party

用意されている世界とは、自らが無意識に用意した世界のことであり、逆を言えばそれ以外を疎外したことによって初めて肯定できた、限られた境界のことなのだと思った。

青春性とか、瑞々しさとか、ひりつきとか、そんな言葉を掲げてきたけれど、みんなが大人になっていくなか自分はずっと男の子をしている。いや、周りも大人になっていないのか。一回性、有限性、村上隆が絵を描く理由を尋ねられたとき、スタッフを食わせるためと言っていたとTwitterで見たことがある。もうXか。

ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるなんてそんな、バカなあやまちはしないのさ

“交わす”という行為に必ずまとわりつく、粘つき。みんな好きというのは、誰のことも好きじゃないと一緒だ、なんてトートロジー。

楽しかった時が終わって気づいてみたら、寂しい人だったと佐藤。いつか夕暮れは訪れると思うのではなく、いること。物語の始まりにはちょうどいい季節になったろう。

臆病さ。整理することが苦手で、自分の足跡が散らかっている方が安心する。不安を誤魔化すために甘い言葉を求めてしまう。

人生は物語じゃないし、この街でまともにいるのは楽じゃない。
そういえば体調の変化で、ここ数年の夏目さんはお酒を飲めないらしい。そうか、

不安でたまらない。これまでずっと、めでたしめでたしを探していたように思う。けど、その先も人生は続く。

自分の惨めったらしさ、臆病すぎる故に丁寧に包んでしまっている部分が自然に融解することをもう待たない。待てない。

いま全てを失ったと思い込んだとして、再開するとき何をしたいかと思った。無理のない範囲で自分と、少しの友人が読んでくれるための言葉は書きたい。おいしいと思うコーヒーを焼いて、飲みたい。いくつかの記憶をフィルムに写したい。好きな音楽、それもアルバム10枚くらいでいい、を聞きたい。

痛みを受け入れるみたいな話でもない。自分がやがてできるようになるかもしれないこと、途方もないこと、関心もないこと、そこに分け隔てをなくして、全てに等しく打ち砕かれたい。今この手にないもの全てにきちんと絶望ではなく、飢餓感を覚えたい。お腹いっぱいはなんか嫌だと、好きなバンドマンが言っていた。

俺が固執しているものに、未だ固執しているのは大体自分だけだ。それが良いことか悪いことかは一生分からない気がする。けれど俺も気がつけば21だし、人はそんなことお構いなしに期待や心配や失望を向けてくれる。全て7割は自分のやったことの跳ね返りで、3割は流れ弾だ。ずっとそんなものらしい。

俺の慢性的な憂鬱や、それに起因する癖がずっと続いていることと並行して、それとは別のところで幸せになったり後悔したり、傷ついたりしている。一つの大きな感情になるより、いくつかの感情がパラレルに駆動して、それを俯瞰したふりの自分がやれやれと眺めることでなんとかなっていた。ならなかったこともたくさんある。無礼なやつだ俺は。

正しいことの多くはわからないけど、少しと、間違っていることはわかってきた。
ok、いける、いける、と思ったままほんとのokまで走りたい。そういえば陸上競技のとき、走り切った後もジョギングしないとだめだったことを思い出した。

外は戦場でも構わない。別に内面世界も潜ったってそこも戦場だったし、心地よい過去も潜れば地獄の面がある。全然リアリティの中で立ち直れたなんて言えないな。人生は闘争だ!なんて言いたいわけじゃない。ばか。あなたがいるなら、この世はまだましだなとうたう声を聞いている。そう思う、時によぎる人たちのことを考える。ちゃんと立ち止まって考える。いろんなことが難しい。難しい事を考える時間はある。難しいことを考える頭と忍耐力はなんとか身につける。頑張れることはある。頑張れるかは自分にかかっている。そろそろ雪が溶ける。どうやらもう一度暗く冷たい季節があるらしいけど、生き続けてやる


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