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剥製の行く道(2023年11月28日の日記)

・最近Audibleではシリーズ物を読んでいて、ありがたいことに最新刊までがオーディオブック化されている。既刊10冊のところ、今は9冊目を読んでいるところだ。いつも驚きがあっておもしろいのだが、物語も佳境に入ったのか、主要な人物がぼこぼこと死んでいる。それどころか、主人公はほぼ闇堕ち状態となり混沌を極めていた。暗い話は好きだが、ここからどういうラストに繋がるのか気になる。まずは既刊を全部読んでからだけど、完結していないらしいので読み切ってしまうのが怖い。まだ残りを自分の意志で読んでいない状態で、先が出るのを待つ方が精神的には楽な気さえしてしまう。

・こんなに長い話を書いてちゃんと伏線回収をして辻褄を合わせる小説家ってすごいなあ、と月並みに感動してしまうな。



・剥製を見ると、ありきたりな感想ではあるものの、これが人間だったら大変なことだなと思ってしまう。壁に生首が掲げられているのと同じなのだ。我々がこうして動物を捕まえて皮を剥ぎ、そもそもきれいな剥製として保管できるようになるまで研究を重ねられたのも、ひとえに人間がこの地球上の生物の覇権を握っているからに他ならない。ある日突然山の奥からこれまでの比では無いほど大量の、かつ強靭な動物が押し寄せて人間を蹂躙するか、地球以外の星から文明的にも生物的にも遥かに強い生命体が飛来して人間より上位の存在となれば、この壁にかかるのは鹿ではなく人間の首になるのだ。もしくは、地球以外の星では人間がすでにこうなっているところもあるかもしれない。

・とはいえ、剥製を通してこうした残虐性やヒエラルキーについて考えさせられるのも、人間ならではの思考かもしれない。首を切られ、皮を剥ぎ、内臓を取り除いて皮の下に肉以外のものを詰めて薬品に浸す。そうした作業を受けることを尊厳の蹂躙や屈辱だと思っているからこそ、上位生物が現れれば自分がこうなる、と思うのか。人間の建物の中で仲間をこうした姿になっているのを同種の動物が見たとして、何も思わないのかもしれず、彼らにとっては、剥製にされるのも食肉にされるのも大して変わらないか、そのすべてに何も思うところなど無いのかもしれない。

・人間には、死したあとは葬られるべきという概念がある。埋葬の方法は様々だが、どんな方法を取っても、いずれは自然に還っていくものと捉えられている。生き物は命を無くすと物になる。物は大事にされる時期もあるが、いつかは疎まれてぞんざいに捨てられる可能性がある。そうならないように、生きていたものが物になる時間をなるべく短くしようとしているように思える。剥製は、そうした習慣や観念からは遠いものだ。命を無くしたものが自然に還ることなくいつまでもそこにある。生きているものが最後に持つとされる「死への尊厳」を踏み越えるからこそ、自分や周りのものがそうなることへ抵抗を感じるのだろうか。

・わたしは動物の剥製を見て、美しいと感じることがある。しかしそれは命あるものへ向けるものではなく、あくまで物としての感覚であり、これが自分が大事にしてきた犬や猫だったらまた話は別だ。個の生命として捉えていないからこそ思えるものである。

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