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you cut your hair but

自分を含む、親しい友人たちに向けて書く。

正解も、居場所も、大丈夫も、ただあるものではなく作るものだな。ここ数年はnot for meと感じる場所ばかりだった。その寂しさと、どこかには自分の居場所があるはずだという(半ば幼稚な)期待が、様々なことのモチベーションだった。

最近気づいたのは、人と人は完璧には分かりあえないってこと。違う教えで育って、違うものを大切に思っているのだから、どうしようもない。

だけど時々、お互いのことを強烈に、完璧なほどに分かり合える瞬間がある。今まで言葉にできず心の奥底で苦しんでいた感情が昇華され、生の意味がばっちり分かってしまうようなひととき。それの余韻を噛み締めるため、その瞬間を掴み取るために生きていると言っても過言ではない。

言葉も音楽もコーヒーも、良いものはすでに世の中に溢れているし、スマホがあればなんでもできる。だけど、あるだけだ。それを生ぬるい快楽として消費するのか、一生忘れられないほどの心揺れる体験へアップデートするのかは私たちの気分次第だ。ある程度の諦観はハードなこの世界で生きていくために必要だが、行き過ぎてシニカルやノスタルジーに浸ってしまうと生の喜びみたいな瞬間を見過ごしてしまう。期待や予感と呼ばれるようなものへの眼差しは、できれば愛は抱き続けていたい。(それがどれだけハードかを感じる日々ではあるが……)

漠然とした正しさのせいで辛いのなら逃げてしまっていいと思う。正義や社会というものの実態はまだ全然わからない。確かな手触りのある関係性や光だけに、愛と関心を注ぎたい。

これは中学時代から昨今まで自分の残していた言葉たちが、形を変えながら延々と同じことを語っているように感じて、それをまとめ直したものだ。私の主題と言ったっていい。ある時期まで、いつかヒロインみたいな存在が現れて救われる日が来るとどこか信じていた。だけどそんな劇的なことは起きなくて、自分を救えるのは自分だけなのだと気がついた。

自分に価値があるかだったり、全てに別れが待ち構えているのにどうして出会いを重ねるのかだったり、寂しさのような感情ばかりいつも湧き上がるがどう付き合うべきかだったり、「いつまで生きてたらみんなは満足してくれるの?」という友人からの質問にどう返事すべきだったのかだったり、自分が傷つかないために俯瞰してしまい無我夢中になれないことに落ち込んだり、器用に生きられてしまうことへの引き裂かれるような辛さとどう向き合えばいいのか困惑したり、、、人生、何もわからない。幸せを感じている時間と落ち込んでる時間なら(それらは両立するという前提はあれど)後者の方が明らかに長い。

でも、それを補ってあまりあるほどに、つながり、心ふるわす瞬間の甘美さは最高だ。「誰かを求めることはすなわち傷つくことだった」としても、同じ痛みや光を抱えた人と分かり合う、甘美さは様々な感情が曖昧に解け合った、幾つもの営みの先にある。そのために幾つもの暗い顔を、しっかりとしていたい。即物的な快楽の裏にある空虚さに中指を立てて、暗い顔をするということ。

その光の先まで走り切りたいなぁと思う。
もし未来の手がかりが過去にあるのなら、こういうことを感じられるようになった自分のことは本当に嬉しいことだ。

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