立つ19の自分へ
故郷のみなさま、山、川、鳥たち、、、すべてのものお元気ですか?田んぼと山、大きな青空の18歳まで過ごした故郷にはどのように、変わりましたか?
そして、私たちは何年、故郷に帰ってないでしょうか?
帰省の時期のお盆も年末年始も帰ったこともありませんし、東京にいつも、1人で過ごしました。10回以上いつも1人で過ごして、何度も経験しても、年末年始の故郷の帰れない、ひとりぼっちの東京のアパートでの大晦日と正月はさみしいです。
19歳の春から、虐待されてた、あの故郷の家をいろんな人に助けてもらい家を出てから、帰ることありませんでした。
早くも、もう10年以上、あれから経ってしまいました。私も30歳超えてしまいました。
後、数年したら、私は故郷のいた時間と同じ時間を東京のこの地で生きてるのかとおもうと、東京にもなじめていない自分がどこでも、よそ者におもえて、これからどうやってどこで生きていけるのだろうかと考えることもあります。
そして、
親に頼らないでひとりで生きていくと決めた
18歳の私が、いまの私をみたときにどうおもうのかな?
故郷に帰れない私たちのこの東京の時間と故郷を離れたあの18からの時間は遠回りなのかと考えてしまうことがあります。
いま、私たちはこの病気と隣に
日々の暮らしを積んでいます。大学に行けたわけでもなく、いまは働けるわけでもなく、毎日毎日なんとかこの解離性同一障害(多重人格)と複雑性PTSDという病気と隣に生きています。それでも素敵人達に出会ってきたこの道と今の暮らしに幸せを感じて生きています。
お手紙書きました
何があっても一人で生きてく覚悟で拳を握りその家を故郷を出た19歳の私へ
その一人で背をって生きてる背中言葉送ります。
あなたが見つめるそのこれからの道、瞳にうつるもの
きっと真っ暗だし、茨の道でしょう。それでも自分信じてさす光を信じて自分を奮い起こして家を出てくれてありがとう。一歩踏み出そうとしてるよね。不安がいっぱいでしょう。
そんなあなたに私は
優しい言葉贈れません。
30代まで本当に一人です。一言で、苦しいです。
東京で病気になるし
働けなくなるホームレスにもなる。
19のあなたはきっと働きながらでも大学行きうまくなんとか生きていこうと思ってるでしょう。でも全て思うように行かないはずです。
あなたは故郷でたら
弁護士さんやいろんな大人に助けてもらえます。
そのあと遠く離れた関東の自立援助ホームに保護されます。
自立のすべてのお金過酷な労働で貯めます。寒くて重い肉体労働です。
自立のお金いっぱい貯めてください。
歯を食いしばって働いて生きてください。
と言っても
手取り10万であなたはそこから施設に3万入れてあなたは自分好きな曲をMD(あなたの持ってきたMDは30歳の私たちのことを今も支えてくれています。ありがとう)に入れてそれだけ持って家から逃げたので
今の生活の服もすべてのお金もいるので
きっと毎月3万貯めれるくらいでしょう。
そしてやっと50万貯めても自立したら自立の準備で0円になります。
そしてお金だけでなく自立するとき、アパートの保証人で苦しむでしょう。住民票の閲覧制限などの手続きそして、病気にもなるし、働けなくなって家失うでしょう。全て、もがいてもうまくいきません。
どんなに死にそうでも、他人には関係ないことで、社会は冷たいし、助けてくれません。その時はどうか、生き延びることだけ考えてください。
そして危ない人は優しい顔して寄ってきます。その時はその泣きはらした絶望を見つめる
瞳でよくどういう人か見極めてください。
間違えると命が危ないでしょう。
自分の全てを信じてどうか生き抜いてください。
厳しさ知ってそういうトラブルの一切を一人で乗り越えてください。耐えてください
誰も助けてくれません。
決して人を恨まないでください。
心を殺さないで自分信じて
未来のそこから先の道を
どうか信じて生き抜いてください。
死にたいと彷徨う日も人が信じられないと
わーと全てのものを壊して泣き叫ぶ時もそこからそこから18年くらいは苦しいです。
けれども死なないでどう耐えてください。
その暮らしの中で小さな優しさ拾って集めてその握ってる拳に詰め込んで、どうか自分を見失わないで、生き抜いてください。
あきらめないで未来だけでも
信じて生き抜いてください。
あなたは今これから一人に感じるかもしれませんが一人ではありません。
同僚、友達沢山作ってください。本当に苦しい時助けて言えなくても、応援しててくれます。
ひとりじゃないです。大切にしてください。友達の存在があなたの存在の力になります。
26歳になって自分で家をもがいてまた借りて
再びマイナスからスタートします。
支援者に繋がります。お金も支援があります。そこから闘病になると思ってください。
働きたい気持ちがさらに苦しみをふ広げるでしょう。家で18まで受けた虐待の傷が全開して自分が壊れそうに送る日もある。家という安心を感じて幸せのときも。
本当の苦しみは26から始まります。そこから10年またとにかく人を殺さないで、自分を見失わないで、未来を信じて生き抜いてください。
どんなに困難でも
道が見えなくても見えなくなったら
道を探して
その道を切り開くのはあなたにしかできません。
支援者、医者、友達にはできません。
どうか自分で自身の道を切り開いて行く覚悟もう一度もって生き抜いて!!ください
どうか、繰り返します
どうか
何が起ころうとも
生き抜いてください。
命があればあなたの足で歩く
道は失いません
苦しい10年過ぎる前
あなたは入院します。
でも安心してください
あなたが変われて
人が助けてくれる人が現れます
今の人
今の時間
今の自分を大切に生きてください
過去の苦しみがきてもいまを今の人
信じてください
あなたは生きてていい
幸せになる
ファイト
どうか信じて生き抜いてください
ここまでのことしか言えませんがこれからもそのあなたが覚悟を持って家を出た道は歩き続けます。私も頑張ります。歩き始めたあなたもどうか頑張ってください
30代のおばちゃんになった自分たちより
いまは、とてもいいお医者さんに出会いました。
そして、いろんな方に助けられて来ました。
そして、今も助けられています。
この治療だけの毎日が無駄な時間なのか
わからなくなることがあります。
でも、きっと回復しているので、これからです。やっと。わたしたちの人生を歩きだせる。。
30年以上かかったけど、
理解してくれる支援者と、
仲間、
ひとりじゃない私がいます。
スタートラインに立ててる喜びここにいまあります。
18の春、私は、実家を必死にでました。
当時の18までの私は安定して働ける道を模索してました。もがいてました。大学も目指してました。けれども、家庭から逃げなければ自分が生きれませんでした。大学あきらめました。子供の私たちは
4時に起きて何時間もホウキで掃除してる。毎朝。罵声と暴力いつも隣で。
ハサミを向けられて産まなければよかったと言われた
10位にテストの結果入っても認められない自分の存在。努力は苦しみのカス。ゴミの存在の自分。
母親の叫び声で目覚め、朝1番に見るものは父親が母を首しめてる光景から1日の始まるような家でした。ご飯もありませんし、おばあちゃんからご飯をわけてもらい、なんとか生きてました。
高校には行かせてもらえなかった
私は15歳で大学入学資格検定をとりました。
大学などに行きたい一心で
知り合いに教科書かりて独学で中学卒業してからすぐ、大検の勉強を始めて、
5ヶ月で合格して大検をとりました。
9科目を一人で勉強することは特に数学は難しくて大変でしたが、大学へのチケットは15歳で同級生の誰よりも早く手に無事手にすることができました。
家庭の暴力や家事などで、施設に保護されたり
戻されたり
で
中2から中学もまともに授業中にでれなかったので、中学の勉強もほぼ独学です。
頑張って大学のチケットを取りましたが、いまだ35にしても行けていません。悔しいです。生活のことが優先で、学問はできません。大学行って勉強したい。それはこれから、がんばります。
18歳の春
あの日、中学の先生に神社の駐車場で車の中で家庭のことを相談しました。
先生から、
家をでない?と言われました。
私はもう家がくるしいよ。と返しました。
先生は車の前を見ながら
ひとりで生きる覚悟持ちなさい。
親に頼らないでひとりでこれからは生きていかなければならないよ。
と強く言われ覚悟ができたら、いつでも連絡してと
言われました。
そして、一週間後、
私はこれからは家を捨てて一人で生きていくと、覚悟をして、先生に電話しました。
わたし、もう家出る。お願いします。と。
家を出たとき、荷物を持たずにお気に入りの曲をMDに50曲徹夜で詰め込んで、それと、小銭しかないお財布を持ち、飛び出ました。
先生の知り合いの家に泊めてもらいました。
親が怒り知り合いの家に乗り込んできたとき、
私はコタツの中で身を潜めました。
警察にいっても取り合ってもらえない
婦人相談もだめ
ようやく、児童相談所が14歳の時に施設に保護されてたので相談に乗ってもらえるようになれました。そして、弁護士さんに助けてもらうことができました。
一ヶ月、児童養護施設に
そして、ゴールデンウィークの最中、
明日関東の自立援助ホームにいくからといわれて
遠い離れた関東の自立援助ホームに保護されました。
そこから時給850円の冷蔵庫冷凍庫の肉体労働の工場の仕事を週5日、一日8時間働いて、施設にお金をためて、東京で20歳、自立をしました。それまでひたすら肉を切る、ほんとうにきつい仕事でしたがお金をとにかく貯めました。
施設に毎月3万円いれて、何も持たず保護されたので自分のすべての生活品全てを揃えながら自立の資金ためました。
けれども自分の家族が自立援助ホームに迷惑かけました。裁判にするなどの施設にかなり迷惑かけてしまいました。
私は素直に申し訳なく思いました。自立まで施設にいられませんでした。自分で自立を前に施設を出ました。
実家に帰るも
児相に警察に
虐待はなかった
と迷惑かけましたと謝りに行けと
軽めに監禁されました。早朝また親の監視すり抜けて電車に飛び込み東京にいき
公園で
正社員の仕事見つけて
自立のアパート見つけて
新生活の準備
いろんな市役所の手続き
全てこなして
アパートの初期費用を払おうとしたとき
お金を自立を前に勝手に口座は解約されて親にお金が送られそうになってました
そんなトラブルを乗り越えてなんとか
無事
吉祥寺のちいさなケーキ屋さんに販売の仕事で正社員で勤めることができました。
そこからの普通の人のスタートがゼロなら
私はマイナス100くらいからのスタートきれました。
小学生のときから友達と遊ぶこと禁止されてし中学もあまり行けなかった高校もいったことたので私は自立援助ホームで人間関係をきたえられ
20歳で今でも尊敬しているs店長に社会のいろんなことを教えていただきました。
いろんな社会で泣きながらも人との接し方社会での生き方
お陰様の心
いろんな人が先生で教えられました
だから苦しくても社会ではなんとか生きていけました。
成人式も故郷に帰ることは仕事してたし、虐待された家のある街に帰ることはできませんでした。そんなわたしに店長はケーキをプレゼントしてくれました。
中学の同級生とも連絡も会うことはなく
35のみんなは元気にしてるのでしょうか?
店長が成人のお祝いにくれたケーキ↓
病気になり
ホームレスになったとき
ねぐらを探す
毎日でした
死にたくて
東京から逃げたくて
とび乗った未知の土地に
福岡行きの新幹線
五島の親子に支えられた時も
沖縄で戦争の体験を聞き
命だけは捨てるな
と刻まれた時間も
彷徨ったけど
今までの全て
今のすべて出会えた人
過ごした時間
私の宝物
故郷へ
今も大好きです
帰れなくても
わたしたちは
ここ東京できれからも頑張って生きるぞ!!
必ず、私たちは
虐待の傷つき
回復して
ただいま
と
帰る
こんな
私たちをそのときは
おかえりと迎えてくれるでしょうか
とにかく今からも頑張ろう
必ず
また会える
懐かしい場所
最後に好きな歌を
書いておわりにします。
出会ったすべての人に感謝と幸せを込めて
好きな歌
命の記憶から
今のすべては
過去のすべて
今のすべては
未来のすべて
必ず
また逢える
懐かしい場所で
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