【無料】井上岳一・小山龍介対談|地域の新資本論とスピリチュアリティ
構想5年、書くのに4年かかったという『日本列島回復論 : この国で生き続けるために』。子どもの頃から植物が好きだったという井上岳一さん。講演では書籍に基づくお話をいただきました。
この記事では、講演の後半、小山龍介との対談をお届けします。
地域に眠る「文化資本」に着目したい
小山龍介(以下、小山) 文化庁の日本遺産事業に3年ほど関わってきました。地方の文化を認めていこうという方向はよかったのですが、補助金目的に申請するところもあったようでうまくいっているとは言い難い面もあります。
そのなかで、ぼくが可能性を見いだしたのは「地方を救うのは文化だ」ということ。資本主義社会の限界が露呈してきたいま、経済資本だけではなく、文化資本、社会関係資本など、いろんな資本のあり方があることに着目したい。地方には、文化資本が蓄積されていて、それが地域の魅力となっているんです。
また、移住のいちばんのハードルは教育。いまの地方の教育水準は劇的に低い。昔はもっと高かったはずで、地域にあったはずの文化水準が失われていると感じます。そこで、井上さんがおっしゃる山水郷の生活インフラに加えて、文化資本をどう取り戻すかを考えたいと思っています。
文化財保護の文脈をたどると、イギリスのジョン・ラスキンという経済学者にたどり着きますが、ジョン・ラスキンの言葉に「モノには、交換価値だけではなく固有価値がある」というのがあります。享受する人間の側で価値が現れる、と。お金を介在しない中での価値。自然界には固有価値があり、その自然からインスパイアされた人が新たな価値を生み出す。人がいて初めてその価値が顕在化します。
つまり、山水(自然)があり、郷は、人間がどうか変わるかで価値の現れ方が変わってくる。郷は、文化資本が重要なファクターで、文化資本があればあるほど、山水が固有価値を表現するということがあると思います。
そこで、認識論的展開をやってみたい。われわれは、山水に価値があると言いがちですが、人間の側の認識を変えて、山水が宝の山に見えるような取り組みができないかと。
それは極めて文化資本的な蓄積の議論で、文化資本が重要だという視点で地域に関わっていくと、移住者促進につながっていきます。いろんな地域を見ていると、若い人がそこで農業やパン屋を始めて、文化が生まれつつある場所があって、個人的にはそういう場所にすごく魅力を感じます。ここなら自分の子どもがパン屋や農業を手伝ったりすることで、文化的に豊かな感受性が身につけられるんじゃないかと。
というわけで、文化切り口、どうですか?
井上岳一(以下、井上) おっしゃるとおりで、自然資本があって、そのうえに関係資本があって、社会資本があり、金融資本がありますね。自然資本と関係資本の間に、スピリチュアル・キャピタルがあるという人がいる。これは、自然と社会の関わり、自然の見方、神という概念です。
実はこれが重要で、フェリックス・ガタリが「精神、社会、経済の3つのエコロジーの調和」という話をしていますが、いちばん重要なのは精神といっています。これは認識論の話で、認識を変えていくことで新しい社会システムや経済システムをつくる、と。
まさに日本の地方のお寒い現状は文化が破壊されてきたことに起因します。明治維新のときに、廃仏毀釈があって、それまで続いていた、大切にしていた氏神様を毀すようなことをしてきた。田舎に行くほど、たとえばナントカハウスを建てると偉いということになって、昔ながらの瓦の屋根や杉の黒板でできた農家が失くなっていった。田舎の人が自らその価値を捨ててきたんですね。文化の固有性に気づかないままどんどん失くしてきて、取り戻せないくらいに破壊しつくされている現状があります。
息子と一緒に、郡上八幡に行ったとき、お盆のシーズンで毎日盆踊りをしていました。そこには、山も川も文化もあって、人が生き生きして「郡上八幡は最高だ!」と5歳の息子が言ったんです。その足で豊田市まで行ったが、世界一の殿様の本拠地、豊田市は5歳には味わいのない街に見えたようです。経済的には潤っているのでしょうが、企業城下町には文化がない。数少ない昔ながらのものが残っているものを救い出して、どうやって未来に接続していくか……。
小山 そうですよね。京都で古民家壊された話もありました。重要文化財指定もされてなかったので、法律的には問題ないが、調べてみたら室町の頃の住宅だとわかった。それが最初にわかっていたら(重文)指定されていたと思うが、そうされると困るので不動産会社が慌てて壊してしまった。
井上 文化財になった瞬間に、たとえば、藁葺の屋根葺き替えに1億かかる。それはどうするの? という話になる。文化財保護をやっているデイビット・アトキンソンによると、日本の予算はイギリスの10分の1だそうですが、彼は文化財保護にもっと予算を使えば、それは低学歴の人の仕事にもなる、と。それはもうおっしゃるとおりですね。
海外の人が日本に価値を見出すのは、文化財、自然の景観、里山、原生林、東京や大阪の都市。リピーターほど、日本の原風景を見たいという。そういうものをきちんと保存、きれいにしてプレゼンする状態にしないと、文化財があっても文化があっても、宝の持ち腐れになってしまう。
自分の人生の時間を超えたスピリチュアル・キャピタル
小山 スピリチュアルなキャピタルがある、と先ほどおっしゃいましたが、スピリチュアルとは、自分の人生の時間を超えるということですよね。文化財保護も自分の人生を超えた時間軸を実感できるかが重要。古民家がすごいのは、400年、500年、子孫が使うことを想定してお金をかけて建てられていること。そこに、子孫に残すためというはっきりとした意思を感じます。
スピリチュアリティがなくなったのは、あらゆるものがスクラップアンドビルドでなくなって、資本が残らない。文化資本を残すためには、人生より長い時間、生き様が残るという話にしていかないと……。
井上 それがご先祖様ですね。柳田国男が、先祖の話をしていますが、戦争で無駄に死んでいった人たちの精霊の魂をどうやって浮かばれるものにするか。日本人はこういう世界観を持っていました。先祖は山に上って神になって、また郷に下りてきて、恵みをもたらしてくれると。
古民家は一部のお金を持っていた人たちがつくったものですが、畑や山林は、ふつうの人たちの日々の農作業の営みのなかで、長い時間をかけて、つくられてきた。土地を維持することに人々の力が使われていて、そこに悠久の時間を感じられます。
ぼくが二宮に住んで感じるのは土地とのつながりです。自分がいちばん安定した、と感じたのはそこでした。田んぼに石がひとつも残ってないのは先人たちが石を取り除いてきたから。そこに、人の気配を感じる。人がずっと生きて残してきた足跡や、維持してきた面影を感じられるんです。
戦後の高度成長期に郊外にどんどん家が建てられましたね。里山を切り崩してつくったニュータウンには神社がない。都心で働いて寝に帰るだけで、土地とのつながりがない。田舎から出てきてマイホームを持つ、というのが憧れで、そこである種財産は持てたが、そこには国土とつながりがなかった。つまり、ご先祖様とのつながりがない。それがスピリチュアル・キャピタルを毀損してきた。日本人が大切に守ってきたものがここで大きく変質したといえます。
国土とのつながりよりも「いつかはクラウン」のほうが大事だった。そういう時代を経て、それだけじゃ満たされないということにだんだん気づいて、自然とつながるというところに、いまたどり着いたのだと思います。現代社会は人とつながるだけじゃなくて、ご先祖様や未来という縦軸のつながりが必要な気がします。
小山 震災後に、ボランティアで学生を連れて石巻にいったのですが、そこでは他所の土地に引っ越す人もいるなか、残っている人たちは「復活させないと亡くなったひとに申し訳が立たない」という思いでいました。ここに、自分の人生を超越する一瞬が生まれていると感じます。自分が住むため、に留まらない都市設計を考えている。
牡鹿半島にいったときには、まだ自分の家が崩壊しているのに「まず神社の崩れた石を直してくれ」と言われました。家よりも何よりも神社が先だと。そういう感覚が土地と根づいていて、スピリチュアリティのなかで生きている生活の豊かさがあります。
土地とのつながりに加えて言うと、文化に親しめば親しむほど、その文化は先人から受け継いできたことだと実感されます。お能もまさにそうで、何百年も続いてきて、これを次に受け渡さないと申し訳が立たない。この循環に自分が入っていることを実感しています。
文化資本の視点でいうと、教育をアウトソースして学校だけで教えるようになったことが問題だと思うんですが、地域の中で受け継いでいく文化があれば、受け継いでいくという営みが人々を惹きつけることもできるんじゃないかと。
田んぼから石を取り除くように、地域の文化に自分の営みを加えて豊かになった文化を次の世代に受け継いでいく。土地と文化の循環を同じタイミングでやっていけるようになったら、これがひとつの復活のきっかけになると思うんです。
暮らしの営みに根づく文化資本と教育
井上 暮らしの営みの中に文化があると思います。確実に新しい物を加えて変わっていくのが文化で、古いものを守るだけじゃない。人の営みのなかで生き続けるのが大事だと思いますね。
小山 さきほどのジョン・ラスキンの話に戻りますが、ベネチアは現代になって問題が出てきました。ベネチアは浸水を防ぐために、町が生活の場として生きているときには、お金をかけて杭を打ち直していた。ところが、ある時期から所有者がそこに住まず、観光の場所になったところ、杭を打つことにお金をかけなくなった。死んだ町になってしまっているという指摘があります。ベネチアの浸水は、気候変動の問題もありますが、事情のひとつとしては、生きた文化がないという議論もあるんですね。
お能がおもしろいのは、人々の生活の中でイキイキと息づいていた点です。たとえば、小布施に行くと、お肴謡(さかなうたい)といって、謡を謡って盃を交わすという文化があります。謡われたら飲まないとならないし、飲まれたら謡わないといけない。地域の共通の文化があって、それによって地域がつながる。ところが、それがベネチアといっしょで、観光のための薪能など、生活と切り離されてしまった。私も能の先生と一緒に、生活の中の能をもう一度、取り戻せないかという活動をしています。
井上 必然性がないのが問題ですね。農村でのエンターテイメントが能とか歌舞伎しかなかったのが、いまは、テレビもあってスマホもある。この地域に根づいた伝統文化を守るというところでしか必然性がない。難しい問題ですね。
厳島神社も台風で流される。世界遺産であるためには原型の4分の3が残ってないといけないので、地元の人が流された流木を拾って修繕する。地域のシンボルを守るという、こういう肩肘張らずに日常の営みのなかで文化が生きているというのがいいですね。
小山 エイサーを子どもたちに踊らせたいからという理由で、沖縄に移住する人たちもいます。地域固有の文化をどう生活の中に取り戻していくか。できる限りスピリチュアルなキャピタルとしてどう捉え直すか。
井上 江戸時代、平均寿命も30年で子どももたくさん死んでいたので決していい時代とは思いませんが、教育という面ではよかったんです。人は、藩の範囲の中でしか生きられなくて、生きていくために教育をした。学ぶ必然性があったんです。藩やお家の経営をするという実践の場もあって、そのなかで実学が栄えました。いま地域を経営することと教育が完全に切り離されてしまって、教育がなにのためにあるのか、目標設定ができないのがいまの教育の問題だと思います。
市立武蔵野の教頭先生から高校生と社会を結びつけたい、ぜひ話を聞かせてほしいと連絡をいただきましたが、どういう方向で教育の質を高めるのか、そしてその方法論がわからないというのが課題ですね。
東大の異才発掘プロジェクトは、学校で馴染めない子達を地域に連れて行って、炭焼などの昔ながらのテクノロジーに出会わせることで異質の才能が発掘できるんじゃないかという試みをしています。ここに教育のヒントがあるんじゃないか。そして、地方創生のコンテンツのひとつが教育になるんじゃないかと予感としています。
井上岳一
(株)日本総合研究所創発戦略センターシニアスペシャリスト。1994年東京大学農学部卒業。Yale大学修士(経済学)。林野庁、Cassina IXCを経て、2003年に日本総合研究所に入社。森のように多様で持続可能な社会システムの実現をめざし、官民双方の水先案内人としてインキュベーション活動に従事。現在の注力テーマは「ローカルDXによる公共のリノベーション」。南相馬市復興アドバイザー。
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