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五月雨過ぎた夜の淵

噛み合わない
イラつかない
私の思いはそこにない
上っ面の午前3時


6月になった。また何も変わらない社会不適合者な生活を続けている。変わったことといえば風邪を引いたことくらい。健康体でない社不などもはや粗大ゴミだ。もちろんこれを読んでいる人が居たらまずは治そうね、大丈夫私がそばにいるよ、ちょっとずつやっていこうと、私は声をかけるだろう。
だがその言葉を私は自分にかけられない。どうして?と問われても答えられない。ただ、かけられないのだ。自分の事を上手く愛せない。我儘を駄々を捏ねて誰かにねだることでしか、自分の存在を認められない。だから私は欠けていて壊れているのだと思う。
だが最近私の好きな方が質問に答えていて、とても腑に落ちたものがあった。
自分を愛するにはどうしたらいいですか?という質問だった。
その質問に対しその方は、自分を好きでいてくれる誰かを大切に、愛することと答えていて、とても心がほっとしたのだ。
ここだけ切り取るとまるで自分の事を好きだから大事にしているように聞こえるかもしれない。しかしそうではないのだ。自分のこんなところが好き、あんな所が好きだと、言ってくれるその人のことが好きなら自分への好きも認められる、その考え方に納得したのだ。その人のことが好きだから、私のことも好きになれるかもしれないという希望だ。
だが1つ私の場合問題が起きる。私は相手に求めすぎるのだ。自分を満たしたいがあまり、相手に満たしてもらおうとし過ぎる、相手を好きな思いを同じように返してもらおうとするのは酷く傲慢な事だ。同じ思いが返ってくるわけなどないのに。
だから私は苦悩する。結局自分を愛するにはどうしたらいいのかと。どうすれば私は私を認めて歩けるのだろうと。どうすれば相手に押し付けることなく愛を大切に扱えるのだろうかと。どうしても明るい日向が怖いのに、雨の昼間が酷く憂鬱な天邪鬼のようだ。雨の音は心地がよいのにどうして濡れると不快な気持ちになるのだろうね。なんて。
そう考えると人間なんて天邪鬼なのだと考えることも出来る気がするが、やはりそれは甘えなのだと思う。私の我儘は私自身が思うより大きく抱えきれなくなる事が多々ある。この気持ちはどこに持っていくのが正解なのだろうか。焼却炉で焼いてしまいたいがもちろん気持ちの焼却炉など聞いたことも無いものである。私は私自身の抱えきれない負の感情に押し潰されながら呼吸をしている。まるでかくれんぼで見つけられなかった1人のように、どこかに消えてしまいたいと思いながら見つけてもらえるのを、手を取ってもらえるのを待っているようで、そんな私自身にまた、嫌気がさすのだった。
覚えていて欲しいのはここに書いた全てもあなたに言っている訳では無い。自戒である。私は私以外の人達は暖かい日向を、青い空の下を歩いていて欲しいと願っている。この気持ちは嘘じゃない。だから安心して歩んで欲しい。

だが季節はもうすぐ梅雨だ。見上げても見上げても雨空ばかりの日も続くだろう。
そんな時には自分を大切にする日を作ってあげて欲しい。自分が思い切り楽しいことをして、好きなだけ寝て、好きなだけ趣味を楽しむ。それが許されるのだと自分で思える日を作って欲しい。雨の中での居場所を誰かに作ってもらってもいい、自分で作ってもいい、傘をそっと開いて、紫陽花を眺めるような日を、雨音でうたた寝する日を自分にあげてほしい。私自身が自分を愛せないようにあなたも上手く自分を愛せないなら、私があなたの好きなところを見つけよう。明るい日向が怖くても夜の星が綺麗なように、居場所は見つけられるのだと、一緒に証明しよう。

だから大丈夫、私もあなたもまだ巡り合っていない誰かも、この世界でまだ呼吸をしていられる。
止まない雨に泣きながら一緒にいようよ

それじゃあまた眠れない夜に逢おうね

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