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I know 'Ai-no-iro'.

僕は愛の色を知っている

愛の色を知っている
それはとても澄んでいて
それでいて
とても暖かい色をしている
透明だから見落としやすい
手を擦り抜けていくような気もする
だけどそれは
僕の心に
ずっとずっと貯まっていく
だから
これからも歩いていけるよ

はじまりのことば

初めましてこんにちは。
ここ、noteでは「環あぷら」として献血やうちのこかわいいを発信している、さまにゃんこ、という者です。詩を書いています。

愛ってどんな色だと思いますか?

ありがたいなって今では思うんですが、僕は今までいろんな人に愛されていました。
縁が切れた関係もあります。
今も続いている縁もあります。
世界からいなくなってしまった誰かもいます。
それは、僕の目の前から消えてしまっただけなのか、それとも本当に彼岸へ渡ってしまったのか、よく分からない誰かです。
一緒に居る時はただ楽しくて、思い通りにならなかったりもあって、その愛に気付けないほど、自分は愛を知らなくて。
いろんな人を傷付けたし、逆に、いろんな人を、知らず知らずに生かしてきたこともあると思います。

愛の色に気付いたのは、自分が本当にたった一人を愛した時でした。

愛は透明で、澄んで、だから、見えにくい。
けれどそこにある。
僕に見える愛は、黄色です。成分献血の、血漿を、もっともっと、薄くしたような、そんな薄い黄色。透明で、澄んで、とても、暖かな色。

愛って、恋愛が一番、傍から見て判りやすいものですけど、僕が今まで貰った愛は、友達からだったり、家族からだったり、SNSや趣味で知り合った人だったり、様々です。
もちろん、恋愛の、愛も貰いました。同じ人からたくさん、たくさんたくさん貰いました。

恋愛に関しては、音楽性の違いで解散しましたが、あの経験がなかったら、自分は愛の色に気付くことはなかった、そう思います。

愛の色は、見る人によって様々だと思います。
人間生きていれば絶望だってするでしょう。
仕事も上手くいかないし、人間関係も上手にやれない。
自分の悪い所ばかり目について、それでも死に方が解らないから、生きている。
いや、死に方は解るんですけどね。解るのとやるのは別の話です、はい。
そうやって絶望と惰性の中で生きていながら、自分では自分の中に嫌いな部分しか見つけられない。

その時に、死ぬなよって言ってくれる人がいるのって、すごくないですか?

いや、本当にすごいんですよ。

自分の悪い部分は、実際悪い部分なんですよ。
それでも、それを受け入れて、且つ、それがいいって言ってくれる人が、世の中には存在するんですね。
悪い部分をちゃんと見た上で、じゃあどうしていこうって、一緒に考えてくれる人がいるんですよ。

利害関係じゃないんですね。
愛って、自分の中にある、どうしようもない愛おしさのことなんですね。

僕はもう本当にびっくりして、びっくりしてしまって、それと同時に、僕だって、相手が絶望している時に自分の何を犠牲にしても守ってやろうと思えるほど、大事に想っていることにも気付いたんです。

そういう人が今までにもたくさんいました。
けれど、自分の中の愛にも、相手が向けてくれた愛にも、気付けていなかったんです。

独りで夜遅くまで仕事をして、職場に帰るまでの車で死にたいしか考えられないくらいになって、それでもどうしても声が聞きたい人がいて、ボロ泣きしながら電話をしたら聞いてくれて。

その時、初めて、愛の色に気付いたんです。

まぁ、愛に気付いたからと言って仕事や人間関係が好転することはないんですけどね。
ですが、事態が変わらなくても、新しい視点を一つ手に入れることができたわけです。
真っ黒な世界に、光り輝くような、透明で澄んだ、暖かな色が、付いて行くんです。

これは、そんなありがとうを綴っていくお話です。

愛を信じていなかった時の僕は

まず、傲慢だった時の話をします。

まぁ、今でも傲慢であることは変わりないと思うんですけど、それでも、それが傲慢であると知ることができたのは成長だと思っています。

恋愛に限らず、友情とかもそうですけど、好きになってある程度交流を深めてくると「何で解ってくれないの」がやって来るじゃないですか。
裏を返せば、解ってほしいんですね。

昔は駄々を捏ねていました。

でも、どうして相手に向き合うのではなくて駄々を捏ねていたのかというのを考えてみると、根本的に人間を信じてなかったからなんだと思います。
少なくとも、僕の場合は、人間を信じていなかったから、
「何で解ってくれないの」と思いながら、「どうせ解ってなんてもらえないしな」と思って、話し合うという選択肢より簡単な駄々を捏ねる手段を選んでいたんだと思います。

この、人間を信じていないというのは根が深い問題なのでさらっとしか書かないのですが、
外面だけはいい酒乱の暴力親父(後にニート)と、
複数人姉妹故に親に構ってもらえないまま育った卑屈な母親、
その間に生まれて、
兄の方が問題が多かった故に放任されていて、

どこに愛を信じる人間になる要素があるんだよって、なりません?

これだけしかピックアップしてなくても、愛ってよく分からんなって思いますね。

なので、僕は順当に、その辺によくいる人間関係クラッシャーに育ったわけです。
たぶん刹那主義なのも、何も信じらんねぇなっていう、どうしようもない過去の蓄積から「今だけでも楽しければいいじゃん」になっているような気もしますね。
自分を形作るいろんなことが、愛だとか、人間の中に無条件の温かい感情があるということとか、そういうのを信じていなかったことに由来しているような気がします。

何が悲しいって、世間を見ると、同じような人間関係クラッシャーめっちゃいるんですよね。
人様の親を直接会ってもないくせにこういうことはあまり言いたくないんですけど、
世の中毒だらけだなって思います。

別に毒の中で育ったからって毒になるかどうかとか、
毒の中で育ったから自分は被害者だとか、
そういうつもりは全然なくて、ただ単純に、世界は毒だらけだから、これが普通なんだと思ってたんですよね。

だって大恋愛だとか言っといて離婚だってするし、暴力だってあるし、外面なんて誰でも作れるし、
世の中の愛なんて紛い物だよって、思っていたんですよね。

でもそれって自分が受け取り方を知らなかっただけなのかもしれない。
自分に本気で向き合ってくれた人は実はたくさんいて、
まぁ傲慢だった当時はそれが素直に受け取れなくて駄々を捏ねて切れた縁がたくさんあるわけですが、

今、その人達が本気で向き合ってくれた言葉達に、僕は生かされているのです。

愛って遅効性の薬なので、その時に上手く作用しなかったものが、今更心に沁みて、もうちょい生きておくか、と、思えるわけです。

虚言癖、人間不信、からの偽善

僕は虚言癖の人間とだけは本当の本当に合わないんですけど、これは二十代の終わり頃に虚言癖の人間が僕の人生に出現してめちゃくちゃにするだけして消えていったからなんですけど。

当時働いていた喫茶店、めっちゃ忙しくて、人は辞めていくし、そういう絶望的なタイミングで、物腰柔らかそうな女の人が新しくやって来たんですね。

まぁ正直常に「私ってこんな身の上で可哀想で」を言ってきたり、
「可哀想だったけど安居金毘羅にいって悪い縁が切れて」とか、
ああそうなんですねかわいそうですね仕事はもうちょい頑張ってくださいねって感じだったんですけど、

何故かめっちゃ貢がれまして。
当時、ゲームから刀剣にハマって、という流れがあったのでよくそういう楽しい話をしてたのですが、刀剣関連の諸々とか押し付けてきたり、
あと仕事終わりに一緒に何か食べて帰ろう、みたいなのもありましたね。

この何か一緒に食べて帰ろうは、今まで優しくしてくれた辞めてしまった人達もやってくれたことだから、普通に受け入れていたわけですけど、

アパートまで着いてくるって言うのは、正直今考えたら正気の人の行動じゃなかったと思いますね。

しかもしかもそういう人って裏で悪口言ってるんですよ。
常連さんが、ある日突然僕のことをディスってきたり、意味が分かんなかったんですけど、その人が辞めた後に、
「虐められてるって聞いてたけど嘘だって知らなくて……、」とか言ってきて、どういうこっちゃねんて、なりましたね。

ちなみにその人が居た時に、レジの金が毎回合わなくて、しかも一人頑張ってくれてた学生君も不審な辞め方をしたり、本当、めちゃくちゃにされましたね、喫茶店自体も、僕の心も。

当たり前なんですけど、荒んでる時って、全てに荒んでるんですよね。

趣味の仲間も失いました。
でもそれは荒んでるからって相手の言葉を受け取れなかった自分にあると思うんですよね。

そういうわけで、僕は、虚言癖が、大嫌いです。

人間不信になって、趣味の仲間も失って、それでも人手が足りないから働き続けて、引っ越しして、

引越も最悪でしたね、
その虚言癖の人にもアパートバレてるし、そもそも大家が信用できない物件だったので引っ越したんですけど、
精神病んでる時に隣人ガチャに失敗するという。

そういう時に出会ったのが、献血です。

実は趣味の仲間で一人、絶対そりが合わないけど周りも仲良くしてるし仲良くしてた人が居て、その人がよく、
「即売会とかで献血しても私は断られるから腹立つ」みたいなことを言っていて、
その時は、低血圧は献血できないよとか、献血のネガティブな情報しかなくて、ふーんとしか思ってなかったんですけど、

死ぬ前に本当に自分が献血できないか試してみよう!

という安直な理由で献血ルームに行ったんですね。

元来の偽善者気質と、貧乏育ちの根性論で生きているので、やるだけやってみようかなって感じでした。

一番のネックは低血圧なので、活動しまくったりして、血圧測るタイミングだけ血圧クリア出来たらいけるやろって思って行ったら、本当に献血できてしまって。

できるんかーい!

ていう。

その時に言われた「血液濃いですね」って言われたので、偽善スイッチ入りましたね。
「自分の人間性にどんなに価値がなくても自分の血ってめっちゃ価値あるんじゃん!」

単純でよかった。本当に。

今考える時間があるのでよく考えるんですけど、この偽善者気質なのも、愛を信じていなかったから、どうにか必要とされたくて偽善者してたら身に付いてしまったのかな、と、思います。

それの良し悪しはどうでもよくて、ただただ、愛を知っていたら偽善者にはなっていなかっただろうな、と、推察したというだけです。

献血を通して世界が病んでいることを知る

人間不信になって死に損なって死ぬ前に献血しとくか、と、安直に始めた献血なんですけど、めっちゃ楽しいんですよね。

元々血液が好きなので、
まぁ、自分のですけど、血液が合法的に見れるし、よく分からん機械見れるし、
看護師さん全員優しいしVIP待遇だし、いろんなもの貰えるし。

病んでる時って世界の全てが敵に見えるから、看護師さんに優しくされただけで優しさが身に染みて、合法的にタダで優しくしてもらおうとして行ってた時もありますね。

あと吃驚したのが、
僕は口に出して看護師さんに伝えたことはないんですけど、献血中に隣で献血してる人が、
「自分に価値がないからせめて献血ができないかと思って」って言ってるのを聞いてしまって、
自分以外にもそんな心理の人が世の中に存在するんだなぁ、と。

献血ってもっと意識が高い人達のための場所で自分は場違いなんだと思っていたんですけど、全然そんなこと、なかったですね。

それを聞いてから、献血中にも人間観察をするようになったんですけど、たぶん皆結構病んでるんですよね。

献血中に喋りたい人は一定数いて、内容をまじまじ聞いたりはしてないですけど、日常生活の鬱憤が溜まってそうな人達の多いこと。
黙って暗い顔で献血されているだけの人もいるし。

逆に、病んでない人もめっちゃいます。
人生楽しそう!
めっちゃ明るく最近あった嬉しかったこととか話してる人が居ます。
まぁ僕は積極的に看護師さんと話すとかはないですけど、どうせ話すなら明るい話題の方がいいなって、そういう明るい人を見ていて思います。

献血をしている人だけじゃなくて、献血ができない人達を見ていても、世界が病んでいることを知れます。

これ結構重要な問題だと思うんですけど、
精神疾患で投薬している人が、多いんですよね、実は。

普通のふりして生きていても様々な精神疾患で投薬しているから献血できないなあという人がめちゃくちゃいます。
たぶん病んでる人って血液見るの自体は好きだと思うんで、ここ利用できたら血液って結構手に入る気がするんですよね。

死にたい時に適切に医者に掛かった人は薬で献血できなくて、
死にたい時に金がなくて医者ではなく献血を選んだ人はそのまま医者に頼らないで生きてたりする。
どっちがいいかは分かんないですけど、僕はたまたま金がなくて医者という選択肢がなかっただけなので。

献血できないもいろいろあるので精神疾患で薬を飲んでいるだけがどうこうっていう話でもないんですけど、ただ、自分が献血をしているから、そういう人が目に付くというだけです。

世界、病んでる人間たくさんいるし、自分が病んでても別にノーカンでしょ。よかったよかった。

こんなに誰かを好きになることある?

僕は今属性としては独身アラフォーなわけですけど、一時期めっちゃ愛されたことがあったんですよね。

僕は結構人間性に難があるし、いろいろ不出来なんですけど、その人は、僕の躁だって、セルフネグレクトだって、希死念慮だって、全部知った上でめっちゃ好きだったんですよ。

変人か?

全部知った上でここチョイスするとかある?

あるんですね。あるんですよ。

その時に愛を貰って、貰っただけじゃなくて、
「もうこの人のためだったら自分の何を犠牲にしても自分ができることなんでもしてやるわ!」
そう思えた時に、あ、これが愛かなって思いましたね。

相手の悪い所、いい所、よく分からんところ、自分に見える全部を理解した上で、それでもその人のために何だってしてあげたいっていう勝手に溢れ出てくるこの感情が、たぶん、愛なんだと思います。

一番最初に言ったんですけど、僕にとっての愛の色は、薄い、成分献血の黄色をもっともっと薄くしたような限りなく透明に近い黄色です。

愛は、人によって見える色も違うでしょう。
それは、それぞれの人がこれが愛なんだなって理解するものが違うから、色だって違って当たり前なんだと思います。

その人が僕に死んでほしくなくて「辞めていいんやで」って言ったのだって、
その人に死んでほしくなくて寝る間も惜しんで車ぶっ飛ばして会いに行ったのだって、
どっちも形は違っても、愛なんだと思うんですよね。

自分の中にこんな何を犠牲にしても相手を大事にしたいなんて気持ちがあるなんて知りませんでしたね。

あと、好きすぎて相手に感化されるやつとか。
僕は愛媛県出身で大学から京都来てますけど、言葉なんて全く移らなかったし、自分の方言だって好きだったけど、気が付いたら関西弁ちょっと喋るになってましたね。
相手も愛媛の喋り方移ってるし。

ノリで閉館する間際に志摩マリンランドに行って、その帰りに天岩戸って標識を発見したからって二人で登って、こっちがどんどん行くから拗ねたくせに、結局またそういうことしてるし。
嫌って言ってたくせに車中泊するようになってるし。

相手も自分も、お互いの好きなもの好きになって、好きが増えて楽しかったですね。
もう目に映る全てなんでも好きなんじゃないかってくらい好きでしたね。

結果的に今は方向性の違いで解散しましたが、
今でもポケモンのマンホールは自慢してくるし、ガンダムのマンホールだって写真送ってくれるし、職場がなくなる話の時はめっちゃ心配されたし、

いや、職場なくなる話の時は前回ブラックな現場職辞めた後に病みまくってたりセルフネグレクトでいろいろやらずに「こいつ放っておいたら死ぬのでは?」っていうのがバレてるからだと思いますけど。

そうやってひたすら愛されて、ああこれが愛だったんだなって理解できるようになって、そのお蔭で、昔気付けなかった愛にも気付くことができたんですよね。

いろんな時にいろんな人に大事にしてもらって、それは、友情ではあったけど、確かに愛されていたからなんですよね。
そしてそれを享受してるだけでなく、自分もその人に笑っていてほしかったし、その人が凹んでる時は会いに行こうと思ったり、何かをしてあげたかった。
これも愛だったんですよね。
自分で、気付けてなかっただけで。もったいないことしましたね。

誰だって自分が何故気に入られているのか解らない時が多々あると思うんですけど、そういうことを分析するのは野暮で、
何でか分からんがどうしようもなく好きなんだな!
という事実があるだけなんだと思います。

それはそうとして、自分は、誰に対しても好きな部分は言える人間でありたいなって思うんですけどね。

ありがとうとごめんなさい

愛の色を知るきっかけになった人のお蔭で今があるんですけど、その人と一緒に居て本当に感謝していること、それが、ありがとうとごめんなさいだったりします。

ありがとう、言えますか?

ごめんなさい、言えますか?

僕は昔は素直にそれを言えなかった気がします。
ありがとうって何かをしてもらった時だけじゃなくて、例えば褒められたときに素直に受け取ってありがとうを言えるかどうかとか。
何かあった時に、とりあえず謝っておけ、ではなく、ちゃんと何が悪いか考えてごめんなさいって言えるかどうか。

僕は何かをしてもらった時にもあんまりありがとうを言えてなかったし、ちょっとのことなら悪いと思っててもごめんなさいを言わなかったし、まぁ本当に難の多い奴だな、と、自分でも思います。

これ、言えるようになります。

一緒に居る時間が長い人が、自然にありがとうって言ったり、ごめんなさいって言ってくれたり、こちらがミスをしたことを認めた時に「許す」って言ってくれたりしてたら、言えるようになります。

ソースは僕です。
僕しかソースがないので他の人は知りません。
でも、自然にこれが言えるようになったのは、すごく自分の人生で大きいと思っていますね。

ありがとうもごめんなさいも、究極的な話をすると、自分の気持ちを伝えることができて、それを受け入れられた、というのが大事な部分なんですよね。

あとありがとうって言われると純粋に嬉しい。
やって当たり前って思っていたことでもありがとうって言われると嬉しいし、今まで他の人に言われてきたありがとうを、やっと嬉しく思えるようになったというか。
文章として伝えるの、上手い言い回しが浮かばない未熟な僕ですが、とにかく純粋に嬉しいんですよね。

あと、ごめんなさいが一言あるだけで自体が円滑に進んだりするんですよね。
自分だって、ごめんって一言言ってもらえるだけで、昂った感情に一呼吸置けたりするので、世の中って案外、そういうたった一言の積み重ねで回っているのかな、と、思います。

今友好関係を続けている人とかによく「好きなものを好きって言うタイプ」だと認識されているようですが、それも、一言伝えるだけでお互い嬉しくなるな、ということを知れたから、思ったプラスの感情は伝えるようにした結果ですし。

一緒に居て、いい部分をたくさん吸収させてもらいましたね。

じゃあその愛をどうしようか

愛されたり愛したりって、いいことしかないですね。
好きは増えるし、世界に色があることを知れるし、自分がどんなに自分を肯定できなくても、肯定してもらえるし、
肯定だけじゃなくて、合わないこと、間違っていること、いろいろ踏まえた上で、労力を持って向き合ってくれる存在。

別れたという意味では、そういう存在を失ったように見えるかもしれないんですけど、
僕はもうたぶん、人生において、希死念慮に駆られてもその選択肢を選ばないという点において、すごく大きなものを得られたと思います。

じゃあ、その愛をどうしようか。

今生きていて思うんですけど、世界って実は愛で溢れてるんですよ。
病んでいてそれに気付けないとか、気付く気すらないとか、そういうスタンスの人は申し訳ないですけど知ったこっちゃなくて、
自分はこの世界が愛で溢れていて、様々な色で色付いていることに気付いて、そういうものを大事にして生きていきたいなって言うだけで。

自分が大事にしたいだけ。
他の人がどうするかは本人が決めることなので。
僕は、そういういろんな愛の色を探して拾って、その色で文章を綴っていきたいなって、それだけ。

幸運にも自分は日本語で言葉を綴ることができるので、そうやって生きている間に見つけていったいろんな愛を、エッセイや、小説や、詩や、様々な文章創作で綴って生きたいなって思っています。

その中で、自分が拾って描き直した愛が、誰かが愛の色を知るきっかけになったら、それってすごく素敵なことだなって思います。

あと、僕は本当にいろんな人と出会って、いろんな人に大事にされてきたので、そうやって得た嬉しいや楽しいは、どんどんいろんな人にも返していきたいですね。
本人に返すことがもうできないから、せめて、まだ続いている縁やこれから出会ういろんな縁に対して、そういうことを返していきたい。

たぶん生きていたら誰かを傷付けることもあると思うんですよ。
それは人間はだれ一人同じ考えの人間はいなくて、だから齟齬が生まれたり、食い違って傷付けたりはある程度は仕方ないと思うんですよね。
ただ、積極的に相手を傷付けたり、相手の誠実さを踏みにじったりをしないように気を付けていきたいと思います。

なかなか難しいですけどね、蓋を開けたら皆傷付いとるやないかいってあるかも。
それでも、自分を偽って語る愛ってあんまり意味がないので、自分なりの形で表現していくしかない。

本当に人って同じ人間が一人もいないから、似ているところだけを集めても沈んでいくだけだし、全然違うを見て傷付いたりすることもあるから、なかなか難しいですけど。

自分だって嬉しいと楽しいと愛をたくさんもらったんだから、
傷じゃなくて愛を遺して生きたいな、と、思うのです。

まずはそう思ってないと、愛なんて小っ恥ずかしくて綴っていけないですからね。
人生、目標なんてなんぼあってもいいんです。

願わくば、この文章を呼んだ誰かが、愛の色を探してみようと思えますように。

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