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Reykjavíkでの暮らし、そして自分

アイスランドの首都、レイキャヴィークに来てしばらく経つ。ひと月もたっていないし、こちらでの生活感覚について何かわかったわけではない。しかしながら、自身の生活についてはリズムがつかめてきたような気がするし、街を歩いたりして何となく地理の感覚はできたように思う。

こちらでは時間があるから、いろいろなことを考える。思い浮かべるのは、アイスランドについて、ここで出会った人々について、自分自身のことについて...。具体的にはジェンダーや、自立と依存、社会と個人、といったテーマだ。これらの区分は、これらを別々に考えているというよりは、自身の生活から何かを考えようとするとこういう分類になるだろうという便宜上の区分である。

特に自分自身のことについて改めて考えさせられる機会が多いように思う。自分の性格も手伝っての事なのだろうが、ついつい内省的になってしまう。ただ、内省的になることも悪いことではないと思っている。もし、そばに共に考えてくれる人物がいるならば、独りよがりになりがちな部分も具体的な関係や場面の中で考えることができるし、何よりも会話を通して考えを深めることにもつながる。こちらでは幸運にもそうした人がいる。

具体的な人と話す中で考えようとすると、自分というものを社会に関係づけざるを得なくなる。特に相手が自身とは異なる背景で育ち過ごしてきた場合は特に。
すると、僕は社会とかジェンダーとか、自立や依存といった枠組みに依拠するようになり、その言葉を通じて自分自身を説明しようとする。「僕は他者に依存することが多くて...。」「自分は社会というものこう捉えていて…。」こういう仕方で説明をすると何かわかったような気持ちになる。

しかしながら、これだけでは十分ではないとも思う。そうした言葉は便利だし僕も使うけれど、同時に本当に自分が考えたかったことにフィルターをかけぼやかしてしまうことがあるからだ。なぜ僕は他者に依存すると考えるのだろうか?依存とは具体的にはどういう行為や関係性や傾向を指しているのか?依存という言葉を使わないとしたらどういうふうに表現できるのか?
こうした問いを忘れないようにしたい。

今後はもう少しいろいろな人と会って、アイスランドのことについて、そしてそこで生きている人々について知りたいと考えている。そうしたときに、できるだけ具体的な生活の場面に即しながらそれらを理解しようと試みたいと考える。

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*レイキャヴィーク郊外のアパートメントのイラスト。

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