卒業をしてもまだそこにいるということ

にじさんじはしばしば卒業=引退者が発生する。これは仕方のないことだと思う。突発的なトラブルもあれば、環境の変化でやむを得ない場合もある。配信業というのはそれなりに時間も準備も必要なもので、私生活の事情が如実に反映される。企業側としては休止という形で籍を置き続けてもらっても構わない(所属していることによるコストというのはほとんど発生しないし、むしろ卒業することによりモデルが一切使えなくなることの方がよほど痛手だろう)という態度を取るが、本人としてはそうもいかないのだろう。それは本人が中途半端な状態で放置したままだと気が済まないという性分から来る判断かもしれないし、あるいはネット上で活動していた痕跡をなるべく消したいという事情があるかもしれない。休止状態でも「いるなら配信しろ」とせっつかれ責められる……ということもあり得るのかもしれない。そもそも活動再開の望みがないのであれば、休止よりも卒業を選んでファンに妙な希望を持たせない、というある種の優しさを伴った判断もあるのだろう。辞める理由というのは、実際のところ分からない。公表されている理由もそれが真実かどうか、リスナーからは確かめることができない。理由などはリスナーがライバーを信じるかどうかだけで、卒業したという事実がそこに横たわるだけだ。
ただし、卒業したからといってその場からいなくなるというわけではないこともまた事実だ。本人が死亡したなどの事情がなければ、Vtuberとしての活動は辞めても生き続けている。当たり前の話だ。そもそも、Vなんてものは本人がある程度興味を持たなければなろうとはしない。スカウトなどがあれば別だろうが――本人がVを好きでなければ、なろうと思うきっかけがないものだろう。活動を通してこの界隈自体に愛想を尽かした、ということがなければ、元々好きだったVの配信をまた追い始めても何ら不思議ではないのではないか――もちろんそれは単なる例えだが、「そこにいる」可能性が十分あることはこれだけでも伝わると思う。

今年に入ってからも、複数の卒業者がいた。中でも自分の応援していたライバー二名が、三月末と十月末にそれぞれ卒業した。遠北千南と出雲霞である。
別に二人に共通点があるわけではない。強いて言うなら、デビュー時期の差はあれども「にじさんじSEEDs」という枠組みでデビューした二人ではある程度か。自分自身も共通項があって好きになったわけではないし、この二人を並べて語る必要性というのはあまりない。しかしそれぞれの卒業告知にはやはり同様に衝撃を受けたし、私生活にそれなりに影響が出る程度にはショックだった。特に遠北千南の場合は、自分が「推し」と呼べるライバーの初めての卒業だったものだから、かなり激しく動揺をしていた。出雲霞の時に比較的大きな動揺をせずにいられたのは、遠北千南の時にどのような受け止め方をすべきかを学んだからという面も大きい。……この辺りの話は本旨に関わりがないため、割愛させていただく。
そんな遠北千南についてだが、卒業後もしばしば近況報告が届く。それは活動の中で仲良くなったライバーからもたらされる情報で、特にプライベートでも遊びに行くような仲になった矢車りねからは、本当に高い頻度で彼女の話を聞くことができる。……それを目的に配信を追っているわけではないが(元々矢車のことは好きだ。最初期の設定に絡めたストーリーをやっていた頃も好きだったし、何らかのスイッチが入ったのか異常な……狂った……頭のおかしい……エキセントリックな言動を繰り返すようになってからも好きだ)、やはり時たま聞けるその話を楽しみにしていない……と言えば嘘になってしまう。そうした話から、今も彼女が変わらず元気に楽しくやっている様子がうかがえるのは、単純に嬉しいものだ。
つい先日、矢車の配信内で遠北についての新しい情報が報告された。それは「今でもエゴサしている」という事実だ。
活動当時から高い頻度でエゴサをしていた――ある時期を境に吹っ切れてからは、ネタツイッタラーのようなツイートも多く目立っていた(実際それでバズったこともあった)。そんな彼女が今もエゴサをしているということは、そう想像に難くない。難くはないが――いやでもそれを実際に言葉にされると違うだろと。想像はできても覚悟まではできてないだろと。阿鼻叫喚するかつてのリスナーの様子がツイート検索からもうかがえた。それは「まぁお前ならやってるだろうな……」という諦めと、「まだ忘れてないんだな」という熱を帯びた喜びを感じられる反応だった。卒業したライバーのファンは、多くの場合祈ることしかできない。本人とコミュニケーションを取る手段というものが存在しない。胸の内に秘めたその思いは、祈りに託すことしかできない。しかしエゴサをしているとなれば、また感じ方も変わってくる。姿かたちは見えねども、確かにそこに存在を感じられる――それは福音のようなものだった。闇雲に暗中に手を伸ばさなくても、彼女はきっとそこにいると信じることができる。ある種の救いに感じられたファンも、あるいはいるのではないだろうか。

実は出雲霞についても、同じように今もエゴサなりなんなりをしていると判断できる。それは表向きに何かしているという報告があるわけでも、物的証拠があったわけでもないが――彼女は卒業前に、しきりに二次創作について触れていた。卒業後でも見ると明言していた。それを信じるかどうかもまたリスナーの判断でしかないのだが、彼女はその活動の多くをクリエイターとしての表現に費やした。彼女の活動は、「出雲霞」という人物、あるいはキャラクターの半生であった。その自覚が本人にもあるし、だからわざわざ二次創作についても言及したのだろう。自分自身が創作する者であり、また誰かの創作を楽しむ者だから――直接的な言及はない。しかし彼女もまた、卒業後もきっとそこにいるだろうと思わせられる、そう信じることができる発言だった。

こうした話で感じるのは、やはり本人がいない場でも襟を正すべきなのだろうということだ。いつどこで誰が見ているか分からない。迂闊なことを言って、実は見られていると知って身悶えた人間もいるのではないか。いないとばかり思って、本人の前では決して言えないことをそっと添えた人間もいるのではないか。しかしそこで悶えることができるのはやはり幸福なのだ。決して言葉が届いていないわけじゃない。きっと見ている。すぐ傍にいる。そう思えることは、誰かの心の助けになるのではないか。
悲しむなとは言わない。ここで例に挙げたようなライバーばかりでもない。残念なことだが、ひと度縁が切れればそれまでというVも決して珍しくはないだろう。しかし一方でこうした実例もある。悲嘆に暮れるばかりよりも、それはまだ希望を持って別れを受け入れられる事実なのではないだろうか。

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