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これはわたしの恐れる無なのか(2021年8月30日の日記)

・数日前に近くのショッピングモールへ行ったら、ホビーショップが新しく入っていた。ガチャガチャの中身が箱で個別に売られていて、へえーと思いながらディスプレイなどを眺めていた。わたしは動物フィギュア系のガチャガチャが好きで見つけるとよくやるのだが、動物によっては大きさにかなり差があるため、出てきた時の重さで狙っていたものかどうかが開ける前にわかるということがあった。それでもガチャガチャなので回してみるまでは何が出てくるのかわからないのだが、だが、この店頭売りは、

・そもそも箱で並んでいるから箱を持った時の重さで中身の検討が付く!!!!!

・何ということだろうか。もう重さが明らかに違うのでわかってしまう。ガチャガチャのようにランダム排出ではなく、もう在庫が並んでいるので重さを比べて買うことが出来てしまう。おお…。わたしはこういったフィギュアシリーズの中でも大型動物を好む傾向にあるので、これはもう勝ったも同然なのだ。

・かなり迷った結果買わずに店を出たが、いいのかあれ。まあわかるのは大きいか小さいかだけだから、わたしのような大きい動物好きじゃなければ関係無いと言えば無いのだろうけど。


・寝つきが悪い時は波の音を聞いているという話をいつだかの日記に書いた気がするが、最近は水中の音を聞いている。プールの中に沈んだ時のようなゴポ…ゴポ…という音が永遠続く。あんまりゴポゴポいわれると逆に培養液に浸かる実験体の気分になるので、あくまで自然な感じがよい。子どもの頃はプールで静かに沈んで水中の音を聞くのが好きだった。風呂でも浴槽に沈んでは音を聞いていた。実家の風呂には「湯名人」という常に風呂のお湯をろ過し続ける機械が付いていたので、うるさくて聞けたものではなかったな。

・実際に水中に沈んでいる時は、呼吸の問題があるのでずっと沈んでいるわけにはいかないが、音声だけなら永遠に沈んでいる気分を味わえるのだ。

・そんなこんなで聞いている。波の音もいいが、水中の音の方がより精神が「無」に近づく気がする。無に近づけたところでいいことは無いかもしれない。正直なところわたしは自分が無に近づくことをかなり恐ろしいと感じている。恐ろしいから、忙しなく色んな趣味に手を出したりあちこちに出かけて行く。本当はたくさん趣味があると圧迫を感じるし、家でゆっくりするのも好きだ。それでも自分の存在が生産性の無い無に近づくことが怖いから、毎日そわそわと生きている。けれど水中の音を聞きながら布団に寝転がっている時、わたしは自分の皮膚感覚が無くなって空気と一体になっているかのような錯覚を覚える。これはわたしの恐れる無なのかどうかはわからないが、確かに安らぎを感じてはいると思う。

・今思うとプールの端で静かに沈んでいる子どもは十中八九溺れている可能性があるし、大人からすれば迷惑極まりなかっただろうな。


・お、何か今脳がゆらっとした。頭は動いていないのに視線がゆらりとする感じ。こういう時、わたしの中身だけ、頭でいうと皮以外の肉と骨と眼球だけが一瞬だけふりこのように動いているのではと思う。わたしの皮膚の目の部分から一瞬眼球が消失し、そこに空虚な穴のみが空いているのではと思う。これはどういう感覚なんだろう。わたしの人生のどのタイミングで得た感覚なんだろう。

・あー明日可燃ごみの日か。ごみまとめるの面倒くせ~。

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・職場のえらい人が差し入れてくれた。帰りに色々寄っていたらドロドロになっていたよ。悲しいね。

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