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怒りと生殖の狭間で/罪はいつも背後に(2021年7月23日の日記)

・今日は朝から知人の手伝いに行って、お昼にとんぼ返りし22時まで仕事だった。何だかぼんやりするな。明日も朝から手伝いに行くよ。

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・セブンのわらびもち新しいやつが出ていた!桃か~どうかなと思ってたけど全然おいしくて笑っちゃった。これの開発をしている人は神の舌をお持ちなのか?




・過去の罪はどのくらい「今」を裁けるのだろうか。

・いじめや犯罪のように、他人の人生を台無しにするようなことをしていたら、いくら悔い改めようと、どんなに他人を救おうと、壊してしまった人生があるという事実は消えようがない。

・だが思想は変わるものだ。過去、自分が抱いていた思想が、社会的には不適切と言われるものだったとして、今はそれを悔い改めていたとする。それでもそのひとつの過去の存在が、今の自分を追い落としてしまうのだろうか。

・自分が抱いていた思想のせいで、他人を傷つけていたという可能性は大いにある。程度はあれど「他人を傷つける」ことに差異は無く、それは等しく罪である。罪ではあるが…。

・「贖罪」したかどうかということなのだろうか。傷つけた者に謝罪し、気休めではない許しを得て初めて、過去は自分の後ろから遠ざかるのだろうか。

・しかし償おうとしようとも、しなくても、人が人の罪を見つけた時、その有無はあまり重視されないものだ。特にメディアという個人間とは比べ物にならない大きな媒体のもとでは、仔細に目を向けることの方が少ない。

・行動のすべてが等しく罪であり、それらがいつか自分を取り殺すならば。

・もうそうなら、全人類は一生のうちに一瞬も間違いを犯してはいけないことになる。そんなことが可能なのだろうか。

・今は「いじめ」や「差別」といったような恒常的な道徳に関わることに罪を問われている。今も昔も罪とされていることだ。実際その罪の内容には嫌悪感しか無い。しかし時代が進めば価値観はめまぐるしく変化し、道徳に関わることですら変化していくのだ。結局のところ、今回問題になっていたことですら、今の感覚で見れば吐き気を催す程の悪意に満ちた行為だとしても、当時は今ほどの反応を得られたとは考えにくい。それはSNSやメディアによって多くの人々の情報の共有が容易となり、価値観のアップデートをくり返してきたことによるところが大きいのではないか。20~30年前には歯牙にもかけられなかったようなことが今では立派な問題だと言えることが、現代には山ほどある。

・こうした指摘がエスカレートしていく内に、恒常的な罪ではなく、変化によって生まれた罪について過去を吊るし上げられるようになったら?

・人々は、常に自らの過去の発言に怯えることとなる。かつての自身の思想が、現代の悪となる日が来るかもしれないのだ。現代にもデジタルタトゥーという言葉があるように、一度外に出た言葉は消えない。何十年も前のSNSでの発言が、突然自らを崖下に突き落とすのだ。

・ここまで多少誤解を招く表現ではあったが、現在問題とされているいじめ行為等を肯定する意図は無い。某氏がかつて行った他者を貶めんとする行為は罪そのものであり、今回は最悪のタイミングでそのツケを自らの過去が取り立てに来たに過ぎない。

・ただ、こうした取り立ては、誰にでも起こり得ることだと思うのだ。とりわけ成功している時にやってくる。そうした時に人間の罪とは、その大小に関わらず、いつまで人の背後にいるのだろうか、と考えるのだ。

・「罪は償える」と言う人がいる。

・「罪は消えない」と言う人がいる。


・罪は償えるが、終わりは無い。罪は消えないからだ。


・償っても終わらないなら、それは償えないことと同義なのかもしれないが。

・いつかこの言葉が、価値観の変わった未来で、わたしを取り立てに来るのだろうか。


・まじめな文章はうまくまとまらなくて変な感じになってしまう。昔の発言が未来の自分を殺しに来るの怖いね!みんな気を付けようね!

・2行ですべてが要約できた。

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・セミがうるさい。セミの本能に組み込まれている、外の温度はこれくらいだよ、という情報はどのくらい前のものなのだろうか。近年は本能に教わっていたものよりもだいぶ暑くなっているのではないか?

・「こんなに暑いなんて聞いてないよ!!!!!!」

・怒りと繁殖の狭間で。

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