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理性とフィギュアの比例関係(2021年9月27日の日記)

・一日寝てたら一日終わったぞ!どういうことだ!

・最近フィギュアやらアクリルスタンドなんかが少しずつ増えていて、それらをきれいに置いておく方法を色々探していた。一番はやはりそれ用のディスプレイケースを買ってしまうことなんだよな。

・こういう。これいいな。

・しかし大きいんだよな〜できればこれがいっぱいになるほどフィギュアの数を増やしたくはない。増やさないでいたい…理性の力で…。あとわたしは家に親や友人が来る時にはそういったグッズたちを隠すので、ここまで隠しようの無いケースだと後々都合が悪い。隠しようがないくらいフィギュアが増えたらどうしようもないけど。

・壁につけられるタイプのものもある。きれいに並べたらいい感じだろうな~。しかし隠せない。今は部屋数が無いから出来ないが、将来引っ越して寝室が別になることがあればそこでやりたいな。そしてその部屋には人を入れない。

・ニトリでまだ理性の範囲内くらいの大きさの物を見つけた。このくらいの大きさで様子を見ようかな。背面も鏡になっているようだ。

・ブルーピリオドの最新刊を読んだ。今回もきっついな。表紙にもなっている、主人公の恩師がまた出てきて嬉しかった。この人好きなんだ。好きな感じの教師像。

・いや~ほんとさ…。美術に関わらず芸術分野に関心の薄い人間ってたくさんいるのはわかっているんだけど、ここまでまざまざと、しかもその美術に取り組んでいる子どもの親の立場としてそういう人間の存在を見せつけられると本当に吐きそうになってしまうな。

・いや、ちょっと違うか。この感情は芸術に関心の薄い人への気持ちじゃない。関心の持てないものなんて誰にでもある。そうではなくて自分の関心の無い、理解できない分野への無自覚で無神経な悪意に対しての嫌悪なんだよな。自分が理解できないからといって、それに取り組む人間の気持ちに無神経だったり、受け入れないのは違うじゃん。しかも今回は自分の子どものことで、美術教室に通わせているのは自分であるにも関わらず…。

・無自覚な悪意って本当にたちが悪くて、今回の話に出てきた親も、自分がしたことに対しての悪気がまったく無いんだよな。よかれと思ってやっているまである。想像力…。わたしは想像力の薄い人たちがこういうことをする傾向にあると思っていて、自分が理解できないことへの理解が低い。「理解できない」ことがあることを「理解しない」というか。わたしは自身が想像力があると思い切っているわけでは無いけど…思い切ってしまったらその瞬間に、わたしは想像力の薄い人間になるとは思っている。

・誰しも自分には理解できないことがある。それは当たり前で、無理に理解する必要は無いんじゃないかと思っている。ただ、自分の理解できないことをする人を自分の意識から疎外するのは間違っていると思うのだ。「自分の理解できないことを考える人がいる」と思うだけで、他人の心を土足で踏み抜く回数は減るはずだ。自分の中での価値観や物差しでしか物事を判断できないような大人にはなってほしくない。そういう大人に踏み荒らされて、未来を絶たれるようなことはあってほしくない。この物語の子どもたちも、自分の大切なものを大切に出来る環境で生きていってほしいが…。

・やっぱり難しい話はうまくまとまらないな。

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・ハーゲンダッツの無料券がまだあったから取り換えてきた。バニラとチョコで地層が出来ていた。うまい。

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