1688年名誉革命(反カトリック)と境界紛争*第3代ボルチモア男爵 PART1.5
だいぶ間が開いてしまいましたが、ボルチモア男爵(カルバート家)について書きます。
たまり過ぎた下書きをなんとか消化しないと・・・もう年が明けそうなスピードの2024年ですね。
カトリックが非合法化される
1688年、カトリック教徒を支持していたジェームズ2世が打倒され追放される名誉革命が起き、ジェームズ2世の娘メアリー2世と、その夫でプロテスタントのオランダ総督オラニエ公ウィリアム3世(ウィレム3世)がイングランド国王に即位しました。
カトリック教徒にとっては、名誉革命は以後数世紀に渡る苦難の始まりでした。
イギリス国内、各植民地では、公の場でのカトリック信仰の実践や、カトリック信徒が公職につくのを禁止されました。
1689 年に発布された権利の章典(Bill of Rights)により、植民地に対する王室憲章が撤回され、英国王室による直接統治が始まりました。
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メリーランドでは、ピューリタン・プロテスタントが、(Part1で書いた)寛容法を取り消し、公の場でのカトリック信仰の実践を禁止しました。
メリーランドはカルバート家が運営する領主植民地でしたが、カルバート家は代々カトリック信徒だったため、権利を失うことになりました。
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第3代ボルチモア男爵チャールズ・カルバート
第2代ボルチモア男爵セシル・カルバート(1605–1675) の死により、息子チャールズ・カルバート(1637年8月27日 – 1715年2月21日)が、第3代ボルチモア男爵を継承しました。
1661年(24歳)に父セシルから副総督に任命されて、メリーランドで総督を代行していましたが、1684年にイングランドに帰国しました。
このときチャールズが帰国した理由は、ペンシルベニア植民地の総督ウィリアム・ペンとの長年の境界紛争について議会に報告&裁判のためでした。
後を追うようにウィリアム・ペンもイングランドに帰国しました。
詳しくは後述します。
しかし、まもなくチャールズ2世が心臓発作で死去し(1685年)、弟のヨーク公ジェームズ2世が即位するも直後にモンマスの反乱が起き、反乱平定後はジェームズ2世が親カトリックと専制を推し進めたため周囲の反発で政権は傾きました。
ジェームズ2世の即位からわずか3年で、上述の名誉革命が起こり、ジェームズ2世は追放されました。
チャールズ・カルバートは、メリーランド領主の権利を失ったため、彼は二度とボルチモアに戻ることはありませんでした。
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メリーランドにおけるプロテスタント革命
メリーランドのプロテスタントは、この時までにかなりの多数派となっていました。
ウィリアム2 世とメアリー 2 世が王位に就き、ほかの植民地が次々と新しい主権を宣言する中で、帰国していたチャールズ・カルバートが派遣した使者が旅の途中で亡くなってしまっため、メリーランド植民地に知らせが届きませんでした。
プロテスタントは、領主には新国王と女王に対する支持が欠如しているとみなし、副知事であった農園主のヘンリー・ダーナル大佐のようなカトリック教徒が公的権力の地位に優遇されていることにも憤慨していました。
1689年夏、700名の武装したピューリタン(プロテスタント協会)が、ヘンリー・ダーナル大佐が率いる領主軍を破り、カトリックを非合法化する新政府を樹立しました。
1704年には「この管区における教皇の増加を阻止するため」の法律が可決され、カトリック教徒は公職に就くことができなくなりました。
初代ボルチモア卿が願った「カトリックの避難場所となるコミュニティ」は50年で完全に消滅してしまいました。
その後1715年に、第5代ボルティモア男爵にメリーランドの権利が戻ることになります。それは国教会に改宗したので、戻ることが許されたのでした。
それについては長くなるので、またの機会に。
反カトリックの集団ヒステリー事件
チャールズ・カルバートは、1694年に(Part1の記事に書いた)反カトリックの牧師タイタス・オーツがでっち上げた「ポピッシュ陰謀事件(カトリック陰謀事件)」への関与が疑われ逮捕されかかりました。
この陰謀事件が起きたのは、それより10年以上前のことです。
架空の「カトリック陰謀事件」は、ヘンリー8世から始まったイングランドの宗教改革と、清教徒革命(イングランド内戦1642年 - 1649年)が終わってまもない時期のイングランド国民に強い反カトリック 感情を刺激しました。
経緯は長いので割愛しますが、イングランド議会が架空の陰謀話を疑わなかったのが元凶でしょう。むしろ、それを利用しようと考えたのかも。
議会は、潜在的に反カトリックが多かったので、王(チャールズ1世)も処刑されたわけですから。
ほぼ3年が過ぎ、15人の無実の男たちが処刑された後(最終的に少なくとも22人が処刑された)、世論はようやく疑問を感じ始めました。
オーツが告発していた数百人の無実が裁判で証明され、オーツと彼のホイッグ党支持者に対する反発が起こりました。
1681年、オーツは扇動罪で逮捕され有罪判決を受け投獄されましたが、なんと、1689年の名誉革命で恩赦を受け、さらに年金も死ぬまでもらえることになりました。
なんだ、それって感じですが・・・オーツがイエズス会だったらとっくに四つ裂きの刑だったでしょう。
タイタス・オーツがでっち上げで告発した5人のカトリックの貴族の中に、チャールズ・カルバート家の母方の親戚であるウィリアム・ハワード (初代スタッフォード子爵)、母方の祖父ヘンリー・アランデル、第3代ウォーダー・アランデル男爵が含まれており、それで関与が疑われたのかもしれません。
英国における反カトリック主義(英語)
アメリカ合衆国における反カトリック主義(英語)
反聖職者主義(日本語)
ペン・カルバート境界紛争
ウィリアム・ペンとチャールズ・カルバートの論争は、1632年にチャールズ1世がチェサピーク湾沿いの土地の特許状を与えたことに遡ります。
特許状の北の境界は北緯40度線、東の境界はデラウェア湾と大西洋でした。しかし、特許状はカルバート家に「未耕作」の土地の権利しか与えていませんでした。
論争の背景
デラウェア川流域にオランダの植民地ニューネーデルランドの建設が始まったのは、1614年でした。
スペインとの八十年戦争(1568年から1648年にかけて(1609年から1621年までの12年間の休戦を挟む)の休戦中のことです。
この期間、単独で武装しないオランダ船でもスペインからは攻撃されない状態でした。
1638年、スウェーデン政府は、ニューネーデルランドの領土が宣言されていたデラウェア川流域にニュースウェーデン植民地を創設しました。
ニュースウェーデンの植民地は、はじめにクリスティーナ砦が建設され、ここを拠点に周辺へ入植地を拡大していきました。
オランダ人はこれを自国の領土への侵入とみなし、1651年に新しい前哨基地であるカジミール要塞を現在のデラウェア州ニューキャッスル、クリスティーナ砦の南に設立しました。
1655年、スウェーデン本国で北方戦争が始まったため、オランダはこの期にニュースウェーデンの領土を奪還にかかり、ニュースウェーデンはニューネーデルランドに併合されました。
カジミール砦はニューアムステルと改名されました。
メリーランドは1659年にニューアムステルに代表者を派遣し、ボルティモア卿に与えられた土地に彼らが居住していることに抗議しました。
1664年、第二次英蘭戦争でイギリス軍はまずニューネーデルラントを占領し、ニューヨーク市と改名しました。
チャールズ2世は弟のヨーク公ジェームズ2世にコネチカット川とデラウェア川の間のすべての土地を与えました。
ニューアムステルはニューキャッスルと改名され、ニューアムステルダムは公爵にちなんでニューヨークと名付けられました。
12マイルの環状線
1681年、ウィリアム・ペンはチャールズ2世からペンシルベニアの勅許状を与えられました。
メリーランドに与えられた勅許と土地が重複していたため、最終的に解決するまでに、調停、測量、国王とイングランドの裁判所による介入など、何度も試みられました。
チャールズ・カルバートは、ペンの土地がメリーランドの北の境界である北緯40度線より北にある限りは反対しませんでした。
さらに、チャールズ2世はニューキャッスルの周囲に12マイルの環状線を引きました。
ジェームズ2世と旧知だったウィリアム・ペンは、ジェームズ2世を説得してこれらの土地も自分に貸し出させ、1682年8月、ジェームズ2世はペンにニューキャッスルの周囲12マイルの環状線と南のケープ・ヘンローペンまでの土地を与えました。
1683年5月にペンとカルバートはペンシルベニアの南の境界線をどこにするか、12マイルサークルの大きさをどう判断するかなど、境界線をどのように決めるかで話しあったが意見が合わず、ここから80年におよぶ長い法廷闘争が始まりました。
境界紛争の歴史
ペンシルベニア植民地とメリーランド植民地はともに勅許状を根拠として北緯39度と40度の間の土地の領有を主張しました。
ペンは新しい植民地がチェサピーク湾にアクセスできるようにしたかったが、カルバートは北緯40度線がペンシルベニアの最南端の境界となるべきだと強く主張し、デラウェア湾の土地は1632年のメリーランドの元々の特許に含まれていると主張した。
デラウェア湾に沿った低地3郡(Three Lower Counties、現在のデラウェア州にあたる。)は、ペンシルベニア植民地の一部とされ、後にはペンシルベニア植民地の衛星植民地であるデラウェア植民地になりました。
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チャールズ・カルバートは1715年に死去し、ウィリアム・ペンは1718年に死去しました。
第4代ボルチモア男爵ベネディクト・カルバートは父の死からわずか2か月後に死去したため、境界紛争はメリーランド側では第5代ボルチモア男爵チャールズ・カルバート、ペンの子であるジョン、トーマス、リチャードに引き継がれました。
1732年、第5代ボルティモア男爵チャールズ・カルバートは、ウィリアム・ペンの息子と暫定協定に署名しました。
この協定は、中間のどこかに線引きをし、デラウェアに対するカルバートの権利を放棄する内容でした。
しかし、後にボルティモア卿は、その文書には合意したはずの事項が盛り込まれていないとして実施を拒んだため、1730年代半ばからは両植民地の居住者の間で暴力的な争いが起きるようになっていきました。
メイソン=ディクソン線
この諍いは、1760年まで未解決のままでしたが、国王ジョージ2世が介入し、第6代ボルティモア男爵フレデリック・カルバートに1732年の合意を受け入れるように命じました。
解決策の一部として、ペン家とカルバート家は、チャールズ・メイソンとジェレマイア・ディクソンに、ペンシルベニア植民地、メリーランド植民地、デラウェア植民地、バージニア植民地の一部の間に新たに設けられた境界を調査するように依嘱しました。
メイソンとディクソンは1763年から1767年にかけて境界の測量を行い、これらの地域の境界が画定しました。
メリーランドとペンシルベニアの境界は、東西に走り、ほぼ北緯39度43分20秒に沿っています。
この線は幾何学的な意味での「直線」ではなく、ペンシルバニアとメリーランド境界線(300キロメートル強)の場合で直線に対して中央部でおよそ2キロメートルほど南側に湾曲した曲線となっているそうです。
設置された標識の位置は測量誤差等の影響により北緯39度43分15秒から北緯39度43分23秒の間に分布しています。
チャールズ・カルバートの家系
話は変わりますが、第3代ボルティモア男爵チャールズ・カルバートの父母についてUPしたつもりで下書きのままでした(汗)
それはまた別にUPするとして、彼は4回結婚し、少なくとも2人の子供をもうけました。
出産中に亡くなった最初の妻メアリー・ダーナルは、上述のメリーランドの副知事ヘンリー・ダーナルの従兄妹でした。
2番目の妻ジェーン・ロウJane Lowe(1633年-1700年)は、ヘンリー・シューアル(1665年頃没)の未亡人だったとのこと。
ロウ姓はアイルランド?
家系図を調べてみると、彼女の父はヴィンセント・ロウ卿(1592 - 1640)、母はヘンリー・キャベンディシュの庶子アン・キャベンディッシュ(1599–1661)
キャベンティッシュCavendish家は、フランス・ノルマンディーから来たと思いますが、スペンサー家(ダイアナ妃)、チャーチル家(ウィストン・チャーチル)、ケネディ家とも繋がります。
ジェーンとの間に生まれた長男は病死し、次男ベネディクト(1679年 - 1715年)が第4代ボルチモア男爵になりました。
チャールズ・カルバートの庶子と見られているチャールズ・カルバート・レーゼンビー( 1688年頃- 1734年2月2日)。
この記事も長くなりました。
まだ続くので、よかったらまたお付き合いください。
ボルチモア男爵は18世紀には途絶えてしまったのですが、州章に紋章が引き継がれているように、メリーランド州にはボルチモア郡、カルバート郡、セシル郡、チャールズ郡、フレデリック郡など、ボルチモア男爵を称える地名や名前のついた通りが数多くあります。
ボルチモア男爵カルバート家の功績は、メリーランド州全域で今も敬意と共に伝えられているように思います。
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