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朝熊岳道を歩く

阿蘇、奈良(東大寺)に続いて、「修学旅行コース」の旅を行うにあたり、朝熊ヶ岳登山を日程に加えた。金曜日の晩に家を出て、東名阪道御在所SAで小休止と食料の買い出し。伊勢道の多気P Aで仮眠をとり、早朝4時に朝熊ヶ岳登山口駐車場に向けて出発した。

御在所SA
朝熊ヶ岳登山口から入山

駐車場の車中で朝食を済ませて、予定より少し遅れて6時半に入山。「ようこそ朝熊岳道へ」の看板に迎えられる。とうに日の出時間は過ぎていたが鬱蒼として薄暗い森を歩く。画像は三町だが、登山口が一町で「町」毎に石標が置かれている。「町」は約109mだそうだ。

登山口が一町

山によくある「合目」ではなく「町」であるところが古の道を思わせる。古道と言えば熊野古道を思い浮かべるが、「朝熊岳道」もまぎれもない参詣道だ。そして石標の傍には「町石(地蔵)」がある。

四町

町石の他、「供養碑」や「種子碑」も多く見られた。供養碑は文字通り亡くなられた人が安らかに眠れるように建てられたもの。種子(しゅじ)とは梵字を表すそうで、弔いのために建てられたものではないかと言われている。

実のところ、朝熊岳道を予備知識なしで歩いていたのでこれらは全て、その昔、病や高齢によって朝熊峠を越えられなかった人を弔ったお地蔵さんと考えていた。

七町付近、供養碑。「万治」という年号が読める。
十二町の供養碑

所々にベンチがある。樹木に覆われているがここは海側(伊勢市方面?)の展望が開けていた。ご覧のようにこの辺りはけっこうな登り勾配である。

それなりに急勾配もある
ケーブルカー跡

石標や町石、供養碑ばかりを見てきたので現代人工物の登場に少し驚いた(笑)。ここはケーブルカー跡と呼ばれ橋の下に線路跡が残っている。いつの時代に廃線になったかというと、なんと第二次世界大戦中の昭和19年である。軍事物資で線路が徴収され戦後に再開されることもなくそのまま残されている。廃墟というよりは遺構と呼んであげたい。

下の写真では階段を見ることができる。階段なのか、枕木の跡なのか良く分からない。廃墟となった駅舎があるようだが確認できなかった。今となってはケーブルカー跡は朝熊岳道の見どころのひとつとなっている。

階段と鉄注?の残骸
正式名称は朝熊登山鉄道
橋の上からは五十鈴川や伊勢市内が見下ろせる

淡々と(フーフー言いながら)歩いていると、目の前に巨樹が現れた。十五町付近である。後で調べてみると「山桜」のようだが樹齢などの情報は得られなかった。神秘的であるとともに、強烈な存在感である。

山桜

そして二十二町、朝熊峠に到着。オシャレなベンチがあるが、かつては旅館「とうふ屋」があった場所。江戸時代に創業し、大正時代に新築、ケーブルカーの廃線後も細々と茶店として営業を続けていたが、昭和三十九年に火災によって焼失し廃業した。

この場所は吹き曝しで風が強い

朝熊峠まで登ったら、後は舗装路を山頂まで歩いた。「とうふ屋跡」の裏手から登る道もあったが、歩きやすい方を選んだ。

朝熊ヶ岳山頂

朝熊ヶ岳山頂の「石標」は金剛證寺の八大龍王社の入口にあった。後から登って来た「白い長靴を履いた」人によると、三角点は違う場所にあるらしい。凡その場所を教えてもらったが、三角点ハンターではないので、ここでヨシとする。登山者に白い長靴を履いた人が多かったので尋ねてみると、ヤマヒル対策なんだそうだ。勉強になりました。しかし何故にみなさん白?

標高差500m以上を登って下りるのは久しぶり。過去の経験から下りは大腿四頭筋が悲鳴を上げる。下りる前に朝熊峠のテラスでコーヒーブレイク。菓子パンで栄養補給の後、こむら返りや筋肉痛対策に芍薬甘草湯の顆粒をお湯で飲んだ。その効果があってか、無事下山。その後、別ルートで展望抜群の「朝熊山展望台」を目指したのでした。展望台での様子はYoutubeでご覧ください。

山行日:2023年10月7日



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