北条政子について(1)

こんなつぶやきをしましたけれど、北条政子について知っていますか。源頼朝の妻で頼朝の死後は、夫の作った鎌倉幕府を支えました。日本人はあまり演説が得意ではないと言われますが、政子は演説を持って鎌倉幕府を守り、日本の歴史を変えてしまいました。そんな政子の人生を簡単に紹介したいと思います。

北条政子は伊豆の豪族である北条時政の娘として生まれました、兄弟には2代執権となる北条義時などがいます。その時政のもとに一人の流人が預けられます。平治の乱で敗れた源義朝の子源頼朝です。政子はこの頼朝に恋に落ちます。しかし時政はふたりの結婚に反対します。流人の身であり、北条家は平氏の血筋であったことが影響しているのではないかと思います。

しかし、政子は強引に頼朝の妻となり第一子となる大姫をもうけます。その後以仁王の令旨をうけ頼朝は挙兵します。緒戦は敗北してしまいますが、その後は勢力を拡大し、関東一円を収めるようになりました。この時には時政も既に頼朝の家臣となっています。

さて、この頃のことと思われる政子が気高なことを示すエピソードがあります。頼朝のが亀の前という女性と浮気したときのことです。当時武家の棟梁が側室を設けることはさほど不自然なことではありませんでいたが、政子は亀の前の住んでいた家を打ち壊させました。常識を超えてきます。

勢力を拡大する中で大姫の結婚相手が決まります当時勢力を争っていた木曽義仲の息子義高とです。しかし、その翌年頼朝は義仲と対立し義高を殺してしまいます。その知らせを聞いた大姫は病に伏してしまいます。政子は義高を打ったことにひどく憤慨し、義高を打ったものを殺させています。政子には慈悲深いエピソードも残っており、静御前が宿した義経の子供の命乞いをおこなっていたりもしています。

頼朝は親族や坂東武士たちと協力しながら勢力を拡大し、ついに奥州藤原氏を滅ぼし全国をその支配下に置くことになります。いい国つくろう鎌倉幕府の語呂合わせで有名な1192年、朝廷から征夷大将軍に任じられます。また政子には頼家、実朝という男の子が生まれています。成功を収める一方で1195年大姫は心の病をから回復することなく死んでしまいます。

さて、その4年後1199年頼朝が急死します。カリスマを急に失った鎌倉政権は混乱します。二代将軍の頼家には父の偉大さがプレッシャーになったのか横暴な政治をおこない、鎌倉政権は統治能力を失いました。政子も息子の頼家を諌めますが聞く耳を持ちません。いい国作るどころではありません。御家人たちは主導権争いにあけくれ、次第に今までお互いに協力していた坂東武士は刃を向け合うことになりました。

1203年、頼家は病となったことになり、将軍職から退けさせられることになります。その後幽閉先で頼家は殺されます。三代将軍となった政子の子で弟の実朝は12歳で将軍になります。流石に少年にこの坂東武者たちの争いを解決できるような力はありません。目の前で血で血を洗う戦いを行う家臣たちを年少の実朝はどのように見ていたのでしょうか。

実朝は成長するにつれて、朝廷に急接近します。自らの地位を朝廷の権威によって保証したいと思ったからでしょう。朝廷もこの動きを歓迎しました。ただし坂東武者たちがこの動きを面白いと思うはずがありません。自分たちの権限が相対的に低下してしまうためです。1219年、実朝は頼家の子供公暁によって殺されます。おそらく公暁の裏には誰かがついていたのでしょう、しかし公暁もまた謀反人として素早く殺されます。

こうして政子は政治の動乱の中、実の子を全て失いました。そして、このあと、鎌倉幕府は存亡の危機を迎えることになりますが、それはまた次にしたいと思います。

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