『推し、燃ゆ』感想

※ネタバレを多分に含みます

序盤を読んだ時、「この本はどの層に向けて書かれたものなんだろう?」という言葉が真っ先に頭に浮かんだ。
店頭では、芥川賞受賞作品として大々的に宣伝されていた。本に巻かれた帯には様々な推薦文が書かれている。そうした売り方は、宣伝文句は、広い層にリーチしているように見える。「芥川賞」といった言葉や、そもそも書店でハードカバーの書籍を手に取るメイン層を考えれば、一番影響があるのは高齢者層なのではないか、と推察する。
しかし一方で、内容を追っていくと非常に現代的だ。タイトルからしてそうだが、「推し」という概念に何の説明もなく物語が進行していく。「書き込んだ」「いいねが飛んでくる」といった表現が唐突に出てくる。既にそうした言葉に慣れ親しんだ我々若年層にはたったそれだけで何をしているのか大いに伝わるが、果たして前述の宣伝文句で手に取る層にはいったい何の描写なのか、どういう意味なのかしっかり伝わっているのだろうか。
これはもう、単に作者の想定した読者層と出版社や書店のマーケティング層がすれ違っているとしか言いようがない。少なくとも作者は、そうした言葉や行為を「知っている」ものとして、それを前提において書き進めている。説明するばかりが正しいわけではない。明確に物語を届けたい層を頭に浮かべた上で書いているのであれば、そこに批判できる余地はない。箔が付いたからと言って、それを無節操に売り出そうとする販売サイドの問題だ。

内容に移ろう。主人公は高校生の少女で、アイドルとして活動する男性のファンの一人である。応援の仕方はあまり目立つものではなく、推しの言葉や行動を拾い集め解釈を重ねていく……といったものだ。書くのもSNSで吐き散らすのではなく、ブログでまとまった文章として記事に仕上げている。缶バッジやブロマイドといったグッズも買い集めてはいるが、届いた箱にしまいっぱなしだったり、あるいは部屋の中に飾るだけで、実際に身に着けることはあまりない。どちらかと言えば表面化しない、控えめな応援の仕方である。
ただ、表面化しない分その追い方は人よりも色濃い。学生という身分を捨ててまで各メディアを追い、文章化し、結果をまとめて解釈を重ねる。そうして重ねた解釈はより強固なものとなり、ある程度言動が予測できるほどの精度にまで至っていた。……言うまでもなく、人間に対して「解釈」を重ねたところで、それが絶対になるわけはない。気分一つで行動が変わる人間の心理を推し量ろうなどと、理論立ててできる芸当ではないのだ。ある種、人間に対して解釈を重ねるという行動自体が異常であるとすら言えるだろう。主人公がそうした解釈を続けていたのも、別に本人の行動原理を予測することが目的ではなく、飽くまで彼の思想、見ている世界に自分も至りたいという、推しとの「同一化」を図る過程で取った手段に過ぎない。推しが付けたアクセサリーが欲しい、推しが食べたご飯を食べたい、触れたメディアや見た景色に自分も接したい……そう考えるのは、とても普遍的なことではないだろうか。事の起こりは誰しもが持つ欲求から始まっていることで、何も理解できないものではなかった。
とは言え、それが人と比べて熱の入った行為であったことは確かだ。作中でも主人公は比較的名の知られたファンとして描写されている。それは地方局でのみ流れたラジオ番組のログを記録していたり、あるいは偶然スポットライトを浴びる機会があったりという些細なものだったが、その上で解釈を積み続けたことで、彼女のファンの中での地位は盤石なものとなった。そういった地位を獲得したのも、やはり彼女の応援の仕方が人よりも突出しているから、解釈の重ね方がひと際深入りしていたから、と理由を求めることができるだろう。推しを解釈すること自体はある程度誰しもやっていることだが、読み物として昇華できるほどに解釈を常態化し強固なものに仕上げることができたのは、やはり主人公が突出していたからだと言える。しかし解釈に当たってやっていること自体は普遍的で、やはり特別なことをしているような描写は見受けられない。彼女が突出していたのは時間のつぎ込み方、生活を犠牲にした上での常人にはできない推し方だったのだ。
主人公は幼い頃から、それこそ医者から複数の病名を診断される程度にはハンディキャップがあった。それは日常生活を送ることが難しくなる程度には大きな影響があり、だから彼女は日頃から生きづらさをずっと抱えていた。その生きづらさを救ったのが幼い頃の推しの舞台であり、彼に救われた主人公は、生きづらい日常の全てを捧げてまで推すことを優先するようになった。推している間は現実から逃れ、救われていられたのだ。
彼女は物語が進行していくほどに、その推し方が偏執的になっていく。狂気すら感じられるようになっている。文字通り生活を全て捧げた彼女は、出席日数が足りずに高校を留年し、最後には退学する。推すために必要なお金を稼いでいたアルバイトは、無断欠勤の果てに解雇を言い渡される。炎上する推しが引退を示唆する発言をした時、身も心も擦り切れた彼女は、炎上の末に割れた推しの住所まで赴く。そこで自分の知らない推しの「生活」を見て、「推し」は「人」になったと悟る――いや、気付くのだ。
そうした一連の行動が、狂気的であることは今さら述べるまでもないだろう。だが、それはある種の本質を抱えているとも感じられる。「ファン」の原義は「ファナティック」……「熱狂的」という意味だ。元々狂気を兼ね備えていた集団として、「ファン」と名付けられていた。現代において、幾分かカジュアルな使い方をされている「ファン」ではあるが、それに代わって「推し」が使われているのではないかと個人的には感じている。「◯◯のファンです」と名乗るのと、「◯◯が推しです」と名乗るのと――どちらの方が、感覚的に深度が高いか。そうした言葉を使っている身であればこそ、この二つの言葉を使い分けている実感があるのではないか。だから、そんな「推し」をタイトルに関したこの作品が狂気的であるのは、当然の帰結とも言えるのだ。
この物語の主人公ほどではないにしろ、同じように日常に生きづらさを感じ、そして何がしかに救われて推し始めるという経験をする人は少なくないだろう。特に、現代に生きる若者にあっては。色々な情報にアクセスすることができ、知識差が当たり前のようになくなった結果、より一人一人の能力差や対応力が求められるようになった。「最低限」の水準がどんどん上昇している。そんな生活に生きづらさを抱え、そして同じような人間が、インターネットにはごろごろいる。それさえも可視化できるようになった、そんな現代。そんな灰色の生活の中で、文字通り星のように輝く誰かの姿に勇気づけられ、励まされ、背中を押され、活力をもらう人たちが、その誰かを「推し」始める。生活の全てが「推し」に傾倒し始める。歪んでいる、そういう自覚があっても、しかし推している間は確かに幸福だ。推し活をしているその時間こそ、生きているという実感を持つ。そうした人は、きっと、少なくない。だから本編での一文、「推しのいない人生は余生だった」という言葉に強い共感を持った読者も相応に多いのではないだろうか。
だから、これは共感の物語なのだ。少なくとも作者はそのつもりで書いたはずだ。本人の経験が下地にあるのか、それとも誰かから聞いた話を書いたのか、あるいは強い想像力をはばたかせ、現実味を持って書く才能にありふれているのか……いずれかは分からないが、少なくとも、共感を持って受け止める程度には、この物語はありふれた話だった。我々の話だった。きっと同じように感じ、同じように生き、同じように死んでいった誰かがそこにいた。そう思えるくらいに、共通項を見いだせるくらいに、この作品は今を生きている。帯に書かれている推薦文、「時代を見事に活写した傑作」「今を生きるすべての人にとって歪で、でも切実な自尊心の保ち方」「すべての推す人たちにとっての救いの書であると同時に、絶望の書でもある本作」といった言葉は、そのまま本作を表していると言えるだろう。この物語は、この作品に登場する人物たちは、我々なのだ。

だから、最初の疑問が頭をもたげる。
「この作品はどの層に向けて書かれたものなんだ?」――その疑問が、いよいよ深刻さを持って我々に襲い掛かる。
若年層である人たちにとっては共感の物語。しかし賞を取り、箔が付き、そうした看板に惹かれた人たちにとってはどうだろうか?
脚色されたその「人生」を見て、こんなのあり得ない、単なる創作だと捉えて、あれこれと言い出す人たちがいるのではないだろうか。無論、そうとばかりも限らない。同じように共感を持って受け止めてくれる読者も多数いるはずだ。しかしその一方で、やはり理解できずに否定する読者も一定数いるだろう。
理解も共感もしても、それ以外の要素で打ち捨てられることもあるだろう。内容にも触れずに――人間の生活が、単なる修飾に敗北する。内容に関して大して触れることもなく、ただの駄作だと打ち捨てられる。説明不足な部分が見受けられるとは既に書いた通りだ。それが欠点であるとは私は思っていない。だが確実に、それを欠点として捉える読者が存在する。たったそれだけで、評価するに値しないとレッテルを貼る読者が存在する。
私はそれが怖いのだ。この物語に書かれているのは、我々の人生そのものだ。推しがいる誰かの生活そのものだ。それをどう受け止められるか。どう解釈されるのか、どう否定されるのか。
それらは全て、我々の生き方に対しての評価になりかねない。マーケティング的には、当然広い層にリーチする売り方の方がいい。それは分かる。分かるが、だが、身を切り刻むような思いで日々を生き抜いている我々に、残酷な言葉が投げかけられる。きっと彼らはその無神経さにすら気付かない。物語を架空のものとして捉え、その下地となった、切実に生きている我々の生活に、思いを馳せることはない。「物語」を消費して、無神経に踏みにじって、それだけだ。Amazonの☆1の評価文でも見てみれば、何を危惧しているのかは分かるだろう。
それが怖いのだ。


※個人の感想です

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