えぬわんを覚える過程(2023年10月16日の日記)
・げんなりげんなりしている。
・久しぶりに近所の盛りがすごくて安い店に行った。案の定胃がばんばんになった。最近昼を抜きがちなのもあって胃が縮んだ気がする。でも今日はとりあえずいっぱい食べておく必要があると思った。盛りのすごい店はその日その日で味の振れ幅がかなりある。今日は麻婆豆腐を食べたら普段の倍は辛かった。生姜が強い日もある。明確な分量のレシピとか無いのかな?これはこれで面白いからいいんだけど、ここまで違うと不思議ではある。
・先日久しぶりに知人の子どもに会わせてもらった。最後に会ったのは1年くらい前だったので、だいぶ大きくなっていた。自我もあり、たどたどしくも言葉を話す。純粋な感動があった。
・この間Xで子どもを持たない選択をした男性の今の気持ちといった投稿を見た。若者とは言えない年齢になり感じるのは、子どもは「未来」だということ、年々自分たちの世界が、人との関わりが狭まっていくように感じること、子どもがいない以上、自分たちの「老い」にのみ向き合っていく必要があること、子どもを持たない選択をしたことに後悔は無いが、ふとした時に、いたかもしれない時分の息子あるいは娘の影を見る、などといったことが書かれていた。
・それはあるだろうな、と思った。前にも日記で書いた気がするが、子どもを持たない以上、わたしはわたしの人生にのみ向き合い続けなければならない。そしてそれは、時間の経過とともにだんだんと出来ないことが増えていく、老いていく自分と向き合うことになる。さらにその老いを自分ひとりで見つめていくことになる。人間は死ぬときはひとりで、子どもがいたからといって何か安心が担保されるわけではない。そこは大前提としても、やはり血縁者の広がりというのは思いのほか心の支えになる場面があるだろうとも思う。こればかりは難しい。自分以外の人間、人格を何か特定の期待を持って生み出すことはある意味で醜悪だ。ただ、それだけでは済まされない大きな不安もある。
・知人の子どもに「くるま、なに?」と言われたので「N-ONE」と言ったら、「えぬ……えぬ、わん、えぬわん」と何度か繰り返して、数分後にはまた「えぬ……?」と首をかしげていた。習得の過程は本当に貴重だ。次に会う時にはこういう過程もすでに超えているかもしれない。
・うまい。しましまうまうまバー。昨日会った知人とこれの話をしたら、全員存在は知っているものの、だれひとりとして正しく商品名を記憶している人がいなかった。しまうましましまバー。しまうましまうまうまバー。
・ア~~~~。寝てた。今日の夜やることがあったのにな~~~日記も書いてないし。5時か~~~やるか~~~~~?????しかしこの頭のぼんやりした感じで例えば1時間作業して2時間寝たとしても起きられない気がする。このまま眠りに戻るしかないのか……くそ~~~。
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