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無題

伝わる人に伝われば良いと思って書く。
いや、違う。誰かに伝わって欲しいと祈りながら書く。冷笑的な態度も、強がりも放棄したい。剥き出しの感性と、なるべく良く在ろうとする態度に橋を架けながら書きたい。

読みづらいだろうし、冗長だし、「知ったこっちゃねぇよ」のひとことで無意味と化す7500文字だ。もしそれでも読んでくれるのなら、できるだけ正直にありたいと思う。

Makersというイベントに参加したことについての振り返りが不誠実だったのではないか、という起点で書き始めた。だが、そもそもあらゆる全てが不誠実であったのだから、そんな前提は早くも崩れる。これは、それでも維持しようともがして、失敗している文章だ。

好き嫌いではなく、間違えてしまっている文章。

しかし、改めたところで何もできる気がしない。何も正しい気がしない。初めから何もかも間違えていて、これからもずっと誤り続けるのだろうという強迫観念。結局、それを起点にしないと誠実ではいられない気がする。

「〜な気がする。」。どうしても期待できない。言い切れない。自己肯定感も自己愛も、虚飾しか手元にない気がする。ああまた。

何をしているのか?何をしたいのか?何を伝えたいのか?端的に言えば、ただ泣きたいのだ。

前に書いた振り返りの文章。その時の自分にとっては、なるべく誠実で、なるべく突き離して、なるべく愛を持って書こうと思いながら書いた。ただ、今思うと自分のことを全然書けていない。傍観する装置と、それを駆動させる役割としての自分ばかりがそこにいる。

寂しさや惨めさを誤魔化すために、視点を地から浮かせようと足掻いて、心に冷笑を貼り付けていた。

きっと、これを通して伝えたいことを言語化するなら「みんな寂しいよね。みんなで会えたこと、寂しがり屋が集まって心を少しでも通わせられたこと、幸せだったね。頑張ろうな。」だけで終わる。言いたいことを要約すれば、それだけだ。

でも、大事なことはそんなんじゃない。

いつかに見た言葉がある。「大人になるということは、プライドを持つということだ。」

有害な男性性という言葉がある。女々しい男はカッコ悪いという言説がある。

snsで歳上の人が「寂しい」みたいなことを投稿しているのを見て「見苦しいな」と感じてしまう自分がいる。結局は、男は強くあれという言説から逃れられていないのだろう。余計なプライドが厚い層になっている。

きっと、これらを解体しなければいけない。

たくさんの昔話をする。プライバシーを考えて友人の名前は変えながら。なるべく誠実に、ただしここでも主観のカメラを捨てられない。歪められた歴史、不要な視点、捨てるべきなのに未練がましく持ってしまっている負の遺産。しかし、確かにそこには自分の文脈がたしかに存在してしまっている。

小学生になりたての時、好奇心に溢れていた。世界は不思議ばかりだった。俺は絵本やゲームが好きな幼年期を過ごしていたおかげで頭は柔軟だったから、優等生だった。入学式、隣の席は渚くんだった。自然な流れで彼と仲良くなった。渚くんは、育てる親のいない施設に住んでいた。よくわかっていなかった。秋に施設のお祭りがあった。施設の先生と仲良くなった。何もわかっていなかった。

2歳からの付き合いである幼馴染がいる。彼はいつも飄々としながら、いつも俺より上手くこなす人間だった。頑張らないといけないなあとくたびれている俺と、飄々と色んなことをこなす彼(彼の弟は耳に障害を持っていた。きっと、彼も親からの愛を弟に奪われて、平気でいるためには飄々としている必要があったのだろう。そう思えたのは中学生になってからだけど)。いつも2番手だった。彼とは高校までずっと一緒だった。ずっと比べられた。勝ち負けから逃れられなかった。

同じ学年、たった80人くらいの中に荒木ハヤトくんがいた。彼のあだ名はいつも笑っているから「ハッピー」だった。そして自然と俺は苗字で呼ばれた。「あ、名前を取られた。」そう思った。気がつけばいつも2番手だった。苗字が嫌いになった。笑顔が下手になった。

中学年、渚くんの母親が死んだ。親権者が親戚に変わり、石田くんになった。よくわかっていなかった。石田くんは先生とも生徒ともよくぶつかるようになった。何となくだけど、息苦しい場所にいるなぁと思うようになった。なんとなくズレを感じるようになった。想像の中の世界はユートピアでいてくれたから、いろんなヒーローやポケモンを思い浮かべてはiPhone4のメモ帳に書いていた。

クラスの友達と放課後はごっこ遊びをよくするようになった。自分ではない誰かになりきる遊び。そこではヒーローでも魔法使いでも何でもなれた。自分でいるよりも断然、心地がよかった。

高学年、今まで一緒に登下校していた奴らにいじめられた。それとは別の場面で、俺も友達を無自覚的にいじめていた。それぞれ心に傷を抱えて今生きているなぁと思う。罪悪感と被害者意識。いじめられた方が悪いという言説を否定も肯定もできてしまう。いろんなバランスが曖昧になっていくのをただ眺めていた。

担任の先生に「颯人の文章は上手いし、俺の息子も生徒の中で1番颯人の文章が心に来たって言ってた。でも俺には、なんか嘘っぽく見える。」と言われた。めちゃくちゃ根性論な先生だったから、逃避することでバランスを取ろうとする俺の態度が気に食わなかったんだろう。実際にだらしなかったし。でも何だか、その言葉は今でもつき刺さっている。言葉が以前より好きじゃなくなった。何か、投げやりになった。

5年生の秋、なつきという女の子が転校してきた。みんな長袖の中、半袖半ズボンだった。不貞腐れた顔をしていた。絶対面白いと思った。彼女も石田くんと同じ、施設の子だった。たくさん話しかけて、気づけば仲良くなった。

今の知識で眺めれば、なつきはアダルトチルドレンだった。片親である母から暴力や誹謗中傷を受けて、それが社会にバレて、避難してきた子だった。他人との壁が分厚くて、その繋がりは冷たい感触がする。今でも親友と思えるくらい仲はいいが、全然分かり合えていない。その距離感を含めて親密なのだけど…、やはりそれは寂しい。

なつきとは、示し合わせることなく中学で一緒に美術部に入った。帰り道に一緒に帰る4人組が彼女を含めてできた。色んな話をした。音楽、恋愛、性愛、友情、愚痴、、

時を同じくして、中2の時に初めて彼女ができた。バド部の部長で小3からの友達。夏祭りに告白するベタなやつ。半年くらい付き合って、クリスマスプレゼントを交換して、楽しかった。

急に別れを切り出された。街にいた時にレイプされて(今でも詳しく聞けていない。でもその時彼女はこう表現していた)、男性みんなが今は怖い。別に君が悪いことは何もない、私のせい、ごめんね、そう言われた。何も言えなかった。ただ別れた。(今でもいろんなことを考える)

石田くんが施設の先生を傷害した。施設の友達曰く、その先生はとてもクズだったらしい。それでも石田くんは姿を消した。それから再び会えたのは高校生になって、Instagramを始めてからだった。彼は中卒で働いていた。幸不幸を関係なしに、そんな選択肢が自分にはなかった。

中2の冬かなぁ、部活だったり、人間関係だったり、反抗期だったり、人間性を否定してくる顧問からの精神的な苦痛だったり、くるみの家庭環境の話を聞いても何もできない自分への不能感だったり、色んなものが重なって、壊れた。

その時の記憶があまりないくらい落ちた。精神科も通った。リストカットはしなかったけど、夜の国道に何度か飛び込んだ。ウォークマンでずっとノイズキャンセリングイヤホンをつけていた。

少し時が戻って、おそらく中2の秋、家庭のことや部活のこと(なつきが部長だった)で大変そうななつきを励ますために交換ノートを持ちかけた。

落ち切っていた頃、生きる楽しみは音楽と交換ノートの2つだけだった。そして、なつきに胸を張れるし、たくさん文章を書けるからコーヒーのことを色々やった。自分の周りのみんなが誰も知らないことだったから、逃げ場所としてコーヒーは機能してくれた。

中3、なつきから恋愛相談の内容がノートに載るようになった。そして、クラスメートと付き合うようになった。俺は、別にそこに恋愛がなくてもなつきと辛いね、楽しいねと言い合えていた。それが周りの友情を巻き込みながら光っていた現状が好きだったから。自分だとなつきにとって役不足だったんだなーと、すごく感じた。恋愛の情はなかったけど、一緒にいられなくなることが辛かった。何だか、深い関係を誰かと持つと終わったり、離れてしまったりするんだと思うようになった。


高校もめちゃくちゃ色々あった。マジで…、でもここではとりあえず2つ。

互いに親友と思いあえる友人を持った。その彼女は、高1の時に彼氏とカラオケでいちゃついているところをスタッフに見つかり指導され、親にそれが伝わり、それが結果で別れるという経験をしていて、心がズタズタだった(彼女も彼女で家庭環境が凄まじいのだけど割愛)。それでもなぜか俺と彼女の仲はずっと良かった(2人とも他人を怯えていて、自分しか自分を救えないことを諦めていた。諸行無常だねってよく悲しみながら笑い合っていた)。いろんな愚痴を聞いたり、地獄のような環境にいてそのなかでひとり生きる彼女を、ただ眺めて、一緒に落ち込まないためにケラケラ笑うくらいしかできない自分に嫌気がさす日がたくさんだった。「なんで私が不幸にならなきゃいけないの?」って彼女はずっと逆ギレしてた。その姿を見て、何を社会貢献とか、フェアトレードとか、自分は言っているんだろうと感じていた。目の前で辛そうにしている友人に何もできない自分が、何かできるだろうか。できるわけ、ないじゃないか。そう思い続けていた。

他校の後輩の女の子といつの間にか仲良くなっていた。その子=サキは学校にも、家にも居場所がなくて、自分でも無自覚に限界が達してしまい去年の秋、家出をした。それから色んな人に怒られたり、心配されたりして、よりくたびれていった。家ではより腫れ物扱いされて、学校にはより行きづらくなって、何度も自殺未遂を繰り返していた。病院でもらった精神安定剤を全て一気に飲んだり、寒空の中で凍死を図ったり。家出の前日、俺はサキと遊んでいた。その罪悪感からなるべくずっと近くにいるようにしていた。「いつまで私が生きていたらみんなは満足?」「もう学校にいても家にいても死にたいんだよ。生きるために学校に行かなかったらみんな怒ってくるし、家にいたら自殺したくてたまらないし、でも死のうとしてもみんな怒ってくるし、頑張って学校に行ってもみんな私のこといない人のように関わってくれないし、どうしたらいいの?好きなようにしなよってみんな言うけど、なら死にたいよ。」「誰かに会ったら別れなくちゃいけないじゃん?そしたら出会う前より落ち込んで死にたくなるんだよ。だから誰とも会わずに1人で生きたい。そうしたら誰にも迷惑かからないよ。1番いいよ。」色んなことを話して、色んな正しそうな主張を聞いた。反論できない言葉もたくさんあって、「うーん、そうかな。」としか返せない自分が本当に恨めしかった。できるだけ生きたいと思ってくれるように、色んなことをした。1度、過呼吸にながら「ごめんね、ごめんね、ごめんね」とただ連呼する電話が深夜に突然かかってきたことがあった。1ヶ月くらいLINEが返ってこない時があった。そういう時は毎週手紙を書いて家まで郵送したり、自分のエゴで、正しそうなことをひたすらやった。結局それが正しかったのかはわからない。ただ、4月15日の現在、彼女が鬱に苦しみながらでも生きてくれている現実だけはある。それに胸を撫で下ろすのはあまりに自己中心的すぎるし、彼女の命ばかり心配していたら「いったい俺は何をしているんだ?」という気持ちと虚無感に襲われてしまう。

今でも、上のような言葉に何も返せない。「生きていてほしいからだよ」と言っても、「いつまで生きてたら満足するの?」と返されてしまった。結局、俺のエゴでしかない。正しさを信じられなくなった。繋がりに確かさなんてないのだと思うようになった。無力な自分をしっかりと目に焼き付けてしまった。

いつからか、どこで石田くんと俺の道は分岐していたのだろうと、ずっと考えるようになった。サキの不幸、なつきのグロテスクな環境、非道に遭遇してしまった彼女。その中で凡庸な生を続ける俺。その罪たるや。

今ならこう答える。初めからだ。意識せずとも、ずっと誰かを蹂躙して俺は生きている。それは、目に見える友人だったり、目に見えないたくさんの優しい人たちだったりする。ずっと何も分かっていなかった。そして今も、何も分かっていない。

「いったい、俺は何をしているんだ?」という感覚がずっとある。いったい、どこに生きているの?今のために生きてこれからの長い人生を棒に振るのが愚かなことは知っている。だけどもし今、目の前の友達が死にそうだとして、どうしたら良かった?その彼のために将来の可能性を殺すのは愚かなのか?もし未来のために彼に親密になれず、そのせいで彼が死んだ時、それでも賢明と言えたのか?納得できる進路とはいえない今にいる。だけど、それは仕方なかったというのは過去と、過去を共にしてくれた人々を迫害する行為で、どうしようもなく愚かじゃないか?、、どうしろっていうんだよ。と思ってしまう。結局は、何もできなかったのは自分なのだ。もっと俺に力があれば何とかできたのかもしれない。この世の不利益はすべて当人の実力不足。東京喰種のセリフ。全然、否定できない。

札幌のスタートアップ界隈、校外に出る学生はどこか冷笑的で排他的な態度をみんな取っている。誰かが誰かのことを馬鹿にしている。きっとどこかで悪口を言われるんだろうな〜と思いながら一緒にラーメンを食う。心を守るためには、自己防衛のために冷笑的にいなければいけなかった。でも、それによって自分が傷ついているのに、自分も加害者になりたくない。ただでさえ罪深いのだから。そう思って、闇や毒を抱えるようになった。自然と我慢していれば忘れていくようになった。ただ、心のどこかにそれは蓄積していって、漠然とした絶望感、希死念慮となっていった。ずっとどこか無価値な感覚。生きていたくも、死にたくもないけど、とにかく、楽になりたい。だけど黒いものは蓄積を続ける。いつしか泣けなくなった。心が膜に覆われているように、全て嘘くさく感じるようになった。

こうやって、自分の不調に気づいていることに自己陶酔してしまう。そんな自分に嫌気がさす...と言って自己分析している自分に酔って、それに呆れて...無限ループ。なんだか、生きるのが辛い。

コーヒーを飲む時間、音楽に心奪われる時間、誰かと眼差しが交差する時間。これら全て、何かに支配される瞬間なのだと最近気がついた。本当に、要するに、楽になりたい。現実が辛い。

Makersは、やりたいことがあってそれを叶えようと頑張っている人と、いつかに感じた惨めな思いを昇華させるために努力する人が多い印象を持っている(また傍観者仕草だ、ムカつくよねごめん)。今まで、「〜してたら生が楽しく思える、生きてていいと思える」というマインドの人が多い場で生きてきた(どっちも同じくらい尊い。それは譲りたくない。)から、そういう人々との濃い交流はすごく衝撃的だった。冷笑的な態度が不要だった。それの驚きについて考えるのに、半月以上かかってしまった。きっとその驚き、揺らぎは、こういう理由からだ。

未来が暗闇になるのは怖いから、きっと自殺はしないし、楽しみな未来は頭に浮かぶ。それでも日々を思うと重たいし、薄暗い。それを溶かすには、晴らすには時間も勇気も必要だ。きっと誰かに依存してしまえば楽なのだろうけど。そんなことをさせてくれる人はこの世界にいない。依存先になることが使命な人間なんて、いてはならない。寂しいけど。辛いけど。

別に、Makersで起きたギラギラした気持ちが俺から消えていて、それをみんなから指摘されても、何食わぬ顔で「なんか、今の気分じゃなくてさ」とか言ってしまいそうだ。俺は元々合わないと思って参加しているから。めちゃくちゃ最悪だな!すまねー。。。

でも、死んでいないか、死んだように生きていないかだけ見守っていてほしいです。あと、色々誘ってください。誰かの眼差しが愛を抱いて自分に向くことで生かされている実感がすごくあるから。なんか、めっちゃ傲慢だな。それでも、これがきっと俺だと思う。好きにはなれないな。

優しさは、自分にとって優しい態度でいる方が得が多いからやってるのかもしれない。「この世界の幸せって全部、結局は性欲に繋がってない?」ってサキからの言葉に上手な返答を返せられていない。みすぼらしくて、みじめな自分を認められていないだけなのかもしれない。結局、友情や愛も因数分解したら生殖本能に回収されるのかもしれない。

でも、やっぱり、祈りたい。これは美しいって。じゃないと、死にたくなっちゃうじゃないか。結局強がりに帰結するけど、「みんな寂しいよね。みんなで会えたこと、寂しがり屋が集まって心を少しでも通わせられたこと、幸せだったね。」と言いたいだけな気がしてくる。頑張らなくてもいいから、ただ、いてください。

p.s. これも結局、主観から逃れられずに、過去を眺めて、気持ちと事実を並べて、今を憂いただけだ。自分のことを何も言えていない。結局、何もできていない。何も正しくない。もっと他にやりようがあったんじゃないか。これは他人の物語を消費しているだけではないか。他人の人生を勝手にラベリングして自分を悲劇の主人公にするために利用している非人道的な行いではないか。そんな気持ちが尽きない。いったいこれは何をしているのか、自分でも分からない。罪悪感で息が詰まる。死んだら地獄に落ちる気がする。
その中でもしも、あなたに伝わるものがあれば、一縷の希望です。それを、どんな形でも、無形だっていいから、教えてほしい、です。

参考:他の失敗

というか、このブログ自体が失敗の集積かもしれない。うまくいく気がしない。言葉への不信用。眼差しへの期待。あー、嫌になります。結局、色んな暴動をただ眺めていた自分の無力感への嫌悪に集約するのかもしれない。うー、これが何かに架かる橋になりますように。ちなみに日本でいう110番がアメリカでは911らしいです!

2021.04.14-15


追記


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