記事から 移民教育、指示権 2024年5月15日

原発事故の賠償金のような構造にも見える。
原発が低コストなのは、低額の賠償金を受忍させる限りにおいてだ。ちゃんと支払えば高コストになる。
同様に、移民労働力が低コストなのは、その家族までを含めたケアの提供を怠る限りでだろう。必要なケアをちゃんと提供すれば高コストになる。

国がケアを怠れば、自治体がケアの負担を被る。
もし自治体もケアを怠れば、移民とその家族が負担を被る(日本語ができないことが、就職の選択肢など、生き方を狭める)。
彼らが負担を被れば、社会が負担を被る(移民たちが日本語ができないことが、地域の人間関係の困難や、窓口や接客での多言語対応の負担を生じさせる)。

社会が負担を被れば、自治体にも負担を迫るのは自然なことだ。
自治体が負担を被れば、国にも負担を迫るのは自然なことだ。

どこかが負担を背負わねばならない。得だけ取ることができない構造になっている。

国が始めからケアとセットで移民労働力を受け入れる計画をしておけば、このような事態にはならなかったのではないか。
もちろん、政治家は国民に負担を説明したがらないだろう。しかし、十分に国民負担を説かなかったことがこの事態を招いているように思う。言葉を尽くさぬ政治の弱点だろうし、政治家に言葉を尽くさせない市民の弱点だと思う。

視察はしないよりはするほうがいいだろう。しかし、的外れな対策が出てくるのではないかという不安は拭えない。誰も負担しなくていいといった(移民以外にとって)都合のいい考えは捨ててほしい。甘言はもう十分だ。

国の不十分な政策で地方が現に困っているのに、国が全知の存在として地方に指示できると思えるのはなぜなのだろう。そんなに調査しているわけでもなかろうに。そして、その指示のせいで生じた負担は誰が背負うのだろう。少なくとも国が進んで背負おうとはすまい。


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