ある休日の異聞

 日曜の昼下がり。いくつかの乗り継ぎを経て、カタツムリのようにのらりくらりと走る電車を降り、狭い改札を抜ける。そこは都市部の喧騒からはほど遠く、昔ながらの商店や小綺麗なアパートと一軒家が立ち並ぶ街並み。

 駅から少し歩き、あたりを見渡すとぱっと見つかる''そのへんにあるコンビニ''が成城石井という、たったそれだけのことで、ここは自分とは違う世界の人たちが住む街なのだろうと確信した。この街の住人でもスーパーのタイムセールのお惣菜を夕飯にしたりするのだろうか。想像できない。昨日のアジフライはあんまり美味しくなかったな。次からはやめとこう。
 そんなことを頭で独り言ちながら道の先を見る。坂の上に住宅街。道端の木々に阻まれ見え難いが、おそらく高級住宅が群居しているのだろう。ただ、いま用がある方角はそちらではない。視界を遮る木々の枝先から幹に視線を落とすと、道の脇に階段を見つける。木製の階段を取り囲む緑色のトンネルに潜り込むと、次に目に入ったのはゆるやかに広がる川とカルガモの親子。人々の暮らしの足元に堂々と広がるその渓谷は、「都会のオアシス」と呼ばれていた。







 苔だろうか。青々と濁る川と、外界から渓谷を分断するように雄々しく伸びる木々たちを眺めながら、人々の往来に対してずいぶんと細く伸びる道をのらりくらりと歩いていく。
 木々の隙間、遥か頭上には、打ち捨てられた民家、(建設中なのか解体中なのかわからないが)カバーに覆われた暗灰色の建物。これを''不気味''というよりは''神秘的''と感じるのは、時おり響き渡る野鳥の声や元気に歩く年寄りの一団、優しげな光を零す木漏れ日のせいだろうか。
 のんびりと話をしながら笑い合うカップル。先走る幼子を呼び止める母親。毎日の散歩道をほのかに楽しむ街の住人。
 マイナスイオンというやつだろうか、川のせせらぎが忘れかけていた体の疲れを否応なく知らせてくる。それが溶け落ちつつあることも。たまの休みだが、こうして独りで来てみてよかったのかもしれない。羽虫がかすめた頬を優しく拭いながら、悠々と歩き続けた。







 短い橋を渡った先に''御手洗''と書かれた小屋がある。地図を載せた案内板。ベンチ。すこし開けた、ここがどうやらプロムナードの中間にあたるらしい。
 ''清掃中''の看板を横目にトイレに入っていく老人を横目に、ふとその傍らにある雑木に目をやった。

 ────なにかいる。

 生い茂る葉の隙間から、朱色に塗られたような何かが見える。少し目線を下げると、水色というべきか灰色というべきか、いずれにしてもやや地味な色合いの布地が見える。枝を踏み割る音。覗く白い足。衣服は着物だろうか。
 ''恐怖''、それとも''好奇心''だろうか。どちらともつかぬ感覚に囚われ、その場から動くことができない。ただ息を潜めて''それ''が動くのを見守った。

 雑木が茂る斜面の上、''鬼''と言っておよそ誰もが思い浮かべるであろう姿を、そこに認めることができた。朱色の顔、額には金色の角、足裏には踏み割った木の枝がへばりつく。地味な色合いの布地は着物のようで、なんならみすぼらしい、昔話に出てくる貧しい村民のようですらあった。なぜだか手足は白いのだが、それよりも苦悶とも悲哀ともとれる表情に顔を歪めていることが気にかかった。

 「''あれ''に見つかってはならない」と頭ではわかっていながら、その光景に釘付けになっている自分がいる。そして同時に、明らかに''異形''たるこの''鬼''と、そしてこの''異様'''から''目を離せない自分自身''について「誰かに見られたらどうしよう」と冷や汗を垂らす自分もいた。どうやら、見てはいけないものに、覗いてはならない不可侵の世界に出会してしまったようだ。そう直感した。
 先程の老人は個室に入れてもらい用を足しているのだろう。出てくる気配はなく、微かにだが清掃員が床を擦るブラシの音も聴こえてくる。なぜだか、出てくるな、出てくるな、と念じていた。

 ゆっくりと獣道を下る裸足の''鬼''。人が歩くために最低限整えたであろうその道の手前で足を止め、おもむろに傍らの枝に腕を回した。細い枝と葉を慈しむように頬ずりをする。それが愛しい人の亡骸であるかのように、''鬼''はその枝を抱き、決して呻くことはなかったが、悲しみに暮れているように見えた。
 しばらくして枝を惜しげに手離した''鬼''は、不意に跪き、足元の土を両手で掬った。いや、掘っているのだろうか。やがて黒土と枯葉にまみれた小さな何かを抱えあげた''鬼''は、それを深く抱きすくめ、枝葉にそうしたように頬を擦りつけた。
 ''彼女''は''母''なのであろう。

 ふと視界の隅に入り込む影があった。鮮やかな藍色の着物を纏い、こちらは足袋を履いている。顔は───''狐''、とでも言うべきだろうか。人間のような体つきをしているが、その頭部にはおよそ人間の頭部には似つかわしくない尖った耳と鼻が確認できる。蒼白の顔に、きつく吊り上がった目元の周りには朱色の縁どりが見える。化粧でもしているのだろうか。着物の質感や佇まいに品があり、それでいて気高くも見え、明らかに''鬼''とは身分が違う者であるように感じられた。

 ''狐''は''鬼''を見つけると、忍び足でゆっくりと、ゆっくりと近付いていく。背後に回る。
 感傷に溺れる''鬼''はそれに気付くこともなく、''子供''であろうそれが埋まっていた穴を掘り広げ、さながら土に沈んでいくかのようにその場に倒れ込んだ。自らを埋めているのだろうか。
 ''狐''は何をするでもなく、''鬼''の様子を''観察''しているようだったが、その眼差しは鋭く冷たく''鬼''に向けられ、あるいは''見張っている''ようにも思われた。

 それっきり''鬼''は動かなくなった。物言わぬ人形のごとく自ら掘った穴に横たわり、胸の上に置いた腕は力なく垂れている。
 ''狐''は動かなくなった''それ''をしばらく見つめていたが、やがて視線を逸らすと、くるりと踵を返し、しなやかな足取りで山奥へと姿を眩ませた。

 不意に寒気が走った。目が覚めたようにあたりを見回すと、木漏れ日は跡形もなく翳り、周囲はほんのりと薄暗くなっている。日が落ちてきたのだろう。人影も見当たらない。
 突如として我に返ったような気分だったが、未だ視界には動なくなった''鬼''の体が横たわっている。これをこのままにしてよいものか。背を向けるのもどこかおそろしい。答えを出せぬまま肌寒さに小さく身震いしていると、カサ、と枯葉が跳ねる音がした。

 ''鬼''が、のけぞっていた。
 背をのけぞらせ、いや、穴の中で浮き上がっているようにも見えた。呆気にとられながらその様子を見守っていると、今度はまるでたったいま目を覚ましたとでも言うかのように、伸び上がるような動作で上体を起こした。
 その場に座り込む形になった''鬼''はただただ渓谷の奥をじっと見据えていたが、しばらくするとすっくと立ち上がり、何事もなかったかのように元来た道を登りはじめた。

 かすかに見えた''鬼''の表情は先程とは打って変わって無表情そのものだった。悲しみ倒してすっきりした風でもなく、まるでまったく違う人物に入れ替わってしまったかのように不気味にけろっとしている。その雰囲気の変わり様に困惑しながらも、ただただ''鬼''の足取りを目で追うことしかできなかった。

 雑木の影に''鬼''が姿を消すと、不意に太く冷えた風が目の前を横切った。「これ以上ここにいてはならない」と言われているような気がして、あるいは自分が立っている場所と先ほどまでの光景がこの風によって断ち切られたような気がして、足早に遊歩道に駆け込んだ。







 何も考えずに歩きはじめたが、どうやら元の道とは逆、すなわち渓谷の出口へと向かっているようだった。
 しっとりと衣服に降りかかる冷気に肩をすくめながら歩いていると、小川を挟んだ橋の先に小さな祠を見つけた。のぼりも立っている。見れば神社の一角であるらしい。すぐ脇には上りの階段もあり、上がると神社の境内に出た。
 色とりどりの花が生けられた花壇や、日中は参拝客で賑わうであろう茶屋もあったが、今は犬を連れた妙齢の女性が手を合わせている以外に人影は見当たらない。

 門をくぐるとすぐ目の前に車道が広がり、商店やマンションがやわらかに視界に連なった。とろとろと横切る軽自動車。家路を辿る部活帰りの女子学生。自転車のベルを鳴らす老爺。夕暮れ時の人々の暮らしが、どこにでもありそうな街の息づかいが、そこかしこに散らばっている。そっと胸を撫で下ろした。







 乗換駅の喧騒を聴きながら、渓谷での出来事を思い返す。人々の暮らしの影に、密かに存在する世界がある。社会があり、悲哀と残酷がある。最後にあの''鬼''に起こったことはなんだったのだろう。死と再生、命の円環の未知の在り方、そういった類のものなのだろうか。あるいは単なる生態や性格なのかもしれない。

 きっとこんな話は誰にも信じてもらえないだろう。くだらない嘘をつかないとわかっている親友が同じ話を自分にしてきたとして、果たして信じられるだろうか。ただただ困ってしまうに違いない。この''ある休日の異聞''は、本を閉じるように、そっと胸の中にしまっておこう。



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「かくれが 2019 春」の感想に代えて。

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