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RADWIMPSが御霊を歌うとき

RADWIMPSが「御霊」を歌うとき、それは戦死者を敬う「御霊」ではなくて、広い意味での「たましい」なんじゃないかなとずっと思っています。

御霊が歌われるとき

御霊
〘名〙 (「み」は接頭語)
① 霊魂の敬称。みたま。また、たたりを現わすみたま。
※三代実録‐貞観五年(863)五月二〇日「天下以為、此災、御霊之所レ生也」
② 高貴な人、あるいは生前功績のあった人をまつる社。
※海道記(1223頃)逆川より鎌倉「御霊の鳥居の前に日を晩して後、若宮大路より宿所につきぬ」
③ 「ごりょうえ(御霊会)」の略。
※明月記‐建永元年(1206)八月二一日「今日称、御霊有二辻祭一
引用元:コトバンク(https://kotobank.jp/)

御霊、と辞書で引くとこう出ます。御霊という言葉はたいていにおいて戦死者の魂を敬っていう語でしょう。じっさい軍歌でも「御霊」という言葉が使われる時は「戦友のみたま」と言い表されたりします。

また、軍歌ではない歌の中で「御霊」は故人の魂を表します。

御霊が歌われるとき、一般的には
・英霊の魂
・志半ばにこの世を去った故人の魂
として扱われることがほとんどでしょう。

しかしRADWIMPSの曲中で歌われる「御霊」は、これらの曲とは持たされている意味が違うような気がします。
愛国歌・軍歌っぽいとされ炎上した『HINOMARU』以前から、RADは「御霊」という言葉を歌詞で使用しています。また、RADのギターボーカル野田のソロプロジェクト・illionでも『HINOMARU』に似た雰囲気の曲があります。そのなかでも「御霊」が複数回出てきます。RADWIMPSが御霊を歌うとき、そこにあるのはなにか。「御霊」にどんな意味を持たせようとしているのか。何を言おうとしているのか。

『HINOMARU』を軍歌っぽいとするか、RADWIMPSを右傾化する若者と評するかは、それらを少し見てからでも遅くないのではないかなと感じます。


RADWIMPS1stアルバム収録曲『コンドーム』

『コンドーム』は2003年にリリースされた1stアルバム『RADWIMPS』収録曲です。曲順は6曲目。メンバーが高校生のときにつくられたもので、現在のRADとはメンバーが違います。(野田とギター桑原のみが当時から変わらないメンバー)

RADWIMPSの曲中ではじめて「御霊」という語が出てくるのがこの『コンドーム』です。

俺と同じいくつもの命 シコタマ溜め込まれた後に
ゴムの中に ゴミの中に 腐ったヨーグルトとともに
待って?誰?なぜ?はて?さて?あれ? 彼等の御霊はどこへ?
熱き思い 愛 なにもない 遊と戯以外の何もんでもない

ここでいう「御霊」は精液の中に存在した「俺と同じいくつもの命」であり、しかしセックス(遊戯)によって捨てられていく命です。

「御霊」は自分と同質のものであり、なんらかのタイミングによって生まれそこなった生命です。死者の霊魂とは違うものとして表現されています。

そしてさらにこう続きます。

俺等の意味って?生まれてきた意義って?
俺らん中で宿っている生命(もの)って?
誰彼かまわず産み落とされる そんなはずないからね
伝えて 後々の世に 命の意味 生きる意味

コンドームにくるまれてポイされた命と自分、一体何が違うのか。生まれてきたことに何か意味が意義があるのか。そう問いながらも「誰彼かまわず産み落とされる そんなはずない」と言い聞かせている。ここにRADの死生観(あるいは野田の死生観)がよく表れているなと感じます。高校生の野田にとって「御霊」という語は死者にではなく、むしろ自分と地続きであるかに思われる精子の方にこそ相応しいのでしょう。

こうした 自分≒精子(生命の種であり報われない命)=御霊 という思想は徐々に変化します。そして震災後は明らかに「御霊」という語が死者に向けて使われるようになります。


ソロプロジェクトillion1stアルバム『GASSHOW』

『GASSHOW』(合掌でしょう)は野田のソロプロジェクトillionの1stアルバム「UBU」に収録されています。2013年リリース。曲順は11曲目です。ここでは「御霊」が複数回にわたって登場します。まずは歌い出し後、すぐに出てきます。

猛た波が喰らふは千の意思と万の生き死
御霊と一片の祈り八百万掬い給えと
その裂けた命乞う声さへも 海に響く鼓膜なく
今も何処かの海で 絶へず木霊し続けるのだろう

先ほどの『コンドーム』とは異なり、完全に死者に対して「御霊」が使われています。東日本大震災における津波被害を表していることが一目瞭然です。自分の命とは別のところにある死者のたましいを「御霊」と表現しているのがこの『GASSHOW』です。

次に「御霊」が出てくるのは後半です。

運命か 采か 昨日と今日の
狭間に終えた 君の御霊
引き換えに得た この身のすべては
形見だから 守り通すよ

『コンドーム』では「御霊」が自分と同じだった生命の種である精子に向っていました。今度は「君」に向っています。ここでの「君」は特定の個人なのかもしれないし、もっと大きな呼びかけとしての「君」かもしれない。それは分からないけれど、とにかく「終えた(ついえた)君」に対して「御霊」という言葉が選ばれます。

そして君の御霊と引き換えに得た自分の身の全て(生き延びた命)は、君の形見だとしている。だから守り通すよと。「君と僕」の関係性の中に「たましい」というものが入り込み、それらが複雑に絡み合っている。そしてそのことが「君と僕」を別ち難いものにしている。RADWIMPSのお家芸と言ってもいいような「君と僕の関係性歌詞」です(illionの曲なんだけど)

「御霊」という抽象的で大きな風呂敷を広げながら、同時に「君と僕」という非常に狭い範囲のことを歌う。震災後、RADWIMPSの歌詞のなかで「御霊」という言葉の意味は死者向きに変化しました。ただし今までのRADらしい”関係性”にとどまった限定的な使われ方をしていることが『GASSHOW』からみてとれます。
そこから5年後。さらに「御霊」は変化します。


22stシングルカップリング曲『HINOMARU』

『HINOMARU』は2018年に発売された22stシングル『カタルシスト』のカップリング曲です。表題曲『カタルシスト』がサッカーワールドカップのテーマソングに抜擢されたことにより『HINOMARU』が注目され、さらにその内容から”愛国ソング”または”軍歌っぽい”と非難されました。この炎上は調べれば簡単に出てくるので気になるひとは是非調べてみてください。

『HINOMARU』において「御霊」が歌われているところを抜粋します。
まず1番

胸に手を当て見上げれば 高鳴る血潮 誇り高く
この身体に流れゆくは 気高きこの御国の御霊

「御霊」を考えるためにまず最初のフレーズから見てみます。

「高鳴る血潮 誇り高く」というフレーズはあまりにも軍歌らしいし、右らしいフレーズであることは間違いないでしょう。
しかしRADWIMPSの歌詞において「血液」は大変重要なモチーフで、過去の重要な曲にも頻繁に登場します。かの有名な『有心論』(4thアルバムおかずのごはん収録。6曲目)での血液の歌われ方はこうです。

この心臓に君がいるんだよ 全身に向け脈を打つんだよ
今日も生きて 今日も生きて そして今のままでいてと
白血球、赤血球、その他諸々の愛を僕に送る

血液というのは君とつながっている、君が血液を送ってくれるから僕は今日も生きられる。「白血球赤血球その他諸々が含まれる血液は君からの愛だ」とまで歌っています。清々しいまでの”君と僕の関係性歌詞”です。
こう考えると『HINOMARU』における血潮も同じような意味で使われているのではないでしょうか。

「胸に手を当て見上げれば」心臓に手を当てて、空を見上げれば、失われた命のことが思われる。その命に流れていたものと同じ血が自分のことを生かしている。
これは同じ民族に流れる血の話ではなく、もっと限定的な狭い個人レベルでの話です。RADWIMPSの歌う「血液」はナショナリズムと結びつくのではなく、個人(故人)を悼む無垢すぎるほど無垢な気持ちと結びついています。
広い意味で「君」と僕は別ち難い存在だ、そう言いたい気持ちがマックス高まった時、野田が使うのが「血液」なのではないでしょうか。


胸に手を当て見上げれば 高鳴る血潮 誇り高く
この身体に流れゆくは 気高きこの御国の御霊

すると、次にあらわれる「御霊」はほぼ血液と同じようなニュアンスで使っているような雰囲気があります。「この身体に流れゆくは」という枕も相まって「たましい」のことという感じはあまりありません。
御国の、とついているのはおまけのようなもので「君(たち)のこと、君たちとの関係性」くらいのものだと思います。これはRADWIMPSを庇いたいというわけではありません。今までのRADWIMPSの歌詞から考えると、これくらいの意味だろうなという推測です。

この御国も血潮と同じように、民族や国家ではなく「同じ時代と困難を乗り越えた君(たち)」と感じます。


つぎに御霊が出てくるのはサビです。

どれだけ高き風吹けど どれだけ高き波がくれど
僕らの燃ゆる御霊は 挫けなどしない

ここでの「御霊」は、「僕ら」の「燃ゆる」という言葉とともにあります。僕でも君でも彼等でもなく、「僕ら」になっている。今までとは異なる視点です。それは今現在生きている「僕ら」でもあり、死者を含めた「僕ら」でもあります。

僕と同質だった「たましい」に向けて歌い、死者の「たましい」を「君」と思って歌ったのが今までです。そしてここで御霊は「僕らの」たましいに変化する。『HINOMARU』における「御霊」は『コンドーム』的な思想と『GASSHOW』的な思想が混ざり合っているように思います。『コンドーム』の 自分≒生命の種、報われなかった命=御霊 という思想。『GASSHOW』の死者のたましいを悼みながら、同時にそれは「君と僕」「生きている僕の身体」という閉じた関係性の中で感じ取れるんだという思想。これらの思想がillion名義での活動を通して融和しあった結果『HINOMARU』的な「御霊」が生まれた。

RADWIMPSが「御霊」と歌うとき、それは民族や国家、英霊ではなく本当に広い意味での「たましい」をあらわしているように思われます。死者の「たましい」を意味することはあっても、戦死者の魂を表しているのではないのではないでしょうか。


おわりにおまけ、お気持ち

illionについて少し補足を…

もともとillionは震災後にスタートしたプロジェクトです。野田本人もインタビューにてそのように答えています。

まず、illionを始めたのは2011年の震災がきっかけで。震災直後からRADWIMPSのツアーがあったんですけど、ツアーが終わって、かなり途方に暮れたんです。あんなにも強烈な力で自分の魂をぶん殴られた感覚は初めてだったから。『UBU』という作品は、あの瞬間のグツグツとした想いを形にしたいと思って作り始めたんです
引用元:CINRA.NET(https://www.cinra.net/interview/201607-illion)

また野田は「そもそもillionには、RADWIMPSで求められる『言葉の意味』から逃れたいっていう意識があって」(引用元:同上)と語っています。

よく言えば非常にラフで、無垢です。そして悪く言えば言葉に意味を乗せすぎないまま歌っている。意味を研ぎ澄まさないまま歌う、という経験を野田はillionというソロ活動を通じてしたのだろうと思います。そんな野田が国や日本を歌おうとするとき、ベースにあるのはRADでの経験ではなくillionでの経験なのでしょう。


はじめて『HINOMARU』を聴いたとき、これはRAD曲ではなくillion曲だ、とtwitterでつぶやきました。それはあながち間違っていない気がします。

このツイートをした時は、野田の出自や日本への思慕の方を強烈に感じとってしまいこういう感想だったのですが、今はもう少し細かく、歌詞のことを考えていくべきなのではないかなと思います。


『HINOMARU』が愛国ソングと評されたのは「御霊」という言葉のほかにも愛国アトリビュートがさまざま見られたことによります。(古よりたなびく旗、さあいざゆかん、御名のもとに、たとえこの身が滅ぶとて、咲き誇れetc…)

言葉だけを見たら、これはきっと愛国ソングです。右傾化する若者が、「日本が好きで何が悪い!」と開き直った曲なんだと思います。

でも自分にはどうしてもそうは聞こえない。あの3人(4人)はそんなつもりじゃなさそうなのに、話がどんどんこんがらがって、よく知らないひとがてんでばらばらな解釈をしている。そんな違和感があった長年のファンがいたのではないかと思わずにいられません。

炎上についてはまったく不思議ではないし『HINOMARU』は確かに批判・非難されて仕方のない歌詞と思います。思慮が浅すぎたな、ちょっとイタイ勉強不足よな、というのが13年RADを聴きつづけている自分の所感です。またRADはもう「コアな音楽好きが知っている」「熱狂的なファンがいる」というような性格のバンドではなくなったのだろうと思います。RADはメジャーになった。マスが目を向けるバンドになりました。自由に使える言葉は彼らが思っているよりずっと少ないのかもしれません。

それでもどん底から未来を見るように、言葉を雑にしないでほしいなと思います。



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