オタクの寿命

「好奇心を失ったら負け」とはよく言ったもので。
オタクを自称するからには、色々と好きなものがあるのだと思う。アニメや漫画といった二次元コンテンツに限らず、鉄道やバイク、なんなら筋トレやスポーツといったいわゆる「陽の者」が好む分野でも、精通していればそれはオタクだ。趣味の中でもとりわけ入れ込んでいる、そういったジャンルを頭に付けて「〇〇オタク」と、今ではそういう使い方が一般的だろう。趣味人を自称できる人間ならば、必ず何かのオタクであると言ってもいい時代なのかもしれない。
自分も多分に漏れず趣味人で、というか多趣味が過ぎる部類だという自覚はある。SSを書いているくらいだから当然小説を書くのが好きだし、読むのも好きだ。最初にデジタルでイラストを描いたのは、もう十年も前になる。アニメもチェックしている作品は毎週追うのを楽しみにしている。ゲーマーと自称するには少し気が引けるが、ジャンルで区分できる程度にはゲームも好きだ。サブスクリプションサービスやデータ配信が一般的になった今、CDなんて買うのは趣味で音楽を聴いている奴くらいだ。映画も一昨年から集中的に見始めて、映画館に行くのに気が引けるようなことは全くなくなった。元々物を作るのが好きだったから、拙くはあるがプラモデルも楽しんで組んでいる。ちょっと変わったところでは、ここ数ヶ月は毎日二時間ほど運動する時間を取っているし、少しずつではあるがトレーニングの知識も得ている。直近で思いつくあたりでざっと並べてみてもこの調子で、細かいものも挙げだせば本当にキリがない。まさに趣味人、時間もお金もいくらあっても足りない典型例だ。
そうしたことに取り組む、挑戦する意欲がなくなりつつあるのもまた自覚しているところだ。社会人になってからもうそれなりに時間も経つ。数年前なら睡眠時間を削ってでも趣味に時間を割いていたところが、今は同じコンディションでは日中を過ごせなくなってしまっている。まぁそれでも睡眠時間は削ってしまっているのだが……どちらかと言えば、以前と同じことをしていても、どうにも一つの動作に時間が掛かってしまって結果的に睡眠時間を削らざるを得なくなっている、と表現した方が正確だろう。つまりは衰え、老いであり、ほんの僅かな休日のために繰り返される日常に精神も肉体も摩耗しつつあるということだ。
老化というのは恐ろしいもので、だんだんと「できなくなっていく」ことに身体が順応していく。楽しみにしていたことを忘れて寝こけることもあるし、たとえ思い出しても「まぁいっか」で済ませてしまうことも珍しくはない。執着心が薄れて久しい。社会的には、それこそが労働に適応していくということなのかもしれないが、趣味人という観点からしてみると、本当に同一人物か疑いたくなるほどの変貌ぶりだ。あるいは今までがバイタリティを前借りしていただけで、もう借りることのできる活力の残高が尽きてしまったというだけの話なのかもしれない。
「好奇心を失ったら負け」とはよく言ったものだ。そうした情熱が、加齢とともに失われていくことをよく知った者がそう言い始めたのだろう。それはきっと皮肉でも何でもなく、同じように趣味を続けられなくなってしまった悲しみを持つ人間が己を顧みて口にした言葉に違いない。でなければ、こんなに実感を持って受け入れることができるものか。それくらい真に迫った言葉だし、だから自分のことを語っているように錯覚もさせられるのだ。
そう、先に挙げた趣味、そのほとんどを持続できなくなっている。半ば意地で持続しているものもあるが、自分のライフワークとして据えていたはずの文章も、一ヶ月近く何も書かなくても焦燥感に駆られることすらなくなってしまっている。やりたいはずのことをやれていない現状に、飢餓感を持つことがなくなってしまっている。これを好奇心の欠如と呼ばずにどう形容すればいい。かつて湯水のようにあふれていたはずの頭を埋め尽くすほどのアイデアは、いったいどこへ行ってしまったというのだ。
好奇心の欠如というからには、新しいものに手を出すこと自体が億劫になってしまっているのも、わざわざ述べずとも察せられることだろう。それは全くの無経験の体験に限った話ではない。例えば新しい作品、新しいアニメを見始めること自体が、「体力を使うこと」として敬遠してしまっている。では何を見るのかと言えば、それこそ既に一度見たことのある過去作品だ。数年前に見た作品ならいい加減記憶も薄れて、それなりに新鮮な気持ちで視聴することができる。しかし概ねのあらすじは知っているし、どういう展開かもある程度頭に浮かぶ。だから時間を無駄にしたと失望させられることもなく、期待していたシーンを期待通りに楽しむことができる。それが悪いこととは全く思わない。名作はいつまでも名作だし、何度も繰り返し見れるからこそ名作なのだ。そうした作品がいくつもあり、データという形で残っているからこそ今でもまだ触れられることができるのは、至福と形容するのが最も適しているだろう。しかし……この状況こそ、好奇心の欠如と呼ぶべきではないだろうか。新しい作品、新しい何かに触れることを億劫に思ってしまっているのは、もはや未知の楽しさを求めることを自ら拒んでいるに等しいのではないか。
好奇心を失って何が悪いのだろう?元々が多趣味だ、失ってちょうどいいくらいの多さとすら言える。なんならそれでもまだ多いくらいだ。自分の意思で削ぎ落すことができないのなら、衰えを利用して身の程をわきまえた趣味に落ち着かせることも、それはそれで合理的な一つの選択だろう。しかし……それでもやはり、趣味に埋め尽くされて首が回らなくなり、時間のやりくりに苦心して生活すら崩壊しかけるその日々が、自分には愛おしく思えるのだ。
そうまでして趣味を続けたいと思うのは、好奇心がオタクの行動原理であり、原初の欲求だからなのだと思う。面白そうなものがあったから触れてみたいと思う。そうした原始的な欲求。シンプルだが、だからこそ突き動かされるに足る。そういった好奇心を失ってしまえば、オタクとしての生も終えてしまうのだろう。好奇心を失った時、人はオタクを辞めて、色んなものに興味を示して目を輝かせていた過去を羨望するしかなくなるのだ。
こうした文章を書くことは、何も苦ではない。むしろ楽しんでさえいる。小説を書けなくなったのは、何も一度や二度ではない。これまで生きてきた中で無数に繰り返し、そしてどうにか脱してきた。今書いているそれも、同様のリハビリと呼んで差支えはない。そう、これは一種の抵抗なのだ。好奇心を失いつつある自分を自覚して、それがきっと身の丈に合った生活なのだろうと理解して……それでもなお、まだ書き続けたいと思う意思。書きたいものすらないくせに、そんな空っぽの意思だけは今でもまだ持ち続けている。
言うまでもなく、こうした思いも一時の気の迷いの可能性はある。いつか、あるいはすぐに気の迷いだと吹っ切って、日常を一番大事にした、かつての情熱を忘れることを受け入れた生活に適応していくのかもしれない。それでも今はまだ、抵抗したいと思っている。どうにかこうにか続けたいと思っている。だからこの文を書いている。
オタクであることにどれほどの価値があるか。いっそ全て捨ててしまって、オタクとして死んで、真人間に生まれ変わった方がよほどまともな生活を送れるのかもしれない。そんな可能性を頭に思い浮かべながらも、オタクであり続けたいと願ってしまうのは――結局、その生き方が自分にとって一番楽しいと分かっているからなのだろうな。

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