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きれいごときたないごと(2024年7月29日の日記)


・買っちゃってました。

・長年迷っていたコードレス掃除機と除湿器を一気に揃えてしまった。すごいぜ。ざまあみろよ。この数年モジモジモジモジしてたわたしよ。一気に買ったぞ。もうすぐ無職になるのにな!!!!!!

・実際楽天セールのポイント還元でかなり安く買えた。日立ではなくアイリスオーヤマの新しいやつ。せっかくならとアタッチメントがたくさん付いたオプション版にしてみたが、この大量のアタッチメントってどう収納しておくのが良いんだ?正直こんなにたくさんは要らなかったんだけど、車の掃除に使えるなと思ったホースのアタッチメントを手に入れるためにはアタッチメント全部乗せを買うしかなかった。布団用ノズルとかは正直使わないと思う。スタンドの脇に何か箱を用意するしかないのかな。結局使わない未来がうっすら見えるが、まあ良いだろう。思わぬところで使う可能性はある。隙間ノズルは普通に必要だしな。

・今は充電している。


・毎年この時期になると、子どもに向けて「良い感じの大人の言葉」を話す機会が多くなる。頑張ったけど大会で結果が奮わなかった子どもに、「頑張ったことは事実だし無駄にはならないよね」的なことを言っている。それは本当にそう思っているんだけど、子どもからしたら「何だこいつきれいごとを言いやがってよ」と思われているんだろうから、「きれいごとを言わせてくれよな!!!」と思いながらも同時に汚いごとも言うことにしている。大人になると汚いごとの方が多いから、こういう時くらいきれいごと言わせてくれやとも思う。きれいごとの反対って汚いごとでいいの?該当する言葉が無いな。

・基本的には「勝負の結果は受け止めろ」と現実を突きつけてから「でも頑張って来たよね」と優しくする飴と鞭方式で話すものの、どの程度伝わるものだろうかなと毎年悩んでしまう。100%の気持ちが全員に伝わるなんてことは不可能で、数人にわかってもらえれば良い方で、少し時間が経ってから腹落ちしてくれることもあるだろうし、一生受け入れられないこともあるだろう。

・大会という土俵に自ら乗ってきた以上は他者と比較・評価され順位付けされるのは当たり前だと思う。そういう「場」だからね。それはひとつの目標としてあるべきと思うけど、その結果とそこまでの過程を全部一緒くたにしてしまうと「結果が出なかった=努力が無駄だった」という図式になってしまうのでそこはある程度切り離してほしいなと思っている。結果が出なかったことに対して、努力が「足りなかった」「もっとこうするべきだった」と反省することは必要だが、すべてが「無駄だった」ということにはならない。その努力の過程には必ず自分の中での成長があったはずで、それは今後に繋がっていくものだ。ここですべてがリセットされるわけではなく、能力値は引継ぎされる。大会はその成長過程にあるイベントに過ぎない。その大会の結果如何で将来が決まるとかならまた別の話だが……。

・スポーツも芸術も、大会という「場」では他者評価や結果がすべてだが、根本的には自己研鑽として行っているはずだと思っている。自分のために、自分が昨日よりも良くなるために、うまくなるために今日の練習をする。それは大会が終わってもずっと続けられることだ。部活だったら大会で引退、ということもあるが、引退しても続けることは出来る。それを可能性と見るか、終わりのない地獄ととるか……でも結局のところはいつでも辞められる。わたしだって明日からもうピアノも楽器もやりません、となることが出来る。20年以上続けたことだって、ぽんと投げ出すことが出来る。それは別に悪でも何でもない。大学時代の知人が長年続けてきた楽器を「もう良いかなと思って」と辞めた時は驚いたけど「そうか、いつでもそうしていいんだ」と思った。

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