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「コーヒー」という飲物を中心とした文化体系が、私のアイデンディティの大きな1つの要素になっている。

コーヒーを飲み始めたのは小学5年生くらいから。スーパーで1L100円くらいで売っている微糖タイプの紙パックコーヒーを牛乳と1:1くらいで割って飲む習慣が私の家にはあった。元々は見栄を張って、無理をしながら飲んでいた。香りの良さに胸を惹かれていた一方、苦味やコクを楽しめるほど味覚が豊かではなかった。

きっと無理して飲んでいたのが一目瞭然だったのだろう。それを面白がった父は私を、学生時代に行き着けだったという純喫茶に連れていってくれた。

初めて訪れるそこは、薄暗い照明や芳しい香り、まるで世界と切り離されたような、退廃的でありながら同時に世界に対しての誠実さを持つ、非常に特殊な空間に感じた。世界について何も知らなかった(今でも何も知らない。ただ当時は無知の知さえなかった)私にとってそれは衝撃的だった。

鈍く赤い光を反射させる銅器に注がれてやってきたアイスカフェオレの美しさは、いとも簡単に私をコーヒーの魔法に溺れさせた。

それからの私は、雑誌や漫画などを通してコーヒーとそれに付随するカルチャーにのめり込んでいった。ベイブレードやカードゲームが好きなように、コーヒーが好きになっていった。しかし中学生となり今までと異なる環境に対応することで精一杯となった私は、コーヒーへの関心が薄くなっていった。

中学1年生の終わり頃から2年生にかけて、様々なストレスやどうしようもないことが重なり、何かが弾けた。恐らく今でも自分を襲う強迫観念や鬱性の原因がそこにあるが、それを書くことで昇華できるほど、私はそれを受け入れられていない。とにかく、ぐちゃぐちゃになった。

そんな時に偶然と幸運が結ばれて、私は自分の住む街の子供の夢を支援する事業に選出された。「バリスタになりたい!」と書いた漠然な夢を叶えるために市職員の方々が協力してくださり、コーヒー業界の前線で活躍されるカフェの店長にコーヒーカルチャーや経営などについて指南をいただく機会を得た。

そこで得た知識や経験は、今ではとても大きな財産だ。しかし中学生であった当時は、そこで得たそれらよりも、選ばれたことによって自分が誰かに喜ばれたり、褒められること自体が嬉しかった。自己肯定感が失っていた私にとって、誰かに認められることが嬉しくてたまらなかった。「そうか、俺はコーヒーを頑張れば、生きてて良いって俺もみんなも思えるんだ。」そう感じた。

それから、コーヒーを頼りに世界に触れ合ってきたように思う。コーヒーが好きでよかったなぁと思える瞬間がいくつかあった。朝のHR前に教室で親しい友達とコーヒーを淹れて飲んだり、自分の世界の外で暮らす人々とコーヒーを通じて出会ったり、東ティモールに友人や居場所を作ったり、自分の生きる意味のような概念を作り上げたり、、、世界の奥深さや豊かさにコーヒーを通じて触れることで、生の美しさを実感する機会がいくつかあった。そういった経験が結ばれた先として、今の私がある。

コーヒーカルチャーを通して私は世界に受け入れられてきた感覚がある。倫理の授業で習った万物の根源は水であるという考え方がしっくり来るのも、恐らく私自身がその黒く澄んだ流動体に救われてきた実感があるからだ。

「頑張る私」(という虚像)の象徴こそがコーヒーなのかもしれない。書きながら、そう気がついた。

私は、「頑張る私」への自己肯定感は過剰なほど高い反面、それ以外の自分の姿に対しては突き放してしまっている。「頑張る私」以外の私はつまらないし醜いから、友達もそれを見たら離れていってしまうだろうと怯えている。そして、私は「頑張る私」以外の私に失望している。失望した方が自分の醜さと向き合わなくて良くて楽だから。しかしそれのせいで、どれだけ楽しくても何処かで罪悪感や違和感を拭いきれずにいる。

この頃の私は弱いと自認して、友を信じるということ。文字面だけでも挫折しそうなくらいにそれは難しい。しかしそれと対峙しないときっと、心のどこかに生きづらさを感じつづけたまま私は生き続けることになる。

旅から帰ってきて家でコーヒーを淹れた時、心が安らぐのを感じた。コーヒーとそのカルチャーが私の心の拠り所になっている。揺れることのない自信になっている。しかしそれに甘えすぎたくない。自分の中にある空洞から目を逸らして、騙し騙し生きていきたくない。そんなの面白くないし、色気がない。妥協することを色気と呼ぶならそんな世界はくだらない。

よく忘れてしまうが、世界は全て緩やかに繋がっている。だから、「頑張る私」と、私が目を逸らし続け否定している「私」は互いに経験や感覚を持ち帰って影響を与えている。

冷笑には飽き飽きしている。抜け出したい。思いっきり泣いたり笑ったりしたい。改めて気がついた。目が覚めた。そして、私にとっての始まりに大好きな人間と、今までたくさん救われてきたコーヒーがあったことを嬉しく思う。

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