牛の胃袋は4つあるらしい

年の瀬が近くなり、年末を強く意識すると、やはり去年のことが思い出される。
12月30日の推しの卒業発表、その翌日12月31日別の推しの入籍報告。
前者は実際の卒業日は3月末でおよそ1クール分の猶予はあったし、後者は祝うべき慶事で憂うようなことなど何もない。しかしどちらも、どこか自分の手を離れて行ってしまうような感覚があったのも事実で(実に勝手な感覚だが、それくらいは許してほしい。好意には親近感が伴うものだ)――恐らくどちらか一方ならまだ、耐えられた。まだ現実味がなかったということもあるだろうが、実際、31日の昼までは空虚感を抱きながらも日常を過ごしていた。その昼、2つ目の報を聞いてから、すっかり足場を失ってしまったような、大きな大きな喪失感に襲われたのだ。
そのあたりの細かい感情は、過去にも何度か書いているから割愛する。しかしあれほどまでに激しい感情に襲われたことは、これまで生きてきた中でも全く経験したことがなかった。これからも経験したくないような強い感情だ。そんな状態で年越しを迎えたものだから、そりゃもうボロボロだった。楽しみにしていた新年の番組も、無味乾燥に感じられた。もう笑えないような気さえしていた――とまで言えばさすがに誇張表現だが、しかしいつになればどん底の心境から脱することができるのか、それすらも分からない精神状態だったのは確かだ。
――あれから1年が過ぎた。1年前のそれらの出来事は、年末年始と強く結びついて記憶されている。これからも、1年ごとに思い出すことになるのだろう。それほどまでに鮮烈で、忘れ去るには難しい大きな出来事だった。
1年経って、未だに立ち直れていないままなのかと言えばそういうわけではない。卒業した彼女は、今でも時折名が挙げられ、変わらず過ごしているような話を伝え聞く。卒業する最後のその日までファンに対しての誠意を尽くした彼女は、未だにファンに寄り添っているらしい。どこまでも面倒見が良いというか、お人好しが過ぎるというか……そんな話を聞いてしまえば、立ち直るも何もないだろう。彼女は今もそこにいるのだ。
結婚した彼女には、自分の抱く思いを見つめ直すためにもいったん距離を置いたが――幸い流行り病とも重なって、関わりを持つことも必然的に少なくなってしまったわけだが。時間というのは不思議なもので、あれほど熱意を持って彼女に投げかけていた視線が、いくらかフラットになったように感じる。遠回しな言い方をやめれば、熱に浮かされたような感情からただただ単純に応援したい、という感情へと変わっていった。……元より悪感情など抱いていないのだ。祝うべき事柄に恨みつらみを抱くことなどない。ただ、自分の抱いていた恋情に罪悪感を持っていたに過ぎない。その熱も時間と共に薄れ、必然罪悪感も薄れていき――今はまた、素直な気持ちで声援を送りたいと思っている。皮肉なことに未だに流行り病は収まる気配がなく、その機会も持てずにいるのだが……いつかまた声を掛けることができたらと、今ではそう思っている。
不思議な心境なのだ。今では穏やかな気持ちで1年前の出来事を受け入れることができる。しかし、1年前のその感情を忘れたわけではない。あの時のことを思い出せば今でも悲しみを覚えるし、にわかに動揺してしまう――もう全て過ぎ去ったことだというのに、感情は未だ薄れない。
きっとこれからも、1年ごとに思い出すのだろう。強い喪失感に襲われた2つの出来事を。強く激しく心を突き動かした深い悲しみを。胸の底で染み入るようににぶく広がる痛みが、今でも彼女たちのことを好きなのだと訴えかける。疑いを持つこともなくそう思えることも、少しだけ嬉しく思うのだ。

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