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癒しの天使に不滅華を。

実は明日上げようかと思ってたのですが、アップするのを忘れそうなので今日上げます。

10/31は、ヴィジュアル系という音楽文化がその歩みを大きく止める日になったという事は実は意外と知られていません。

21年前の今日、一人のミュージシャン、否、総合芸術家、否、天使がこの世を去りました。

その名は華月。



ヴィジュアル系バンド、Raphaelのギタリストでありコンセプトリーダーとしてバンドの世界観の全てを担っていた人間です。

たった4年の活動期間中に行った功績は歴代のヴィジュアル系アーティストを見ても群を抜いていると僕は思っている。

ヴィジュアル系というものを語る際にはどうしても

「hideがすげぇ!」

っていう話になっちゃうのですが、後世への影響を鑑みるとその影響はhideをも凌ぐものである。

しかし、その活動期間の短さ故か今では当時をリアルタイムで感じた人間にしか彼の名前は刻み込まれてはいないというのが現状であると思う。

そりゃそうである。20年も前に亡くなった人間の事だ。

世代としてはJanne Da Arcと同世代になり、ヴィジュアル系というジャンルが最初の不遇の時代に差し掛かる事になる時でもある。

そんな中でも、かなり早い段階で華々しいキャリアを積む事ができたバンドでもありました。


Raphaelが結成されたのは1997年の事。

Yuki、華月、Yukito、Hiroの4人で結成。

メンバー全員が当時15歳という若さもあり、大きな注目を浴びました。

そのバンド名はユダヤ教の三大天使の一人である癒しを司るラファエルから命名。

その名からメンバーは癒しの天使としてのバンドコンセプトで活動を開始します。

結成から半年後にファーストライブ、その3ヶ月後のイベントライブでは何とトリを勤めるまでになり、そのイベントでは後々の代表曲にもなる『eternal wish/窓際の夢』のデモテープを配布。

翌年の4月7日、初のミニアルバムとなる『LILAC』をリリースします。


この初回プレス3000枚が予約の段階で完売。

後にボーナストラックを含む2ndプレスが発売されます。

この『LILAC』の発売を記念した初のワンマンライブには当時ヴィジュアル系バンドを推していたテレビ埼玉のHOT WAVEで特集を組まれるなど、異例の紹介のされ方をしていました。

当時、ヴィジュアル系を本格的にクローズアップする番組が少なかった中で、バンギャ達の数少ない情報源であったこの番組がかなり推した存在という事もあり、Raphaelの名はこれがキッカケで一気に全国に知れ渡ります。

この特集が素晴らしかったのは、メンバーへのインタビューもさる事ながら、そのライブの構成の仕方をダイジェスト版でありつつもしっかりと伝えた点であります。

Raphaelのライブはその楽曲の世界観を表現する為に2部制を取るという形を取りました。

多くの場合、第一部は『白』をイメージしたステージ構成で、衣装も白や青といった明るい色を基調とし、明るくポップな楽曲を主に置くライブを展開。

中盤にバラードを置き、その後『黒』を基調とした衣装にお色直しをした後、第二部として激しい楽曲や、暗い雰囲気の楽曲を展開する。

その後、アンコールではメンバーが華月がデザインした似顔絵の書かれたTシャツを着用し、カバー曲などを織り交ぜたステージを展開し、ライブを終幕へと持っていく。

この構成はRaphaelの初のワンマンから揺らぐことのない構成として展開されて行きました。

2部制というのは当時、非常にセンセーショナルなステージングで、このコンセプトを取り入れたバンドが増えました。

知ってるだけでも2つあります。

そこからRaphaelは当時のSHOXXを始めとした雑誌社が主催する様々な大きなイベントライブにも勢力的に出演。

稀有な表現方法でインディーズでは最早知らない人は居ない位の知名度を得ます。

その中でリリースされた作品は非常にコンセプチュアルなものでありました。

特に『Sick〜XXX症患者のカルテ〜』と題されたシングル(オリコンの扱いではミニアルバム)では、それまでバンドの大きなコンセプトであった天使像からホラー要素のある医療系のヴィジュアルに転換。


血に染まった手術着や白衣などを纏うヴィジュアルで演奏する様は、非常にクールでありながらもそれまでのヴィジュアルからの変化が鮮烈なものでした。

作品自体も既にライブで発表されていた『潔癖症の君へ』を『症状1:潔癖症』と改めて発表したり、メイントラックの『症状3:XXX症』など、病をテーマとした作品に仕上げます。

特に『症状3:XXX症』はダウン症をテーマとした楽曲で、華月の叔父さんにあたる方がダウン症患者の方で、周囲の人が彼を見る目の特異さを描いており、彼自身がその環境で受けた教育の影響を鑑みることの出来る非常にメッセージ性の強い楽曲に仕上がっている。

ヴィジュアル系というジャンルがいい意味でも悪い意味でもファンタジックで美しい世界観を表現していくバンドが多い中、ここまでメッセージ性の強い楽曲を発表したというのはセンセーショナルな事でありました。

そして、ヴィジュアル系の中でも非常に大きな意味合いを持つ楽曲がボーナストラックとして収録された『49』。

空白のトラックの中の49番目に収録されていた楽曲なのですが、これがX JAPANにおける『X』、DIR EN GREYにおける『残-zan-』などの煽り曲のポジションになる楽曲でもありました。

当時、楽曲の一部を無限ループさせるという手法を用いて観客を煽るという風潮はまだ疎らなものでした。

本当、有名どころでは当時のX位しかやってなかったんじゃないかと思います。

まだアンセムとして会場が唄うという文化はあったものの、執拗なまでに楽曲をループさせて盛り上げるというのは一部のメタルアーティストの盛り上げ方であって、ヴィジュアル系にはまだ数は少なかったと思います。

しかも、それを狙った楽曲として製作された意図を感じるものという意味では、この楽曲はもっと評価されてもいいんじゃないかと思います。

その後、これも既にライブでは人気の楽曲となっていた『Sweet Romance』と『夢より素敵な』をシングルとして2枚同時リリース。

当時、GLAYやL'Arc〜en〜Cielが同時発売をやってのけていた中で、それに沿った形であったのだろうと思う。

印象が対極にあろうこの楽曲のジャケットをデザインしたのは同時は既に今で言う神絵師の座を獲得していた天野喜孝氏でありました。

言わずと知れたファイナルファンタジーシリーズのメインビジュアルを担っており、その名は既に世界的に広まっており、幾ら知名度があるとは言え一介のインディーズバンドが依頼するには非常にハードルが高い作家であったでしょう。

これもジャケットをどうするかと言うことになった際に華月が「天野さんに描いてもらいたい」と言い、ダメ元で依頼した所、天野喜孝氏がRaphaelの楽曲を気に入った事からジャケットイラストの提供が実現します。

この関係はRaphaelがメジャーデビュー後も続き、『promise』までのシングルのジャケットイラストは全て天野喜孝氏が手掛ける事になります。

大人気シリーズのビジュアルを手掛ける絵師がそのジャケットを手掛けた事も大きな話題となり、タイアップもついた事から、オリコンのメジャーチャートで37位、38位を記録。

当時、メジャーとインディーズのセールス面での垣根が壊れつつあったとは言え、この勢いは目覚ましいものであった事でしょう。

その勢いは止まる事なく、インディーズラストライブを渋谷公会堂で行った際に、Raphaelはメジャーデビューを発表。


デビューシングルとなった『花咲く命ある限り』では、それまで華月の内面的な世界を深く表現していた歌詞から一転して、視点が開かれたものに変化した事が伺える。

ある意味非常に偏った見方であったとも言える視点が変化したのは、華月自身がメジャーに行くことによって自分自身に深い興味を抱く人以外にも幅広く聞いてもらわなければならないという意識の現れであったそうです。

しかし、メジャーデビュー後の新曲というものはここから暫く鳴りを潜めます。

メジャーデビュー後は楽曲は既にライブで発表されている楽曲の音源化に尽力します。

邪推ではありますが、ヴィジュアル系のブームに翳りが見え始める中でライブで既に人気の楽曲をリリースする事によって、一定のセールスを見込もうという思惑があったのかもしれません。

恐らくファンの心理としても長く楽しんできた楽曲を音源化して欲しいという要望とも合致したのでしょう。

過去の楽曲を含めたメジャーアルバム『mind soap』をリリース。

バンドの顔であるヴォーカリストをフィーチャーしたジャケットが珍しくない中で、ギタリストである華月が単独でアルバムジャケットを飾るというのは非常に衝撃的でした。

バンドの立ち位置を考えれば全く不思議ではなかったのですが、当時の慣習から見ると、少し異様な様であった事でしょう。

楽曲もそれまでに発表されていた楽曲や新曲を含めたもので、ファンとしては非常に嬉しい収録曲となった事でしょう。

全体的なコンセプトも非常に明快で、Raphaelの『白』の部分が表現された名盤でもあります。

このアルバムの後にリリースされるシングル『lost graduation』のリリースまでを第一期とし、そこまでは現在のRaphaelを最高の形にするというスタンスで活動して行きます。

そして、その総括の場として選ばれたのが日本武道館でした。

このライブは、Raphaelを結成後からメンバーが高校を退学し、音楽活動に邁進してきた自分達の卒業式の場として選んだステージでした。

メジャーデビュー僅か11ヶ月という期間で武道館という場所でステージを行うというのは当時のRaphaelの勢いを持ってしても賭けの部分が大きかったらしく、それまでに精力的にライブやメディアへの露出を図るなどの活動を活発化します。

その甲斐あってか、Raphaelの武道館公演は大成功の中で幕を閉じます。

そんな中でも、このステージで華月が朗読した『青の邂逅』と題されたRaphaelの出逢いと歩みをテーマにした詩の朗読は大きな話題を呼び、これを以ってRaphaelの第一期の幕を下ろす事になります。

そこから、第二期Raphaelとしての活動は一層の特殊さを増して行きます。

次にリリースされたのが『Evergreen』な訳ですが、この歌詞に度肝を抜かれます。

学校生活をテーマとし、思春期の人間が経験する事柄や抱く葛藤を表現したのです。

メンバーも制服や体操着を着用したMVを発表するなど、自分自身が自らその人生を見切りをつけ、経験できなかった事を糧として紡いだ曲でありました。

このヴィジュアルの変化に、当初ファンは戸惑ったそうです。

それまで行っていた奇抜で派手なメイクや衣装は鳴りを潜め、日常的な見た目になってしまったという事で、一般ウケを狙ったと思われ、第二期の幕開けとしては非常に不本意なものとなった事でしょう。

しかし、今になって思えばこの打ち出し方は楽曲毎にきちんとコンセプトがあり、それを映像化する事によって楽曲の世界を視覚をもっても楽しんでもらいたいという単純かつ明快な意思表示であったと思われます。

この手法はPsycho le Cémuがのちに取る活動の方向性のようなものをイメージしていただければよく分かるのではないでしょうか?

この大きなヴィジュアルの変化はソフビの礎になったとも言えます。

このシングルを引っ提げて全国ツアーを敢行。

多くの場所でソールドアウトを達成し、某所ではSEが鳴った瞬間にファンが大挙して前に押し寄せた結果、会場の柵を破壊してしまい、ライブが行えなくなる寸前だった事もありました。

そんな大好評なライブツアーを終えた2ヶ月後、衝撃的なニュースが駆け巡ります。

華月、急逝。

2年前にX JAPANのhideが急逝した事が尾を引いていた中でのこの一報は大きな動揺を齎しました。

死因は鎮痛剤の大量摂取による中毒死でした。

奇しくもその翌日、第二期Raphaelの2枚目のシングル『秋風の狂詩曲』がリリース。

近代の貴族を思わせる様な仕立ての良いスーツに身を包んだヴィジュアルイメージで登場。

その後も楽曲毎にヴィジュアルを明確に変化させ、楽曲の世界観を最大限に表現していくのだろうと思わされるアプローチでありました。

これ程までに今後を期待させる楽曲をリリースしながらも、彼はこの世を去ってしまったという現実は大きい損失であった事だと思います。

その後、メインソングライターを失ったRaphaelは年末から年明けに掛けて予定されていたライブをメンバー3人で敢行。

その後、ファンクラブイベントを経て、Raphaelは活動休止という道を辿ります。

2012年、2016年に復活し、解散。


ここまでで5000字を超えてます。

着いて来れてますかね?

と非常に後世に影響を残しまくる活動をしていたバンドだった訳です。

ヴィジュアル系というジャンルが世間に飽きられ始め、ディスられる対象となりつつある中で、自らの表現方法を模索し続けていたのがリーダーでもあった華月でした。

彼のセンスは今見ても抜きん出ていたと思います。

ホールピアスなんてこの時代にもうやってたんですよ?

洋服も当時まだ有名でなかった原宿のインディペンデントなメゾンのものを着用したりして、ストリートスナップに映る事もありました。

非常に感性のアンテナが鋭い人間だった事が窺い知れます。

そして、その事は武道館ライブで配布された楽曲『雪の人形』の制作秘話にも現れている。

当時、武道館公演を控えていたRaphaelがライブのチケット優先予約でメンバーが電話を取って対応すると言う企画が行われました。

そして、その際に華月が取った電話口で話していたファンに、友人のファンの子が亡くなったということを知らされました。

その際にファンレターが自分の元に届いていたことを確認した彼は、そこに記載されていた住所からその子のお通夜の場所を特定し、弔問に訪れる。

ファンレターを出す程のRaphaelの熱狂的なファンだった事もあり、家族は華月の事をご存知だったようです。

祭壇には遺影と同じくらいの大きさの華月の写真が並んで飾られていたそうです。

そこで彼は一人のファンに文字通り身も心も寄せ合う時間を持ったそうです。

その帰り道にメロディを思いついた彼は、その時の気持ちを一つの作品として仕上げて、葬式の際にそのデモを流して彼女を送ったそうです。

このエピソードは美談として語られましたが、一部のファンからは顰蹙を買うことになりました。

この事は、非常に彼を苦しめたそうです。

ただ、一人の人間としての行動が尊重される事なく話を受け取った側の自分勝手な批判や羨望の情で投げつけられた言葉は、表に立つ事を辞めさせる所まで彼を追い詰めました。

しかし、デモのままのこの曲を完成させる事をモチベーションとしてその証に右腕にタトゥーを施したそうです。

このエピソードからも分かるように彼の感性は純粋あると同時に非常に繊細であった事が窺い知れます。

そして、もう一つ彼がやってのけた最大の功績があります。

カバー曲をライブに組み込んだ事です。

有名アーティストが自身のルーツになった曲をカバーして発表するという事は今では珍しいことではありません。

しかし、それをライブで披露するというのは当時では考えられない事であったと思います。

その筆頭が…

タッチ

ですね

オリジナル楽曲をメタル風にアレンジし、テンポを早める事によって定番のアニメソングをヘッドバンキング曲に仕上げてしまったという功績は大きすぎます。

今やヴィジュアル系のDJイベントでは欠かす事のできない曲となっています。

これを結成当時に既にオリジナル曲に盛り込んでライブをしていたと考えると信じられません。

この後、MUCCが『およげ!たいやきくん』をカバーした時には、多くの人がニヤニヤしたでしょう。

どうです?たった4年の活動期間で後世に大きく残る功績を残しまくっていると思いませんか?

彼こそがヴィジュアル系を作り、そして終わらせた存在だと僕は思います。

hideが始まりと言われるヴィジュアル系文化ですが、僕はそうは思っていません。

確かにhideのやった事がパイオニア的に波及していった事に疑いの余地はありません。

その道にただ名前が付いただけで、その道のりを整頓し、表現し続けてきたのは華月という存在であったと考えています。

今までに無かったものを自分のフィルターを通して表現し、紹介する。

それを受け取った人間がその作品の素晴らしさを大きく伝播させていく。

華月はその受取手であると同時に発信者でもあった。

多くのものに影響を受け、同時に多くのものへ影響をもたらした。

その結果先人が生み出した表現方法を更に進化させた。

ここから彼のオリジナリティが発揮されてい続けられていたらヴィジュアル系というジャンルは全く別の道を辿っていた事と確信しています。

世間はハロウィンで盛り上がる世相ですが、僕にとってのこの日は革命が道半ばにして終わりを告げた日でもあるのです。


余談ではありますが筆者が25年来推している藤田幸也氏(Kαin)は、この日には必ず彼を想って唄っておられます。

この日にライブを開催される事もあれば、過去には一人で新宿の街でストリートライブをなさったこともあります。

今年はKαinとして池袋手刀(ドーム)にて唄われるそうなので、もしかしたらあの曲が聴けるかもしれませんね。

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