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希死念慮への(2023年6月19日の日記)

・仕事終わりに近くのショッピングモールで歯磨き粉を見ていたら、知人に声をかけられた。全然人に会う心構えができていなかったので、最初の1~2分は脳が半分に割れて、半分では知人の名前を呼んで会話をしているのにもう半分では「〇〇さんってこうだっけ?」と思いなかなか芯が定まらなかった。会話と思考って分断できるんだな。その知人とは久しぶりなわけでもなく、何なら昨日会ったばかりだったから、より頭の中で像が結べないことに混乱したんだよな。


・電気屋でちびまる子ちゃんのシールをもらった。すごい。はまじと小杉のシールだ。貴重。

・部屋にまだこたつが出ている。布団部分を引っこ抜いて夏仕様にしなきゃな~と思ってはいるけど、夜はまだそこまで暑くないのと埃がたちそうなのでそのままになっている。今はエアコンをかけながらこたつに足を突っ込んでいる。さすがに電源は入れていないけど、テーブルがこれしかないので必然このスタイルになってしまう。


・最近知人たちの言う「死にたい」という気持ちを聞くのがしんどくて、前ほど寄り添えなくなっている。もともと自分がそういう人間だから、親しくなるのも同じようにほんのりとした希死念慮をいつも持っている人が多い。年中死にたいと言ったり、明確な自傷行為をする人はいないけど、心のどこかで何かに絶望しているような。

・寄り添えなくなってきているのは、カジュアルな「死にたい」だ。何か嫌なことがあった時に「死にたいよね~」と軽口を叩くことは今までも何度となくあった。しかし、祖父の死の後はそういう軽口ですら、同調したり流したりすることが難しい。つい最近までわたしもしょっちゅう口にしていたのに、今は「軽々しく言うんじゃねえぞ」と思ってしまうのだ。そういう軽口の中には、本当に深い意味が無いものと、深刻な気持ちを軽口のオブラートで包んでごまかそうとするものがある。みんなに生きていてほしい。だからといって、祖父のことを持ち出して「そういうことを言ってほしくない」と言ったら、確実に相手は黙るだろうけど、わたしの気持ちだけを相手にぶつけて押し黙らせることは正解ではない。みんな死にたいけど死にたくないし、死にたくないけど死にたいのだ。わたしもその気持ちが消えたわけではない。

・老人ほどお寺に行くのは何故だろうと思っていた。老人世代の方が、より自分の人生にお寺や仏教の精神が根付いているのかなと思っていたし、実際それもあるだろう。ただ、歳を重ねていく中で、自分の家族や知人がこの世からいなくなることが増えた時、死後の世界に想いを馳せる時間が長くなるのは必然なのではないか。

・わたしも祖父が亡くなった時に、住職がくれた冊子に書かれた仏教上の死後の世界についての記述を読んだ。何十日も何年もかけて、色んな神様のもとを巡るらしい。長旅だ。もう体は動かなくなった祖父を見て、今祖父の魂は神様に手を引かれて、自分の親兄弟や先祖に会いに天国(この場合は浄土)へ向かって歩いているんだと思った時、少しだけ救われる気持ちがあった。強い信仰心とかは無いけれど、魂があるならまた会える、そして祖父にまた会うには同じように寿命をまっとうして同じルートを辿れるような魂でいなければいけない、と思えたのだ。

・自分も今後年老いて、魂になった家族や知人が増えた時、よりその後どうしているのか知りたいと思って、お寺に足を運ぶことはあるのかもしれない。祖父にも、もう亡くなっているけれど、もう一度会いたいと思う人がいただろう。神様も仏様も天国も地獄も、本当にあるかどうかなんてわからないけど、祖父が会いたい人に会えて安らげる、そんな世界があってほしいと思う。

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