考えなくてもいいことを考えている気がする

悩みすぎてハゲそう。
そんな軽口を言ってしまうくらいには、毎日毎日何かに悩んでいる。どうにも止められるものではない。止められるのなら最初から悩みはしない。止められないから悩んでいるのであり、悩んでいることに悩んでいる。
もはや悩んでいることが当たり前であり、悩んでいないことに不安感すら覚えるようになる。そうなってしまえばもう末期で、もはや悩みとどううまく付き合っていくしか方法がない。
などと言えばなんだか大げさな話に聞こえるかもしれないが、常に不安感を覚えながら生きている人というのはそんなに少なくないのではないだろうか。ぼんやりと薄い膜が掛かったかのような、そんな曇った視界で日々を過ごす人。焦燥感に背中を焼かれながら、のたうち回って這いずる人々。
そんなに悩むことがあるか、と問う人もいるだろう。もっと軽く考えて生きてもいいと。それは正論だ。その通りにできたらどんなに良いことか。それができないから悩んでいるのである。そんな当然の帰結も分からないから能天気に過ごしていられるのだ、と皮肉の一つも言いたくなるものだ。

とは言え、解決法が分かっているのにそれが実行できないというのは、それはそれで問題を抱えている。そもそも悩み続けている、なんて状態が健全であるはずがない。どれほど理屈をこねようとそれは異常だし、鼻歌交じりで悩まなくたっていいのにと言う彼らの方がよっぽど正常だ。
どうして、そんな風に思い悩み続けるのか。思うに、情報過多であることが大きな原因の一つではないか。SNSが隆盛を極めた現在、タイムラインを一たび構築すれば、自分から情報を集めようとしなくても情報の方から勝手にやって来る。知りたい情報も知りたくない情報も、おしなべて流れてくる。もちろん、ある程度流れてくる情報を意図的に選別することはできる。しかし他人が触れるトピックを完全にコントロールしきることはできない。一人一人が流す情報は限られていても、フォローした人数だけ上限が増える。そうして、情報過多になっていく。
情報に溺れて、考えることばかりが増えていく。思い悩むということは、考えることがあって初めて発生することだ。だから、この二つは密接に関係している。
実際のところ、その大半は考えなくてもいいことなのではないかと思う。考えなくても生きていけるし、考えない方が楽に生きられるのではないかと思う。例えば社会問題。あまり表立って言及こそしないが、TLでは多く流れてくるトピックの一つだし、興味深い話もあればどうしても考えざるを得ない。こうした問題に向き合うのは、少なからず必要なことなのではないかと思う。しかし一方で、生きていく上で本当に必要かと自問すれば、その限りではない。生きていくことに必要な問いと、社会的に必要な問いとでは、本質的に異なるのだ。
関心はある。しかし考えても答えの出ないことに思いを巡らし続けていても、いい加減神経が衰弱する。たまには考えたくなくなる。全部投げ出して、無責任に放言して、全て清算したいと思う日がある。
もちろん、先に挙げたのは分かりやすい顕著な例というだけで、他の色々な事柄に対しても同じことを言える。生きていく上で考えねばならないこととは実はそう多いわけではなく、だからそれ以外のことは余分と言えば余分で、いっそ何も考えずに過ごしていた方がよっぽど楽なんじゃ、と思うこともある。

考えなくてもいいことを考えている気がする。そのせいで、なんだか疲れてしまった。日々を生きるのってこんなに大変だったっけって、毎日どこかでそう思っている。たまには考えたくない。悩みから解放されたい。生きることを休みたい。
今なんかは特にそうだ。悩むことに悩んでいる。単純に悩んでいるだけより二倍の悩みだ。そんなこと考えず、当の悩みを解決することに勤しめばそれでいいはずなのに、解決の見通しが立たないから仕方なく悩んでいる。
本当に何も考えないのは突き抜けたバカだが、程々にバカになればきっとそんなに悩まずに済むのだろう。でも逆のベクトルに突き抜けたバカだから、悩むことに悩んでいる。それを分かっていても、悩むことをやめられないくらいに。
さすがに、ちょっと疲れてしまった。考えることは生きることだ、そう自負していた時期もあったはずなのだが。生きることを休むのって、果たしてどうやればいいんだろうか。それにすら悩んでいる。

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