NEEDY GIRL OVERDOSEについての感想文/我々は如何にしてあめちゃんを救うのか

NEEDY GIRL OVERDOSE(以下NGO)について
聞きかじりみたいな知識で語る。ネタバレ注意。

前置きは割愛する。
ひどくシニカル(冷笑的)な視線で描かれた物語だと感じた。人によってはトラウマにもなり得る展開・描写がとても多い。作中で示された「真実」も、プレイヤーの精神を攻撃するに足る内容だったように思う。しかしだからこそ、この作品には特異な価値が生まれたと言えよう。
いきなり核心に踏み込もう。「ひみつのこと.txt」についてだ。
これはピにすら打ち明けていない、あめちゃんの本心について書かれたテキストファイルだ。そしてこのゲームの根幹を揺るがす内容ともなっている。それについて触れていく。触れなければならない。
その内容とは、「ピ」の設定についてだった。
つまり、プレイヤー≒ピはあめちゃんが作り出した架空の人物。設定を練って話し相手として据えたに過ぎず、初めから存在などしていなかったのだ。
恐ろしいのはこれが幻覚や思い込みで存在していることにしていたわけではなく、自覚的に妄想とやり取りを交わしていたことだ。それはこの「ひみつのこと.txt」の存在からもはっきりと分かる。自ら「設定」と明言しており、「ピ」が架空の存在であると認識している。その上、次の「ピ」の設定についても言及されており、こうした営みが以前より繰り返し行われていたことを暗示している。
プレイヤーはプロデューサーとして、「超てんちゃん」の活動を指示していた――それは全くの誤謬で、実際のところあめちゃんが自分で活動の何から何まで一人で決め、そして行動していたのだという事実を突きつけられる。考えてみれば、この「ひみつのこと.txt」が読める「Data0」ファイルがそういう話だった。自分で考え、自分で行動し、そして目標の100万人フォロワーを集め、あめちゃんは小さな窓から去る――だから捨てられた。プロデューサーとして配信活動を支える役割を与えられていた「ピ」は、一人で活動しても何ら支障なく目標が達成できると分かり、不要な存在となってしまった。何か干渉できる気になっていた我々は、初めから干渉などできない、「ただ見ているだけの存在」だったと突きつけられるのだ。これほど残酷なゲームはなかなかない。お前は無力だとひたすら教えられるのだ。
その喪失感、裏切られたような絶望感は、一種の失恋にも近い感覚なのではないだろうか。Data0は全てのエンディングを見ないと到達できないシナリオだ。あめちゃん、あるいは超てんちゃんとのエピソードの数々は、思い出と言って差し支えないだろう。時間をかけて交わしたやり取りの集積は、そこで生まれた感情は、きっと妄想などではない。単なる空虚から生まれた思いは、あめちゃんがその場を去ってもなお強く彼女を求める。置いて行かないでくれとこいねがいたくなる。その感情こそ恋と呼ぶにふさわしかったのではないだろうか。しかしどれだけ願っても、彼女が「ピ」を妄想と呼ぶ限り、我々の元に戻ってくることはないのである。

悪質だと感じるのは、これが恐らく意図的な構造だということである。
理由は本作の主題歌PVだ。サビで本作のタイトルを踏襲した歌詞が登場するのだが、「NEEDY GIRL」が「2D GIRL」と、ダブルミーニングで表記される。作中ではあめちゃんは生きている人間であり、超てんちゃんもVTuberの類ではなくコスプレをした配信者として画面に現れる。終始一貫して生身の人間として描かれているのだ。ではこのPVの「2D GIRL」とはいったい誰にとっての表記なのか?言うまでもなく映像を見ている我々、ひいてはプレイヤーにとってのあめちゃん=ゲーム内キャラクターに対する表現だ。二次元キャラクターへの恋が成就しないことは、オタクなら誰でも知っている。分かっていてなお恋をする。だからこの失恋は必然で、制作者が意図した構造だと言えるのだ。
しかし恋が成就しなくとも、人は人を思うことができる。その相手の幸福を願い、祝福することだってできる。「でも幸せならOKです」という言葉が流行ったこともあった。きっとあめちゃんの幸せを願うこともできるだろう。ならばあめちゃんは幸せになれるのだろうか?
答えは発売前に公開されたゲーム紹介PVにある。本作の特徴として、マルチ破滅エンディングがウリの一つと挙げられていた。マルチ破滅エンディング――ハッピーエンドはそこにない。プレイヤーは彼女を幸せにすることができない。いや、初めからプレイヤーが干渉できる余地などなかった。あめちゃんが勝手に破滅していく様を、ただただ見ていることしかできない――オタクは無力だし、インターネットは悪意に満ちているし、薬は一瞬だけの陶酔にしかならず、好きだったあの子はもう戻ってこない。そんな現実を突き付けてくる。これを悪質と呼ばずしてなんと呼ぶか。極めつけは「Happy End World」。特殊な条件を満たすことで見られる隠しエンディングだが、その条件がなんと実際にネット回線を切断すること。内容は超てんちゃんが本物の天使になると宣言しインターネットを去ってから、徐々にネットからは人が減り始める。SNSで発言する人間も目減りして、最後の一人が誰へともなく呼びかけると、いなくなったはずの超天ちゃんが降臨する。が、それは幻覚だったようですぐに消えてしまい、それ以降誰も発言しなくなる――誰もがインターネットから去ってしまった。「インターネットやめろ」なんてミームが定着して久しいが、それを地で行くエンドだ。皮肉なのはBGMがメインテーマ曲のチップチューンアレンジになっていて、底抜けに明るい印象を与えていること。インターネットはすっかり寂れてしまったが、それはネットに逃避するような人間が現実と向き合うようになったということの裏返しなのかもしれない。今現在進行形でネットに浸っている我々に対して、実に冷笑的なエンディングではないか。しかしだとすれば、これは唯一のグッドエンディングと言えるのだろうか。あめちゃん自身、ネットは自分の居場所だが、同時に自分に不幸をもたらす場でもあるという自覚を持っている。ネットがあるが故に破滅の袋小路に陥った彼女のような人間は少なくはないだろう。そうした人間にとって、インターネットがなくなることは、不幸の種が一つ消えるということでもある。「インターネットをやめろ」を大真面目に真顔で唱えられるような人間が制作陣にいるのなら、このエンディングが唯一のハッピーエンドとして隠されていてもおかしいとは思わない。しかしそうだとしても、超てんちゃんが「本物の天使になる」という表現がいったいどんな意味を示しているのかを考えると、安易に彼女が幸せになったとは言い切れない。やはり、「マルチ破滅エンディング」を謳ったのは伊達ではないのかもしれない。
結局どこまで行っても、あめちゃんが救われる道はないのだろうか。初めから存在しない我々では、救うことなど不可能なのかもしれない。しかしそう結論付けるのも、また安易ではないかと思うのだ。
「ピ」は存在しない人間だった――果たして、本当にそうなのだろうか?
それを疑い出せばキリがない。「ひみつのこと.txt」に書かれたことを無視するつもりか。それは妥当な反論だ。しかし一方で、「あめちゃんが書いた」というその一点のみで疑うことなく信じ切るのもまた軽率な判断ではないだろうか?

「ひみつのこと.txt」について、本記事では一切触れていないことが一つある。それは稚拙なイラストの画像ファイルが最下部に添付されていることだ。
クレヨンか何かで殴り書きをしたような太さの線で、黒髪と金髪の少女が並んで立っているイラストが描かれている。言うまでもなく超てんちゃんとあめちゃんだ。幼稚園~小学校低学年程度の絵柄だろうか。幼い頃のあめちゃんが描いたというのであれば微笑ましいイラストだが、果たして超てんちゃんは幼少期から練っていたキャラクターだったのだろうか?
あめちゃんの画力が幼稚園児と大差ないという可能性も、否定しきれるものではない。しかしどちらかと言えば、こう考える方が妥当だろう(制作者はこちらを意図していることだろう)――あめちゃんは幼児退行しているのだ、と。
「ピ」=白馬の王子様と捉えれば、飛躍しているというほど発想に隔たりがあるわけではないことも理解を得られるだろう。承認欲求をこじらせている内に、あるいはそれよりずっと前に、あめちゃんの精神は崩壊していた。なればこそ、「ピ」などという空想の産物をあたかも実在しているかのように振る舞えた。それはさながら、子どもが時折生み出す、イマジナリーフレンドのように――これが制作側の意図した「オチ」なのではないか。なるほど、そう考えれば相応に説得力のある筋書きになる。
だが、本当にそうなのだろうか?
その「オチ」は確かに鮮烈で衝撃的だ。本作の真相として明かされるに足る真実だろう。だが、それは真っ向から否定し合うこの「オチ」が持つ強度に勝るものだろうか。すなわち、
「ピ」が妄想の産物であると、あめちゃんは思い込んでいる。
あまりにも意外性のない話で拍子抜けさせただろうか。しかし様々な可能性を検証する中で、「ピ」があめちゃんの妄想である可能性を妥当と考えるならば、そう思い込んでいるという可能性も同様に妥当であって然るべきだろう。
何も「その方が蓋然性が高い」という話ではない。「ピ」が実在すると考えた方が自然なこともある、ということだ。
作中では「Do you love me?」のエンドなど、「ピ」がいるはずのシーンでも描写がされず、自撮りのようなアングルでの写真しか表示されないような「伏線」が仕込まれている。だからこそ「ひみつのこと.txt」の記述も真相であると信じることができた。
しかし一方で、「ピ」がいることで初めて成立するイベントもある。両親への挨拶イベントがそうだ。愛情値の上限が20増加する、幸せ絶頂期真っただ中の象徴的なイベントだが、これも全て妄想だったというのだろうか?それはそれで成立するのが空恐ろしいことだが……これを自覚的に演技しているというのなら、それこそ狂人の域ではないか。
他にも、配信中に物音がするイベントもある。実は「ピ」が立てた音でした、で解決した一幕だったが、これも存在が虚構だったと仮定したらおかしなことになる。まさか本当に心霊現象だったとでも言うのだろうか?別の意味で鳥肌が立ってしまう。
一番不思議に思うのは、イラストをクレヨンで描き殴るほどの退行を見せているにも関わらず配信者として立派に活動し、案件も受けられるほど自立していることだ。少なくとも表面上は社会性を持った人間として振る舞えている。エンディングによっては(結局失踪してしまうが)バイトを始めるような社交性も見せる。だからこそ「ひみつのこと.txt」は大きな衝撃としてプレイヤーに揺さぶりをかける。しかし日常と真相と、その落差にどうにもちぐはぐな印象を受けるのだ。
これに合理的な説明を与えるなら、あめちゃんには二つ以上の人格が備わっているということだろう。そして私はこの説をこそ推したい。人格が二つあるとすれば、普段は表に現れない人格こそが幼児退行していると考えられる。そして「ピ」のことを理想化し妄想だと思い込んでいる。それが「ひみつのこと.txt」の真相だった――これまでの描写が矛盾なく両立できる上、自分が実は存在しなかったという悲しみを背負わずに済む。あるいは、彼女を救えるのではないか――本編で見ることの叶わなかったハッピーエンドも、あるいは到達し得るのではないか。そう夢想することができる。
もちろん言うまでもなく、それは現実には起こらなかった。本編で描写された通り、「マルチ破滅エンド」の謳い文句の通り、あめちゃんは絶望しながら、あるいは破滅へと突き進みながら、その全てのルートで役割を終える。しかし初めから救われない運命であることと、「もしかしたら」と希望を持てる、その可能性があることと、この二つには大きな大きな差があるように個人的には思うのだ。そしてその思いこそが、この文章を書く原動力だったのだ。


ところで。
文学作品研究において、「テクスト論」という考え方がある――作者と作品を切り離し、書かれていることのみで読解する。テクスト(作品)単体で判断するというのは、特にSNSが普及してからは、「テクスト論」などという用語を使わなくとも一般的に行われてきているように思う。それくらい普遍的な考え方ということだ。
しかし個人的な心情として、やはり作者の内面から生まれ出た作品をそれ単体で評価するのは、そこに確かに含まれている様々な要素を取りこぼしかねないと思うのだ。だからあえて、ここではその「テクスト論」とは逆を行ってみたい。
本作のテキスト担当はにゃるら氏。ライターとして活動しており、Twitterなどでもしばしばバズるツイートがある、一昔前の表現をするなら「アルファツイッタラー」的な存在だ。本作に厭世的・退廃的な雰囲気がそこかしこに満ちているのも、彼の才能が遺憾なく発揮された結果だということは言うまでもないだろう。その独特な雰囲気こそが本作を本作足らしめているのだ。
ゲームが一人の手によって制作されるものではないことは言うまでもない。しかしにゃるら氏はテキストのみならず、本作の企画自体の担当でもある。作品の全体の方向性を決定したのは間違いなく彼だ。その源流、根底も彼の内にあると見て間違いないだろう。実際、本作のテーマソングである「INTERNET OVERDOSE」の作詞もにゃるら氏が担当している。今日までに登場した名作ADVの象徴的なワードを盛り込んだようなこの歌詞が、そのまま本作の世界観と結合している。様々な美少女ゲームが下地となって本作が生まれたということでもある。それは他でもない、にゃるら氏がこれまでにプレイしてきたゲームなのだ。
これが何を意味するかというと、本作はにゃるら氏の価値観が非常に色濃く反映された、個人的作品の側面が強い内容であると言えるのではないか、ということだ。だとすれば、なおさらにゃるら氏の思想や価値観を探ることは作品読解に繋がると言えるだろう。志賀直哉や武者小路実篤のように、私小説的な作品を読解する際に本人の日記や当時の人間関係、地図を調べることは初歩の初歩である。本作が個人的作品であればこそ、テクスト論的読解よりも効果的な手法であると言えるのだ。
少し回りくどい言い方をしたが、難しいことは何もない。単に過去の本人の言葉や著作に当たればいい、というだけの話である。
例えば、『承認欲求女子図鑑』。にゃるら氏が様々な女性にインタビューをし、その内面にスポットを当てた著作である。いわゆる「病んだ」人々の生い立ちや思考、生活などが赤裸々に著された本書は、一部NGOに活かされているのではないかと思える記述がいくつも登場する。インタビュー対象としても、「配信者」や「自傷」「オーバードーズ」など、あめちゃんをイメージできるワードが頻出する。本書の取材で聞いた話が、後の作品描写の下地になったことは想像に難くない。さらに言えば、本書に挿入されるイラストの担当はお久しぶり氏。言うまでもなく「NGO」のキャラクターデザイン担当と同一人物だが、氏を起用したのも本書での出会いがきっかけだったと後のインタビューで語っている。キャラクターデザインがゲームイメージに直結することを考えれば、本書はゲームイメージを形作った、「NGO」を構成する大きな要素の一つと言えるのではないか。
では立ち返って考えてみよう。何故本作はマルチ破滅エンドなのか。あめちゃんは決して救われることがなく、必ず破綻した結末を迎える。一種のセンセーショナルな宣伝文句と捉えることもできるが、本作が育成ADVの構造を取っていることを考えると、そのエンドに一つも救いがないというのはやりすぎというか、何か一つの思想が感じられないだろうか。破滅しなければならない理由があると考えられないだろうか。
そこで私はこう仮説を立てよう。「誰にも助けてもらえないから破滅する」のではないか、と。
本作は――プレイヤーの存在はさておき――少なくともあめちゃんの主観においては、「ピ」は空想の存在であると結論付けられている。それは本記事においても否定していない。あるいは実在するかもしれないが、「ひみつのこと.txt」を書いたあめちゃんにとっては、「ピ」は想像上の存在だとされていた。システム的には操作するプレイヤーがいなければゲームは進行しないが、「Data0」で示された通り、実際にはあめちゃんが全て一人で選択して行動していたと推察される。つまり、彼女に手を差し伸べることができる、彼女を救う存在はゲーム中には存在しなかったのだ。
「他者の存在」について、先述の『承認欲求女子図鑑』でも触れられていた。例えば支えてくれる彼氏がいて、なんとか日常を生きることができる女性がいた。理解を得ること、支えられることは破滅しないでいられる大きな理由の一つだ。
これは何も、インタビュー対象の女性に限った話ではない。にゃるら氏自身が経験に基づき語ったことでもある。
かつて精神を患っていた彼は、当時シェアハウスで同居していた住人たちに助けられて毎日を生きていた。オーバードーズの結果、破滅的な日常を送ったことすらある。それでも道を踏み外さず今日まで生きてこられたのは、間違いなくシェアハウスの同居人の存在が大きいと。大分意訳を含んでいるが、概ねこのような旨の記述があった。つまり、にゃるら氏は他者の存在の大きさを実感を持って捉えているということなのだ。
そう考えると、「ピ」の不在も、あめちゃんの破滅的結末も、全てが一本の線で繋がる。自分の経験ほど強固な説得力を持つ理由は他にないだろう。本作が個人的な作品であることも、この仮説をより強固にする。あめちゃんは、誰にも助けてもらえないから破滅する。それは現実と結びついた、あまりにも残酷な事実なのだ。
では、やはり我々はあめちゃんを救えないのだろうか。「ピ」が不在であることは、作品の結論としてほぼ確実に言えることだ。実在性を論じるまでもなく、少なくともあめちゃんにとって、プレイヤーは自分を助けてくれる存在ではなかった。そういうことになるのだろう。
しかし、こうも考えられないだろうか。本作はにゃるら氏の個人的体験を反映した、「現実のその先」あるいは「もしかしたらあったかもしれない平行世界」なのではないか。極めて現実性の高いその可能性は、「あめちゃんではないあめちゃんが実在する」ことの裏返しでもある。現に見渡せばいくらでもいるではないか。病んでいる人々は、今やどこにだっている。今この記事を読んでいるあなたのフォロワーにだって、きっと確かに実在する。
そうした一人一人を助けることは、あめちゃんを助けることと同義であると換言できないだろうか。導いてやれなどという押しつけがましい話ではない。病んでいる人々の「ピ」になれというような話でもない。にゃるら氏の同居人のように、「善き隣人である」だけで救われる人は、きっと何人もいるのではないか、という話なのだ。
本作がそうした説教臭い教訓を含んだゲームではないことは重々承知だ。そもそもゲームシステム上、ヒロインを助けるルートが存在しない(≒マルチ破滅エンディング)時点で叶わぬ願いだという話でもある。それでも助けたいと願った、願ってしまった。本記事はそうした最後の悪あがきのようなわがままだ。
本作がにゃるら氏の経験を下地にした、「助けがなければ破滅してしまう」人間の物語であるのなら。もっと当たり前に、誰かが誰かの話を聞いて。誰かが誰かの心の支えになって。ただそれだけで、「助けがなければ破滅してしまう」人というのはぐっと減るのではないか。少なくとも、今よりは救われるのではないか。それが当たり前になれば、「助けがない人」の数はどんどん少なくなるのではないか。
にゃるら氏の作った「NGO」は、「助けがない人」の物語だった。それはこの世界に、そうした人がたくさんいるからではないか。少なくともそういう人が珍しくない程度には、にゃるら氏の目に映っていたのではないか。もし彼が見ていた世界がもっと違えば、このゲームはもっと違う結末を迎えていたのではないか。たった一つだけでも――あめちゃんが救われるエンドが、あったかもしれないじゃないか。
残酷な現実はそれでも残ったままなのだろう。夢や理想を語ったところで変わることなんて何一つない。だけど確かに助けたいと思った。あめちゃんが救われてほしいと思ったその気持ちは、嘘や欺瞞などではない。
誰かを救うことができなくても、「善き隣人」であろうとすることはできる。それはもしかしたら、彼女を救う唯一の方法なのかもしれない。


以下個人的な話。
やたらと説教臭いオチになったのは個人の感想だから大目に見てほしいが、この結論に至ったのも一応理由はある。

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