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雑記 (10.25)

・村上春樹が書いたノルウェイの森が好きなのだけど、その中の台詞に「なあキズキ、俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。そして俺は生きつづけるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。」というのがあり、その感傷的な決意を自分と重ねて読んでいた頃もあったのだけど、改めて読み直すと数ページ後には“ヒロイズムに溺れた主人公には見えていなかった無様な注意欠陥、により傷つく他者”みたいなものを物語は意地悪く配置していることに気づいた。

・言葉にするのも野暮ったいことはたくさん起きていて、Twitterも飽きちゃったけど辞められなくて(光と刺激、情報量にやられてしまうなんて、ほとんどパチンコ中毒みたいなものだ)、イヤホンも片耳落としてしまったから何となく日々を過ごしてる。

・小5くらいの時、生態ピラミッドにおいて人間より上に言葉ってあるなと考えていたのを時々思い出す。今自分は秋空に夕陽が差し込む自然のなかにいるのだけど、小さく単一的な青い光に夢中になってる。

・これは休講になってしまった宙ぶらりんとした時間を用いた簡単な素描

・僕はずっとなるべく正しくいたいと思ってるけど、それって自己擁護のためだったのかな?直感的にそんなことないと思えるけれど、言葉を与えられない。

・本当は飽きちゃっていること、実はもうとっくにだめなこと、があるような気がして不安になることが多い。無理しないでいいんだよという言葉が真に理解できたとき、自分はどれだけのものを降ろすのだろう?僕を僕たらしめているものがこれだといいなという疚しさを含めて、これまで何かを好きになってきた自覚がある。

・フィッシュマンズのナイトクルージングって曲に「窓は開けておくんだよ」って印象的なフレーズがあり、その真意を掴みあぐねていたのだけれど最近ようやくわかってきた。これまでの僕は家でゆっくりするというような意識がさっぱりわかっていなかったように思う。

・「自分の人生にあるべきと信じるものを持続させる」ことについて考える。ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなる、時にでも捻り出せる言葉だったり、一緒にいたいと思う人や場所。

・何人か「こいつらのために頑張りたい、そう思うのは不愉快なことでもない」と思う後輩や、その期待を背負いたいと思える先輩の顔が浮かぶけれど、そんなに多くもないし、それ以外の人間たちについては結構どうでもいい。今は自分についてと時間感覚について興味があるのかもしれない。これまではユースカルチャーなるものが求める欲望とそれに従事してしまう生態系、みたいなものへの興味が大きかった。

・「猫になりたい 言葉は儚い 消えないように傷つけてあげるよ」というスピッツの歌詞を頻繁に思い出す。誰かのことを傷つけたい/傷つけられたいと思うのは逃げなんじゃない?と眼差しを向けてくれた、とても優しい先輩のことを思い出す。

・これは乱暴なもの思いなのだけど、オレのことを可愛がってくれた人たちの顔や声に何らか同じものがあったように思う。

・ミュージッキングという、音楽を道具として使うことを意味する言葉があるのだけど、自分は結構そういう態度をとっているように思う。であるならもっと勉強がしたい。なんとなくコーヒーと距離を置いてしまって2年ほどが経過しているのは、みんないなくなってしまったトラウマからなのだろうか。だとしたら痛みを感じることだし、何もそうしたくない。

・平坦な戦場、つまらない終わらない日常、セカイとは自己認識によって確かに姿を変えるでしょう?マンションに灯る光の数だけ家庭があることに驚く自分は、エッセイなどを読むことで後からその感性をインストールしたように思う。それは果たして本当なのか?

・「本当の〇〇」みたいな語法はオレは小沢健二や岸田繁などから教わってきて、それを投げ捨てることはもうできないくらい染み付いているのだけれど、一度端に置いてみようかと思う。本当に何かを選ぶ時には本当ではない何かを選ばないということだ。小沢健二が暮らしを賛歌しているとき、星野源が歌う流行歌には「意味なんかないさ 暮らしがあるだけ」と歌っていたことを思い出す。

・僕が天気の子を素直に笑い飛ばせないのは実際ああいったことを自分はしていたなと思うからで、自分の選択により誰かの延命を感じたことも、不幸を数多見て類型化していくことに辟易したり、誰かを神聖視することで自分を何とか立たせたりすることもしてきた。と同時に物語的な解決ではない、現実的な対処についても執拗に学ぼうとしてきた自分がいて。何にせよ悪手は取ることなくbetterな選択は取り続けてきたと思う。

・恋人について書くことはとても難しい。エピソードを重ねて自分のカメラの位置を紹介することだったり、その人をその人たらしめる属性やスキルを抜き出して萌えることはできるけど、ちょっとズルっぽいからあんまりしたくない。

・分かるー分からない の二項対立を下らないと思える瞬間って、熱烈な体験のみだと思っていたけれど、弛緩した先の甘みにも宿ることを教わった。

・別に誰かやいつかをやり直すために一緒にいるようなことは決してない。これは友情においてもそうだ。だけど、気がつけば報われていたって瞬間はいくつかあって、嬉しい。(この塩梅を死守したい!ほんとうに 生きているのは今だしこれから生きるのは未来だから、そして過去も現在から認識における部分はやり直せる)

・これまで自分の余裕のなさを許せないなと思っていたけれど、最近は余裕を持てている。それはとても恋人の存在が大きくて、ありがとうと思う。

・不安げな表情が弛緩して口角がつり上がり、ついには破顔するようなひとときが時々訪れて、本当に嬉しい。恋人におすすめされた音楽が「勝手に助けるだけ」って歌ってて、ほんとにそうだよなと思う。あなたが勝手に助かるまで一緒にいるし、それのことを助けや救いというのならいくらでも救いますよ、ぜーんぶ任せてほしい。大袈裟な物言いは盛り上がるからできるだけ言いたいなって思うんだ。もう何も言えなくなんてならないよー。

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