見出し画像

CIブーム立役者のひとり、ODSの話 〜父・山口峻宏の一周忌に寄せて〜

本日、2016年9月18日は、私の父・山口峻宏(たかひろ)の一周忌です。ちょうど1年前、父は四度目の癌により、79歳で息を引き取りました。

身内の身びいきではありますが、父は日本のビジネスシーンに一定の貢献と爪痕を残したオーディーエス(以下、ODS)という会社の創業経営者でありました。

彼のビジネスパーソン〜経営者としての全盛期は1980年代となり、インターネットが普及する前のため、父の名を検索しても、パブリックな活動の足跡は、Amazonで在庫切れの著書や翻訳書が数冊出てくるのみです。

息子の感傷的な思い出話として、ではなく、ビジネスパーソン〜経営者として、山口峻宏が経営したODSの記録をネットに残しておきたいと思います。それが息子としてできる供養かな?と。(もう感傷的やんけ)

ここからの話は、生前の父の自己申告の話を沢山聞いてきた私のうろ覚えの記憶で書くものです。事実関係の細部は誤りがある可能性もあります。どうかご容赦ください。

---

洋書輸入販売のオーバーシーズデータサービス創業

昭和10年生まれの父は、19歳のときに母が亡くなり、すでに小学生時代に父を亡くしていたため、長男=家長として、兄弟を背負っていく立場となり、早くから仕事をしていたようです。

20代前半のころ、洋書の輸入販売の会社で歩合制の営業マンをやっていて優秀な販売実績を残していたのですが、ある日「これ以上給料を上げると経営陣より高くなってしまう」と言われ歩合給の上昇は打ち止め。これに納得がいかず、同じ業種の輸入書籍の販売で起業したそうです。

息子ながら、若くて獰猛だな、と思います。当時の写真見てもギラついてますね(笑)

社名は、OVERSEAS DATA SERVICE。後に省略されて正式社名もODSになります。単価が高い技術書籍を主に取扱い、電機メーカーなどに販売していたようです。

ちなみに会社登記の創業年は1966年ですが、事業活動はそれより前にスタートしていたとのこと。


1975年 コンサル転換となるODS-LSI登場

そして、そんな彼の会社が、より付加価値の高いコンサル的な仕事への転換となった重要プロダクトは1975年に登場します。

ODS - Life Style Indicator、半導体みたいですが通称LSIと社内や顧客からは呼ばれていました。

LSIとは、日本人の定性的な価値観を、日本全国6000サンプルの紙の大規模アンケート調査により定量化し、その分析結果に基づいて、いまどきの言葉で言えば企業に消費者インサイトと、それに基づくマーケティング・コンサルティングを提供するソリューションでした。

彼は、米国に出張していたとき、価値観分析の権威で、近年でもハーバード・ビジネス・レビューに寄稿されているダニエル・ヤンケロヴィッチ博士と知り合う機会に恵まれ、博士のナレッジ提供に基いて、その日本版プロダクトを開発〜事業化したようです。

ちなみに、父親が生前にしていた自慢のひとつが、このLSIの立ち上げ初期の頃、まだ課長ぐらいの肩書であったソニーの出井伸之氏(後にCEO)、NTTの大星公二氏(後にNTTドコモ社長)、資生堂の福原義春氏(後に社長)など、後にそれらの企業でトップとなる方々が関心を持ち、取引をしていただいていたことで、何度も聞かされた記憶があります。

「あの三人は、俺の話を最初から理解していてレベルが高かった、さすがだ」

と、若干上から目線な性格(苦笑)故に”俺様の先見性を理解してるな感”を漂わせつつ、同時にその3名をはじめとした初期のクライアントの方々に深く感謝しているのだな、という気持ちを息子として感じておりました。


1980年代 CIブームでの事業拡大

ODSは80年代に入ると、CIやプロダクトデザインの支援にフィールドを拡げていたようです。

きっかけはミノルタのCI支援を、米国の大御所デザイナー、ソール・バス氏をかついで実施したこと。

ソール・バス氏は、古くはヒッチコック映画のタイトルデザインにはじまり、著名な米国企業のCIデザインを、AT&T、ユナイテッド航空、ワーナー・コミュニケーションズなどに対して多数手がけていた大御所です。ググると色々出てきます。

MINOLTAのCIロゴの基本形はコニカミノルタとなった合併後も引き継がれ、これは長い時の試練に耐えたクオリティの証だと喜んでいました。

細部はよくわかりませんが、ODSはソール・バス氏の日本市場のエージェント的な役割をしつつ、CIのノウハウを吸収し、ある時期からソール・バス氏だけでなく社内にも日本人デザイナーを抱えて企業や自治体のCI支援をしていたようです。

しかし、父親のスーツの色とカットに時代を感じます。派手ですねぇ^^;

ちなみにこの時代は、父が色黒でギラついているせいで、家族で外食をしていると、時々ですが”松崎しげる”と間違えられて「サインしてくれ」と見知らぬ人に言われることもありましたw

この写真は父親の社長室に誇らしげに飾ってあった当時のCIの支援実績を社旗として並べたもの。CIブームにも乗っかり、80〜90年代に数百社の支援実績があったようです。

当時のCIは、いまの時代の私からみると、正直なところ異常なバブルで、いまの水準からするとぞっとするような高単価の案件ばかりだったと聞きます。ODSのビジネスとしてのピークはまさにこのCIバブル時代だったと思われます。

また、これも時代でしょうが、あまりにもCIにおいて理念とデザインに重きをおいているがゆえに、マーケティング4P施策や業績とのつながりが弱く、高過ぎる投資額とあいまってROIの悪い案件が沢山あったのだろうな?と見えます。

完全なる後講釈に過ぎませんが、当時のCIブームには一定の価値があると認めつつ、その投資額が高すぎる故に、ブームが収束したのだと思います。続かないには理由があるな、と^^;

-----

余談ですが、この頃は、プロダクトデザイン支援の仕事も多く、CIと同じようにポルシェデザイン、ハンス・ムート、ルイジ・コラーニといった海外の大御所デザイナー達のエージェントとして、様々な案件をやっていたようです。

ODS社内にも、BMWから引き抜き、後に日産の北米デザイン拠点でトップを務められた日本人デザイナーの方がいたり。

ちなみに、ルイジ・コラーニは有機的デザインの元祖みたいな方で、子供の頃は父の会社で関わったコラーニの製品がちょくちょく家に転がっていたのですが、フォークやナイフなどはめちゃくちゃ使いにくく、子供心にそのデザインの流麗さには惹かれつつ「デザインは使い勝手を犠牲にしてはいかん」と感じていました(笑)

コラーニに限らず、会社の玄関や社長室には、バイクや自転車などのコンセプトモックが置いてあり、当時子供であった私には派手な華やかな会社に見えました。

当時ODSに在籍されていた社員の方の話を聞くと、ピークではグループで売上60億円、社員数は280名くらいの規模だったのでは?とのことです。

その頃は事業は多角化し、山水電気の子会社から事業譲渡を受けた広告代理店事業、多チャンネル化したMAZDAのディーラーに受付派遣してた人材派遣事業、米国のウインドサーフィンブランドの日本総輸入代理店事業、マウイ島旅行代理店事業.....なんだか、たくさんやっていたようです笑

当時のSPA!で、秋元康さんと父親が「表参道にオフィスをかまえるデザイン会社社長」みたいなリード文で対談していた記事の記憶もあり、いまから振り返ると、父やODSは時代とCI~デザインバブルの波に乗っていたのだと思います。


1990年代 バブル崩壊後は、シニア市場に着目

当時私は中学生のため、詳細はわかりませんが、バブル崩壊のせいかのか、父のファイナンス経営管理が甘かったのか、突然に財務が悪化した様子で、数年間リストラをしていました。おそらく収益の出ていた各種コンサル事業以外はすべて売却や撤退。
この時期は父は帰宅後にもストレスフルな顔をしていた印象があります。ちなみに父の1度目の癌はこのタイミング。ストレス管理大事ですね。

90年代半ばに入ると、父は、日本の人口構成がシニアに偏ることに危機感を抱くと同時に、「これからは、シニアは元気なヒトも多いので、企業も弱者扱いせずに対応していかねばならない」とメッセージし、アクティブなシニアとほぼ同義語として、サードエイジという言葉を使いだしました。

サードエイジをキーワードに、90年代後半あたりから、書籍の出版、企業をスポンサーにして啓蒙のための社会運動フォーラム、シニア対象ビジネスの事業会社を大手企業との合弁企業として展開、と、非常に精力的に活動していました。

それらの活動は大きな投資をしながら、事業収益としてあまり果実は得られなかったように見えます。

ただ、社会への啓蒙運動のサードエイジフォーラムというイベントでは、ピーター・ドラッカー氏との対談など、父の社会的な立場を高めるような機会も多く、毎回東京国際フォーラムの大会場を埋める来場者の人数や熱気はなかなかのもので、家族からみると、とても幸せそうに見えました。

またビジネスの果実は得られなかったものの、シニアが前向きに楽しく生きていく価値観の普及には、彼は一定の役割を果たしたと思います。
また、そんな当時のイベントの理念に共感いただき、短期的な利益を求めずに多額のスポンサードをしてくださった大企業は本当に素晴らしいと思いました。

息子ながら、よく口説けたな、と思います。ゼロから事業を産み出す創業者の持つミラクルな営業力の成せる技だな、と。


父は年齢よりだいぶ若くみえるタイプで、50代を超えてもウインドサーフィンやバイクを楽しむなど、自分もアクティブなシニアのロールモデルであろうと意識しつつ、そんな生活を楽しんでいたようです。

私が父を、ひとりの経営者として冷静に分析すると、市場を立ち上げる初期段階は、抜群のプレゼン力で啓蒙し、市場を開拓する力が強い。ただ、市場が立ち上がって競合が増えていき、コモディティ化し始める頃には、競争力学は、営業プレゼンよりも納品オペレーションの標準化やコスト管理になっており、そこで一気に競争力が弱くなるパターンを繰り返す会社でした。

いわゆる事業ライフサイクルの初期に強く、成長期と成熟期に弱いタイプ。

また、自分の能力特性と補完的な人をうまく活用するのではなく、自分と似た能力特性の人を過大に評価して身近におきがちで、お世辞にも事業拡大に必須な組織マネジメントやファイナンスは上手とは言えない人でした。

しかし、社会のメガトレンドを見通し、人々に啓蒙的なプレゼンをするビジョナリーとしては一流の人だったと思いますし、そこに惹かれた方々が、お客様や社員となり、支えてくださったのだと思います。

人との会話におけるサービス精神も旺盛で、ある種のタレント性や人たらし力も抜群な人でした。このあたりは息子の私にはさっぱりなく、引き継がれなかったことが残念でなりません^^;


--------

絶縁された父との関係修復

そんなこんなで、父はODSという会社のオーナー創業経営者として、40年以上現役でやり続け、しかしながら2000年代に業績は悪化し、売上と社員数は減り続け、2010年位に会社は事業活動停止。

その後5年ほど引退生活をし、4度目の癌が昨年初夏に発覚し、もう手術のしようがなく・・・でした。

ここまで息子ながら他人事のようにODSのことを書いてきましたが、実は私は20代なかばの時期に、短い期間、実質的には1年に満たない期間ですが、父の会社で共に働いたことがあります。

しかし、尊敬はしつつも、経営に対する考え方が大きく異なり、早々と衝突し、父の会社の借金を減らすことも兼ねて事業売却へと動き、事業売却と共に私は父の会社を去りました。

短い期間ながら、この辺りの経験は、急激に縮小する危機的な会社では何が起こるのか、オーナー経営者の心理、従業員のモチベーションやモラルの崩壊など、私の中でも大きな印象に残り、その後の自分の経営者としての考えや、コンサルタントとしてのアプローチに大きく影響しています。

あまり父の期待通りの人生のジャッジをしなかった私は、この時の事業売却の推進時を含め、人生で2回ほど父の方から絶縁宣言をされております(苦笑)

しかし、そんな衝突を繰り返しつつも、私は結果的には似たような事業ドメインで起業をし、アプローチや考えは大きく違えど、企業のブランド、マーケティング、CIなどの支援をさせていただき、経営者の道を歩みだし、それを父も引退後の晩年は暖かく見守ってくれていました。

なんで、そこまで関係修復できたのか?

それは、父のDNAを継いだ孫のおかげ、としか言いようがなく(笑)

私の親不孝な対応の数々は、息子の存在が全てチャラにしてくれました。アイデンティティの核となる仕事を引退し、そのポッカリと空いてしまった心と時間を埋めるのに、私の幼い息子は高いパフォーマンスを発揮してたのは間違いなく、親子関係をも円滑にしてくれました。私が頑張ったわけじゃないけど、これが私が父親にできた唯一の親孝行らしきことでしょうか。

晩年は、父が幼少期の私にバイクを仕込んだように、私の息子にもバイクを教えてくれた日もありました。

おっと、思いっきり感傷的でプライベートな方向に話に逸れてしもた。失礼しました。

----

長々と書いてしまいましたが、父親という関係性を抜きにしても、ODSという会社、そして山口峻宏という経営者はなかなか個性的で面白い存在だったと思います。

創業オーナーにありがちなアクの強い人だったので、正直なところ父のことが苦手だった人もいますし、クライアントや社員でも、すごいファンになってくださった方と、何かしら嫌な想いをした・・という方に、好き嫌いがはっきり二極化している印象もあります。

私の名前は、父と漢字が一文字違いのせいで、「もしかしてお父さんも同じような仕事してませんでしたか?」と、いまだにビジネスの現場で父と昔関わりがあった方と偶然出逢います。(その時は、父のことを嫌いな人ではないように!と祈っておりますw)

そういった方々の多くが、父のCIの案件に、当時は若手として参加し、今はその企業の経営層になっていらっしゃる。

彼と出逢ったビジネスパーソンの方々の多くが、良いことも悪いことも沢山印象に残っている!と息子の私におっしゃってくださる。相応にインパクトのある会社と人だったのでしょう。

そんなODSと、父の記録を、ネット上に残しておきたく、一周忌である本日9月18日が良い機会と思い、ブログに書きました。

私は、フォロワーの皆様が関心の薄いであろう私的なことはあまりパブリックには書かないようにしているのですが、父とODSの件は、社会的な存在価値があるかな?と、思い切って書いてみました。今回に限りどうかご容赦ください。

-----

全社員公開で全員の給与査定という民主主義

最後に、1980年代に父の会社を取材したNHKの動画を貼り付けておきます。

父は「自分たちのことは、自分たちで決めるという究極の民主主義を目指す」という理想に向けた邁進していた1980年代、全社員公開の給与査定という珍しい施策をしていたことで、NHKよりドキュメンタリー番組取材をうけていました。

実に、青臭いし、やり方は非効率極まりないけど、父なりに理想に燃えて、本気で経営をやっていたんだな・・・と。

私にとって父は、特に仕事の帝王学を仕込まれた記憶はありませんが、その経営者としての生き様が、偉大なる教師と同時に反面教師でもあり、ひとことでは表せないリスペクトの対象です。


山口義宏 / インサイトフォース

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?