私の喘息の記録。

はじめて「気管支喘息です」と言われたのは高校年生のとき。
夜中、息ができず、横になることもできずとても苦しかった記憶。
翌日、母と病院へいったときに気管支喘息と言われ、その時にはすでに肺炎になっておりました。

先生から

「入院しますか?」

と聞かれたので

「しません!」

とキッパリ断ったのだけれど

「では、入院しますか。(決定)」

だったらしく即入院( ˘-з-)チェッ
前に自家中毒で運ばれたときは、嫌だって言ったら点滴2本打って解放されたのにさ。悔しいぜ。

ごはん美味しくないし、血管細くて点滴の針は入らないし、入ってもすぐズレるし、痛みに鈍感すぎて点滴外れてても気づかないまま腕にたんこぶできるし、氷枕も漏れてるの気づかなくてびしょ濡れになるし……散々だったな。(ほぼ自業自得)

でも、看護師さんいい人ばっかで、話し相手になってくれたり、ごはんの持ち込みOKしてくれたり(そしてコンビニ弁当食べて全部嘔吐したw嘔吐したときも「胃がびっくりしちゃったのかな」なんて言いながら優しく背中を撫でてくれた。天使か!👼)決して嫌な記憶じゃないの。期末テスト受けなくてよかったし。

2週間入院しても完治しなくて自宅療養に切り替えたんだけど、家に帰ったらすぐ治った!
ごはん食べなかったから体力なくて治らなかったんだと思うんだー🥸

その後は1時間半の自転車通学をやめて、ストレス要因の部活もやめて、自分の身体と上手くお付き合いしたので……次に肺炎になったときは、断固入院拒否で自宅療養を勝ち取れました(๑•̀ㅂ•́)و✧

↑なんか違う

時は過ぎ、大学時代。
2年くらい喘息出てなくて、きっと治ったんだ🤩なんて安心しきっていたころ。
障碍のある子どもたちと活動するボランティアに熱中。そして後先考えずに子どもたちと新聞紙プール(細く割いた新聞紙をわ~ってやって遊ぶやつ。説明下手か!)を満喫したその夜に見事に呼吸困難。学べない人間です。
入院は免れたもののまたしばらく治療することに。

そこからまた数年は大人しく過ごしていたのだけれど、宝塚にハマり過ぎて、夜行バスで週3とかで宝塚に通った結果、なんと疲労とバスの冷房により再発。どこまでもあほ。どこまでも自業自得。

仕事明けて夜行バスに乗り、片道12時間。朝、宝塚に到着して2公演観劇して、終演後にまたバスに乗る。そして朝帰宅し、出勤。これを繰り返したわけです。
若かりし日の思い出は美しすぎて...‎( ꒪⌓꒪)

ここではじめて長期的に治療したことでそこから発作らしい発作は1度も起こしてないの🤗
ただ、ここ数年は2年に1度くらい咳が止まらなくなるから、そんなときは喘鳴なくても吸入もらって咳を止めていたわけです。
原因不明。喘鳴ないから喘息の診断はないまま。

そして今年の3月。また恒例の咳がはじまりまして。
でも喘鳴ないし、また困った顔されるのかなーしかもこんな世の中だから病院いきたくないなーなんて思いつつも、離職して保険証失う前に一度は病院いっとこうと思いまして。
せっかくだし病院変えてみようかななんて思って調べたら、最近開業したばかりのなんか良さそうな病院発見!いってみました。
これが大当たり!すごくいい病院ですごくいい先生で。
胸の音もレントゲンも異常ないけど、肺活量の検査で喘息の特徴が出てるから咳喘息と診断して治療しましょうって言ってもらえたのです。(ちなみに肺活量は70歳。いや、気管支が細くなってるせいであって決して衰えているわけではないと信じたい)

これ、わかってもらえるだろうか?
なんかわからないけど咳を止めるために吸入出されるのと、喘息を治療するための方針を示されることの違い。
ここなら安心して通えると思ったね。
これで安心して歌を歌える気がするの。
咳が止まれば引け目を感じずに外を歩けると思ったの。いきぐるしい世の中だぜ。

前に咳が出てたのはSuperflyの「輝く月のように」を歌入れしたときだったから2020の9月くらいか。苦しいし声出ないし練習もほぼできなかったし後悔の残る録音。
もう二度と後悔を残さないように、治療がんばる!!🔥

↑今ここ。

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