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人生とは何が起きるか分からない。


まずこちらの記事からお読みいただきたいのですが、


親に反抗、社会に反抗していた22歳の私は、もともと患っていた難病SLEが悪化して、手術をしました。
人生初の手術、そして入院。

今思うとこの時私は、精神的に一度死に、生まれ変わったように思います。

それまでの人相は目つきが悪く、性格は悪態だらけ。
「なんで私ばっかり!」が思い癖で、全員敵だと思って生きてきた。

それなのに、全身麻酔から目が覚めた私の内側は静かで、ありのままを見つめ、受け入れ、その上で前に進むことに決めたのです。


夜の女から転身、雑貨屋に出会う。


大阪に一人暮らし。
あわよくば、手術が終われば今の仕事を続けるつもりだった。

だけど、「もう辞めよう」と心は決まっていて、退院後すぐに借りてた部屋を引き払い、千葉の実家に帰った。

当時はまだ22歳。
人生はまだ長い。私はこれからなんだって出来ることを、初めて思い出したのだ。

退院してから1年後。
それまで夜の仕事しかして来なかった私は、人との関わり、普通の接客業、常識、社会性のリハビリを兼ねて、近所の雑貨屋で働くことを決めた。

私を面接した当時の店長は、「新しいことをどんどんやってみよう」という前向きな気質で、若手の人材を求めていたこともあり、私を即日働かせてくれた。


店内どこもかしこも薔薇柄まみれ。
20代前半の私から見たら、少し”おばさんくさい”と感じたお店のテイスト。
だけど好きも嫌いも特に何も感じなかったのは、働き始めるまで私は、”ただのレジ打ち”、”店番”、”バイト”くらいにしか思っていなかったからだと思う。


1日の仕事量はそんなに多くなかった。
というのも、お客さんが多いお店じゃなかったから。

お店の体制は、朝からの午後までのパートさんが1人、午後から夜までのパートさんが1人、朝から夜までのフルタイムが1人。
私が慣れるまでは、そこにもう一人フルタイムの人か店長がいて、基本的に一日3人でシフトを回していた。

検品と品出しは午前中に終わらせて、午後はレジ番をしたり各自の担当売り場を手入れする。
…と見せかけて、古株のパートさんで成り立っていたそのお店は、基本的にみんながレジ周りの一箇所に集まって”おしゃべり”で1日が終わっていた。

私はそれがすごくつまらなくて、なるべく話しかけられないように売り場の遠くに隠れて、ひたすら掃除をして誤魔化していた。

パートさんの言い分では、「假屋さんもちゃんとレジをやってほしい」。
私の言い分では、「自分たちが好んでレジ周りにいるのだから、自分がやればいい」。

全く価値観が合わず、私は新人当初から店長以外にはあまり好かれてはいなかったように思う。

とにかく私は、検品と品出しをしては、自分の売り場に行き、毎日毎日ずっと掃除をしていた。

雑貨、食器、食品、インテリア小物、服、ガーデン雑貨。
様々な商品カテゴリーの中で、私ははじめにリビング雑貨を任された。
タオルや文房具、ぬいぐるみやよく分からない置物の担当。


自分好みじゃないどころか、興味すら持ったことのないジャンル。
だけど、お店のスタッフとの人間関係から逃げるために、そしてやることのない暇な時間を潰すために、毎日私は、”よく分からない”商品と向き合っていた。

そうすると気付くことが山ほどあって、まず店内がよく見るととても汚いのだ。

新しく入荷したものをどんどん前に並べ、同じ商品でも”いつ”入荷したのか分からないものがどんどん後ろで埃をかぶって死んでいた。
よく分からない置物は、よく見れば腕が欠けていたり、値段が分からなくなっていたりして、ただのガラクタになっていた。
そんな商品が、山ほど店内にはあったのだ。

オープン当初から働いているパートの人たちは、今日も楽しそうに話している。
何年も変わらず、新しいものを前に出し、古いものや面倒なことには目を向けず、それで仕事を終えたら家族に「今日も楽しかった」と言うのか、それとも「今日も疲れた」と言うのか。

私は黙々と、毎日大掃除をして過ごした。
タオルをたたみ直し、埃を落とし、並びを変えて。
何年も売れ残っている商品が、たった一人にでも目に止まり、触れてもらえるように、この商品はこっちに置いた方がいいんじゃないかと試行錯誤していた。


「いつもある場所に行ったら無くて困った」
「場所を変えたなら言って欲しい」

古株の人たちからはそう言われ、そこで「そうなんだ」とコミュニケーションを学びながら、任された売り場は堂々と変えて行った。

ある日、いつものように売り場の掃除をしていると、「これ可愛いわね」と声をかけてきたマダムがいた。
手に持っていたのは、ブリキで出来たカエルの置物で、先日私が腕の一部が欠けているのを見つけ、30%オフになったやつだった。

「でもこれ、どこに置いたらいいのかしら?」

そう言われて、私はすぐに答えられなかった。
当たり障りのないことしか言えず、もちろん買ってもらえなかったそれを見て、私の心に火がついた。

ずっと売れ残っていたものを、手に取ってくれた人がいた!
可愛いと言ってくれた!
私がもっとうまく伝えられていたら、買ってもらえたかもしれないのに!

それから私は商品部の人や店長に、積極的に聞くようになった。

「これはどうやって使うのか」
「どういう風に置いたらいいのか」

休みの日に買い物に行くときは、雑貨屋を必ず見て回るようになった。
ディスプレイの仕方、POPの書き方をすぐ次の日真似をした。

どんどん商品に詳しくなるので、「なんだろうこれ?」と不思議そうに手に取っているお客さんがいたら、教えたくて喜んで声をかけた。

そうしていたら、「じゃあ買ってみようかな」と言ってくれる人が増えて、古くなって何年も眠っていた商品が回転し始めた。
たたみ直したタオルは、プレゼントのまとめ買いに選ばれて、よく分からなかった置物は、いま誰かの家に飾られている。

いつの間にか、私が担当した売り場の売り上げは前年の10倍になっていた。

働き始めて半年、私がこの店の店長になる。


私が働き始めて約半年が経った頃だった。

たった半年内で私を面接した一人目の店長が変わり、2人目の店長までもが他店舗に移動になるという話が出た。
私は1人目の八木店長も好きだったけど、2人目の南波佐間店長が大好きだった。

年齢は2回り半ほど離れていたけど、とてもパワフルな方で、商品のことを愛していて、1聞いたら10答えてくれる人だった。
私に働き方を教えてくれたのは、南波佐間店長だったと今でも思うほど、彼女からは本当に多くのことを教わった。

そんな店長が、移動してしまうなんて!
これから私は一体誰の下で働けと言うんですか!
とショックを受けていたときだった。

「そこで、假屋さんがこのお店の店長をやってみないか」

そう提案されたのだ。
店長が出来る人材が少ないこと、出来れば今いるスタッフの中から店長を出して欲しいと会社に言われていること。
私がやらなかったら、古株のあの人になるとのこと。

働き始めて半年。
人生で初めてまともに働き始めて半年、と言っても過言ではない。
そんな私が、店長になるとは。

売り場の一角ではなく、全体を管理する。
一番新入りの私でいる方が、仕事量も責任もはるかに少ない。
店長手当てなんてたった1万5000円くらいだった気がする。

不安や面倒くささよりも、”あの人”が店長になることだけは許せない!と私の中で何かが立ち上がり、社員になることに決めた。


当然私に至らないことは山ほどあった。
それよりも、気になっていることの方が山ほどあった。

お店にお客さんが入ってきたら、全員で挨拶しましょう。
レジ当番を決めて、その人以外はレジから離れましょう。
各自自分の売り場のディスプレイを変えていきましょう。
新商品を目立つところに出しましょう。

「食器のディスプレイは入れ替えるのが大変だ」
という人がいた。
「パートタイムだとそこまでする時間がない」
という人もいた。

「手伝うから、やりましょう!」

そう押し通して、一時期はうまくいってたんです。
変えたら必ず動きがあって、「昨日あなたが変えたところからまとめ買いがあったよ!」「売れてたよ!」そういうのをみんなで共有し合い、お店の雰囲気がかなり良くなっているように感じてた。


だけど、滅多に来ない商品部の人がたまにお店に来ることがあって、「なんでこれここに置いてるの!」と、私たちがアレンジしたものに指を指す。
ディスプレイは全店舗共通にしている。私たちが提案した通りに置いて欲しい、と。

「でも、これにしてから売り上げが上がっています!」そう言っても、駄目の一点張りで、なんなら商品部の人が並び直しをしている。

あぁ、あそこは昨日あの人が頑張って変えたばかりなのに…そう思いながら、どんどん直されていく店内に、皆がやる気を落としていった。

売り上げを上げようとアイディアを出し合い試すことが、商品部から注意される種になるのなら。
どうせ、売り場を一生懸命変えたって、また直されるだけだ。

“それをやって何になる?”

やる気に満ちていたお店の空気が一転して、商品部の人に怒られない方を皆が選択し始めた。 
どうしたら良いのだろう。
私も肩を落としていたそんな頃、私の人生で初めての、「面接をする」という仕事がやってきた。これが本当に難しかった。

面接では良さそうに思えた人が、いざ働き出すと、褒めて欲しい、認めて欲しい、その欲求がかなり強いタイプの人だと知った。

「自分はこんなに大変なんだ」ということを理解してあげないと、「不満」になって行く。
注意すれば口を曲げる、褒めたからと言って伸びることもない。
どうしたものかと頭を悩ませていた。

そしてとうとう、その人が、私がいないところで私への不満をこぼすようになった。
それがウイルスのようにじわじわと広がり、もともと古株の人たちの中にあった、「自分たちより遅く入ってきたくせに偉そうだ。」という心に秘めていた私への不満と融合し始めたのだ。

「働く場所はいくらでもある」
そう言って、新人の人も含め2人やめた。

その時に、人事部の人が私にこう言った。
「假屋さんは厳しすぎる。それじゃあ誰も着いて来ない」と。

なぜ、日々私のことを見ていない人にそんなことを言われないといけないのか。
なぜ、辞めて行くパートの人の話を信じ、私の話は聞く耳を持たないのか。
なぜ、数少ない店長(社員)のケアはしないのか。
それは、その分だけのお給料をあげてるでしょ、それがあなたの仕事でしょってことなのか。

頑張ってきた私の心に違和感が生まれたのは、店長になって1年目、働き出して1年半が経ったこの頃だった。

四柱推命との出会い

雑貨屋の仕事を始めて、季節ごとに入れ替わる商品を眺めながら、気付けばあっという間に季節が巡っていることに気付く。

30代で独身女性の他店舗の店長が、最近マイホームを自分で購入したことを聞いた。
出会う時間がない、恋愛している時間がない、そう言っていた。

そうやって私も気付けばここの会社で何年も過ごすのだろうか。
働き始めたばかりの新鮮な気持ちは薄れ、「頑張っていたって報われない」そんな現実に心が折れ始めていた。

何か新しいことでも始めてみようか。
そう思いスマホを眺めていると、一つの講座が目に止まる。

幸せ美女講座、みたいなそんな感じの名前だった気がする。

今までの人生で、【幸せ・美女・講座】どれもが一度も触れたことのない言葉だった。
女性が女性らしく幸せになるための、ちょっとしたお作法を学ぶような講座だったと思う。
面識もなにもない全く初の場所だったけど、何だかうまくいかない仕事一筋で生きるより、プライベートを充実させようと思い、えい!っと申し込んだ。

結果として、そこで出会ったのが四柱推命だった。

講座が全回終わる頃、講師の女性が四柱推命を学び始め、モニターを案内されたのだ。
それまで占いに興味を持った事はなく、どんな占いかも分からなかったけど受けてみることにした。

日程が決まり、案内されたのは六本木のとあるレンタルスペース。

少し緊張している私に、優子さんは「舞ちゃんはこんな星があるよ〜」と話し始める。
わがままで気が強くて、頑固な人。そう言われた時に、なんで分かるの!?と驚いた。
生年月日から出した私の命式という情報の中には、自覚をしていれば隠せたかもしれないけど、自覚をしていないから丸出しで、自分だけが分かっていない”私”がそこにいた。

話を聞き終わった後、「私もそれやりたいです」と口から先に出ていた。
どうやったら私も学べますか?と。

そうして、四柱推命の先生を紹介してもらうことになった私は、初めての感覚に興奮しながら家に帰った。

部屋から出たときに見えた東京タワー。


まさか私が占い師になるなんて


2014年の春から早速スクールが始まった。
私の転機となる入院していた頃も桜の時期だった。

あれから2年後に、まさか自分が占いの勉強を始めているだなんて。
千葉から毎月品川へ。見上げるほど高いマンションの一室で、鳥海先生との授業が始まった。


著名人の多い先生の話は面白かったし、家族と雑貨屋での人間関係だけだった私にとって、新しい流れだった。
先生の生徒さんが集まってカラオケパーティーをしたり、決起会に参加したり。

そんな新しい出会いもありながら、お店のスタッフの命式を見ながら、スタッフの得意不得意を星を見ながら研究していた。

フルタイムで働く、自立心の星がない斎藤さんは、確かに「やって欲しいこと」を細かく伝えた方が良い人だった。

知性の星がない新人の加藤さんは、本当にメモを取らない人だった。
「それこの前教えたよね」がストレスの種だったので、メモを取ることを勧め、彼女のメモを取る速度に合わせて話をすることにしたら、何度も聞かないといけない加藤さんと、何度も教えないといけない私のお互いのストレスがかなり減り、そして加藤さんの成長に繋がった。

行動力の星が多い古谷さんと田中さんには、繁忙期にラッピングに回ってもらい、人脈の星が多い私と斎藤さんでレジや接客に回る。
遊び心の星がある人たちの書くPOPはイラストが多く、遊び心の星がない私は文字しか書けない。


自分の当たり前が、皆の当たり前ではないことに、ようやくその時に気付くことが出来た。
出来ないことばかりに目がいっていたことに気付き、だけど私に出来ないことを皆がやってくれていたことにも気付いた。

そのことをスタッフ全員に共有して、私たちは実はお互いに支え合っていたこと、それぞれの個性が発揮されていたこと、本当はそれこそがすごく良いところだったことを伝えた。

もう一度、この会社で頑張れそうだと思っていた。

だけどその一方で、四柱推命の面白さに夢中になっていたのも確かなことだった。
もっと知りたい、もっとやりたい、もっとこれを伝えたい。
雑貨屋で毎日、毎シーズン、変わらないことを繰り返すよりも、何かもっと自分にしか出来ないことがあるんじゃないか。そんな気持ちが膨らんでいた。

なぜなら、自分の原点に繋がるものがあったからだ。

自分のことが全く分からなくて、悩んできた。
ついこの間までは社会に馴染めず、人間関係もうまくいかず、不満ばかりの人生だった。

入院という大事を経て生き直し、たどり着いた今。

雑貨屋の仕事は、リハビリのつもりだった。
気が付けばここの環境にどっぷり浸かって時間だけが過ぎていくのは嫌だと思っていた。

1年かけて四柱推命を学び終え、占い師としての小さな一歩を踏み出したのが2015年の3月だった。
アメブロを始め、本当に少しずつ占いのことを自分なりに考え、向き合い始めた。

あれだけ難しかった雑貨屋での人間関係は、私が私の当たり前を皆に押し付けていたからだった。

「なんでこんなことも気付かないの」
「なんでこんなことも出来ないの」

私が一人でイライラしているだけだった。
そしてきっと同じように、私は気付いていないこともたくさんあって、そのフォローを密かにしてくれていた人がいたはずなのだ。

そういう優しさや有り難さに気付かず、傲慢だった自分を知り、もしかしたら辞めていったスタッフたちとももっと違う関係を築けたのかもしれない可能性を知った。

仕事だけじゃない。
家族との関係についても同じだった。

うちの両親はどちらにも自立心の星がなく、遊び心の星が2人の性質の多くを占めていた。
それだけどいつもピリピリしていた理由は、「親だから」と自分に似合わないことをやろうと、本当にとても頑張っていたのかもしれない。

そう思ったら愛おしくて、そしてすれ違っていた時間が切なくて。

世の中にはそんな人たちがたくさんいるのかもしれない。
今しかない尊い時間を悩みに使い、本当はもっと良くなれる関係性に終止符を打ち、だけど自覚がないからこそ本質的な部分は何も変わらないままの自分で、同じ問題を繰り返す。

そう思ったら、やっぱり何か出来ることはないかと、私の意識は新しい道へと向かい始めた。

お友達が鑑定会を開いてくれた。2015年8月22日



假屋舞です。
高校を卒業してから夜の仕事でしか働いてこなかった私が、2012年に持病のSLE(全身性エリテマトーデス)での手術を機に生き直しを決めてから、その後2014年に四柱推命に出会い、2015年から子宮推命と命名した独自の占いを研究し、2023年に壱岐島リトリートハウスマノアを完成させるまでのノンフィクションを思いっきり振り返りながらお届けしています。


現在、自分らしく一生輝くための1年間のコンサル、假屋舞のガチコン。
子宮推命講師として占い師になるための、自己学習用DVDボックス。
個人セッション等、募集しています。



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