見出し画像

イギリス・アランデル城とモンゴメリー家

ボルチモア男爵カルバート家について調べているついで、イギリス、ウェスト・サセックス州のアランデルという町に11世紀に建てられたアランデル城が残っていることを知りました。

この記事では、アランデル城にまつわる人物について書きます。
マニアックな内容なのでご興味持ってくださる方は少ないと思いますが(そんなことでは私はめげない(笑)、備忘録も兼ねて書いておきます。

アランデル城

アランデル城(Arundel Castle)は、イングランド、ウェスト・サセックス州アランデルにある中世の城。
1067年にロジャー・ド・モンゴメリーによって建てられた。

イングランド内戦で被害を受けましたが、18世紀から19世紀初頭に第 11 代ノーフォーク公チャールズ ハワードによって修復されたそうで、いくつかの写真を見ても大変手入れが行き届いているお城です。

アランデル城は、テレビや映画の撮影場所として使用されており、2017 年の映画『ワンダーウーマン』のロケ地でもあったそうです。

11 世紀以来、この城はアランデル伯爵とノーフォーク公爵の居城となっています。




ロジャー・ド・モンゴメリーの死後、城は王家に返還されました。
国王ヘンリー1世は遺言でアランデル城と付属の土地を2番目の妻であるアデライザ・オブ・ルーヴァンに残し、1138年、彼女は初代アランデル伯爵ウィリアム・ド・オービニーと結婚しました。

オービニー家


1176年にウィリアム・ド・オービニーが亡くなり、アランデル城は再び王家に返還され、国王ヘンリー2世は莫大な費用を投じて改築したそうです。

ヘンリー2世が亡くなると、アランデル城は息子リチャード1世の所有物となり、リチャード1世は第3代アランデル伯爵ウィリアム・ド・オービニーに譲渡しました。

オービニー家直系の最後は、1243年に若くして亡くなった第5代アランデル伯爵ヒュー・ド・オービニーだったため、相続人となった彼の妹イザベル・ド・オービニーがジョン・フィッツアランと結婚すると、ジョン・フィッツアランが6代アランデル伯爵となって城を相続しました。

フィッツアランの紋章

その後フィッツアラン家の直系男子は第19代アランデル伯爵ヘンリー・フィッツアランの死(1580年)によって途絶え、その娘であるメアリーと結婚した第4代ノーフォーク公爵トマス・ハワードがアランデルの城と領地を受け継いだ。
しかしトマス・ハワードはスコットランド女王メアリーとの結婚を画策したことで処刑され、アランデル城と領地は再び王室に没収された。
その後、アランデル城はハワード家に返却されている。

ハワード家


トマス・ハワードが処刑された理由は、カトリックの女王メアリーとの結婚が、エリザベス1世女王(プロテスタント)の王位を脅かすものと判断されたからです。

ハワード家は、ヘンリー8世の5番目の妃、キャサリン・ハワード(1540年結婚、1542年姦通罪で処刑)の実家で、ボルチモア男爵カルバート家とも縁が深いです。
詳しくは、カルバート家の記事で書きます。


~~**◇◆◇**~~**◇◆◇**~~

モンゴメリー家

最初にこの場所に城を建てたのは、ロジェ・ド・モンゴメリーという人物でした。

ロジェ・ド・モンゴメリーは、ロジャー大王としても知られるロジャー・ド・モンゴメリー2世(ロジェ2世、1094 年没)のことで、ウィリアム征服王の顧問だったサセックス州の初代シュルーズベリー伯爵およびアランデル伯爵でした。


ウェールズにはロジャー・ド・モンゴメリー2世にちなんだ「モンゴメリーシャー」という地域があります。

モンゴメリー市庁舎
ロジャー・ド・モンゴメリー2世が建てたと言われるモンゴメリー城址


彼の父親は、ノルマンディー(現在のフランス・カルヴァドス県)のモンゴメリー領主、エクスメスのイエモワ家の子爵だったロジェ・ド・モンゴメリー(息子と同名)でした。(後述)

カルヴァドス県には、モンゴメリーの名前がついた場所が現在2カ所あります。サン ジェルマン ド モンゴメリー、サント・フォワ・ド・モンゴメリー。

中世ノルマンディーのイエモワの地図と場所


また、ウィリアム征服王が生まれた場所と言われるファーレーズ城と、ウィリアム征服王の墓もあります。


ロジャー・ド・モンゴメリー2世は、ウィリアム征服王の曽祖父であるリシャール(リチャード)1世と妻グンノール公爵夫人の孫甥であったと考えられています。

*****


モン/ゴメリー家

モンゴメリー姓は、モン/ゴメリと区切り、「ゴメリの山 (あるいは墓)」という意味で、ゴメリという人物が作った要塞ということだったようです。

おそらく下図のようなモット&ベイリー(小高い丘に木材で壁を建てた要塞)だったでしょう。


アランデル城もモンゴメリー城も、最初はモット&ベイリーでした。この建設方法もノルマン人が大陸から持ち込んだものです。

ローマ人は四角い土地にこだわるのですが、ノルマン人は自然の丘の形状を利用していることがわかります。


モンゴメリー家紋章


1067年の終わりか1068年の初めに、ウィリアム征服王は現在のウェストサセックス郡の領土ほぼすべてをロジャー2世に与えたそうです。

ロジャー2世はシュロップシャーの領地を与えられたのち、シュルーズベリー伯爵となり、 1083年にカトリックのベネディクト修道会の修道院としてシュルーズベリー修道院を設立しました。

シュルーズベリー修道院には、ロジャー・ド・モンゴメリー2世と、次男の第2代シュルーズベリー伯ヒュー・オブ・モンゴメリー(1098 年没) が埋葬されています。

*****

モンゴメリー姓で私がすぐに思い出したのは、『赤毛のアン』の作者のルーシー・モード・モンゴメリーなんですが、彼女はスコットランド系です。

ロジャー2世の孫フィリップ・ド・モンゴメリーが、スコットランドのレンフルシャーに定住し、モンゴメリー姓が広がったそうです。


モンゴメリーストリート(イーグルシャム)


レンフルシャーの南東イーグルシャムは、スコットランド王デヴィッド 1世が、ステュアート家と共通の父系の祖先をもつフィッツアラン家の一員であるスコットランド執事ウォルター・フィッツ・アラン(1106 - 1177) に与えた土地でした。

さらにウォルター・フイッツ・アランが、ロバート・ド・モンゴメリーという人物にイーグルシャムを与えたことはほぼ確実だそうです。

~~**◇◆◇**~~**◇◆◇**~~

ベレーム家

ロジャー2世の妻は、ノルマンディー地域圏オルヌ県のアランソン領主、ウィリアム 2世 タルヴァ(995 年頃 - 1060 年頃 )の娘メイベル・ド・ベレームでした。

アランソンは、フランク王国のメロヴィング朝時代には百人組が置かれ、この地方における軍事と行政の拠点であった。
7世紀初頭からカロリング朝を通じて900年頃まで、centena Alancioninsis が置かれた。フランク王国の地方官であったアランソン伯は、やがてこの地帯の世襲君主となり、のちに公爵となった。

ウィリアム ・タルヴァの祖父、イヴ・ダランソン(イヴ・ド・ベレーム、1005年頃に死亡)がベレーム家の祖と言われています。

彼ら(ベレーム家)は、10世紀から12世紀にかけてベレーム、アランソン、ドンフロンセーの重要な城のほか、フランス、ノルマンディー、メーヌの広大な土地を所有していました。

ベレーム家
ベレームの土地の地図


1027年、ノルマンディー王リシャール(リチャード)3世が原因不明で亡くなり、弟のロベール1世(ウィリアム征服王の父)が跡を継いだとき、公国内で内戦が起きベレーム家はロベール1世に対して反乱を起こしました。

近隣の男爵間で私的な戦争が激化し、その結果、ノルマンディーに新しい貴族制度が誕生しました。
下級貴族の多くがノルマンディーを離れ、南イタリアなどに移住したのもこの時期でした。

*****

さて、ウィリアム・タルヴァは、残酷で無慈悲で横暴な人物だったと身も蓋もなく言われています。
最初の妻は強盗に絞殺されたそうですが、歴史家はタルヴァが手を下したと考えているそうです。最初の妻とは2児をもうけました。

2番目の妻は、メイン子爵ボーモン オー メーヌのラウル 5 世ド・ボーモントの娘ハーベルジュ・ド・ボーモントと再婚しました。
2番目の妻との子どもはいませんでした。

メイン子爵紋章


タルヴァは、この結婚の祝宴にウール県モントルイユ ラルジーユの領主、ウィリアム・フィッツ・ジロワほかの領主たちを招待し、彼らを捕らえて拷問し、手足切断や失明などの障害を負わせたと言われています。
(理由は権力争いなんでしょうね)
ジロワは、修道院に隠遁して残りの人生を送りました。

ジロワ家はタルヴァに復讐するため、タルヴァの兄と同盟を結び、タルヴァの土地を略奪し破壊しました。
最後にはタルヴァの息子アルヌルフが、自分の父に対して反乱を起こし、父親を追放しました。

メイベル・ド・ベレーム


ウィリアム征服王が軍事介入して戦争を終わらせ、タルヴァはド・モンゴメリー家に引き取られました。
またウィリアム征服王の勧めによって、ベレーム家の土地と引き換えにロジヤー2世とタルヴァの娘メイベルが結婚することになったのです。

*****


しかし、父親への怨みは、やがてメイベルにも向かいました。
彼女の夫ロジャー2世がシュルーズベリー伯爵となったあとの1077年12 月のある日、カルヴァドス県のビュール・シュル・ディーヴトロアーンの近く)の城で、ジロワ家の支持者たちにより斬首されて亡くなりました。


暴君ロバート・オブ・ベレーム

ロジャー2世とメイベルには10人の子供がいました。
長男の第3代シュルーズベリー伯爵ロバート・オブ・ベレーム( 1052年頃- 1130 年以降)は、その残虐行為で有名になったと言われています。

1073年、ウィリアム征服王がメイン(メーヌ)に侵攻したとき、ロバートはフレズネー城(Château de Fresnay)の包囲戦の功績によって騎士に叙せられました。
1077年には、ウィリアム征服王に対するノルマンディー公ロベール2世の反乱に参加しました。


1088年の反乱

1088 年の反乱は征服王ウィリアムの死後に起こり 、彼の 2 人の息子ウィリアム2世(イングランド王)とロベール2世(ノルマンディー公)の間でのイングランド王国とノルマンディー公国の土地の分割に関するものでした。
敵対行為は1088 年の復活祭の頃から始まり、3 か月から 6 か月間続きました。

ウィリアム征服王の領土が 2 つの部分に分割されたことは、イギリス海峡の両側に土地を所有していた貴族たちにジレンマをもたらしました。

ウィリアム征服王の異母兄弟であるオド司教がリーダーとなり、イングランドとノルマンディーを一つの統治者のもとで再び統一することを目的に、3男のウィリアム1世を失脚させ、長男のノルマンディー公ロベール2世をイングランド王にするクーデターが計画されました。
反乱軍には、ベレーム、モンゴメリーも加わっていました。

詳細は省きますが、ノルマンディーからの軍隊が、悪天候のためイングランドに上陸できなかったことが幸いし、王党軍が勝利しました。
オド司教はノルマンディーに終身追放されましたが、国王は反乱した貴族にも寛容を示し、脅威となる貴族を排除しました。
モンゴメリー家は国王に加わりました。

ウィリアム2世(イングランド王)


~~**◇◆◇**~~**◇◆◇**~~


ロバート・ベーレムは、ロチェスター城(ケント)を守った反乱軍の一人として有名になりました。

ノルマンディーに戻ったベレームは、危険な破壊勢力と見做されました。
オド司教は、「ベレームが今度は国王と共謀して、ノルマンディー公ロベール2世に反乱を計画している」と偽証したため、ロバート・ベレームは捕らえられてしまいました。

父であるシュルーズベリー伯爵(ロジャー2世)は、息子が投獄されたことを聞くとすぐにノルマンディーに向かい、領地のすべての城をノルマンディー公爵の攻撃に対して備えた状態に整えました。
この時点で、モンゴメリー(ベレーム家)はノルマンディー公に反乱を起こしたと解釈されることになりました。

オド司教は、ノルマンディー公にベレーム家の領地のすべての城を占領するよう扇動し、公爵の軍隊はベレームの家族が住んでいるサン・セネリの城を占領しました。
ところが、ノルマンディー公はベレームの城を攻略することに急に興味を失い軍隊を撤収したため、ロジャー2世は和平使節を送り、息子であるロバート・ベレームは解放されました。
和平の代償にサン・セネリは、ノルマンディー公に寄進されました。

サン・セネリ・ル・ジェレイ


父ロジャー2世の死と弟ヒュー・モンゴメリー

1094年、ロジャー・ド・モンゴメリー2世が死去したため、ロバートの弟のヒューが第2代シュルーズベリー伯爵となり、イングランドの土地を継承しました。

ロバートはノルマンディーの財産を継承し、ノルマンディー中南部のかなりの領地を受け継ぎました。

1095年、ヒューは国王ウィリアム2世に対して、オマール伯スティーブン(ウィリアム征服王の妹の子)を王位に就かせるというノーサンブリア伯爵ロバート・デ・モウブレイの陰謀に加わりました。
1096年、ヒューは3,000ポンドの罰金を科された後、国王によって恩赦されました。

1098年、ヒューがアングルシー湾の戦いで戦死し、ロバートはアランデルとシュルーズベリー伯爵位を含むイギリスの財産を相続しました。
また、ノルマンディーのポンテュー伯爵位も獲得したため、彼はイングランドとノルマンディーの両方で最も裕福な有力者となったのです。

~~**◇◆◇**~~**◇◆◇**~~


アングロ・ノルマン南北戦争 1101年

国王ウィリアム2世が亡くなり、その弟ヘンリー1世(在位:1100年 - 1135年)が王位を継承すると、再びノルマンディー公がヘンリー1世の追放を企て、ベレーム家とモンゴメリ―家も反乱に加わりました。

ヘンリー1世

今回もまた王党軍が勝利し、ロバート・ベレームはイギリスの土地と称号を失い、イギリスから追放され、ノルマンディーに戻りました。

(このとき、アランデル城は王室に返還されました)

*****

1106年、タンシュブレーの戦いでノルマンディーがヘンリー1世の統治下に入ったため、ベーレム家は服従し、ノルマンディーの領地とイエモワ子爵を保持することを認められました。

しかし、ヘンリー1世ベレーム家への警戒を緩めませんでした。
1110年7月の反乱でロバート・ベレームは中心的な役割を果たし、1112年、ロバートがフランス王ルイ6世の使節を務めていたとき、ヘンリー1世に捕らえられて投獄されました。

ロバートは残りの人生を囚人として過ごし、彼の死の正確な日付は不明です。


ロバート・ベレームは、1087年9月9日以前にポンテューのアグネスと結婚し、子どもを一人もうけていました。
息子のポンテュー伯ウィリアム3世は、母アグネスの死と1112年の父の投獄後、ポンチュー伯領を継承しています。

ポンテュー伯紋章


書いていて気付きましたが、アグネス・ポンテューの父は、下記の記事でちらっと書いたポンテュー伯ギイ1世です。

~~**◇◆◇**~~**◇◆◇**~~


ジロワ家との確執が現在まで禍根を残す

歴史的には乱暴狼藉を働く反乱分子として描かれているロバート・ベレームですが、彼の人物評のほとんどはイギリスの年代記作家でベネディクト会の修道士であったオーデリック・ヴィタリス(1075年 –  1142年頃)という人物によるものです。

1110年から1112年にかけてのヘンリー1世に対する反乱におけるロバート・ベーレムの活動に言及して、年代記作家のOrderic Vitalisは、彼のHistoria Ecclesiasticaの第XI巻で、ロバートを「残酷で、神の教会と貧しい人々の執拗な迫害者。西暦時代全体における彼の不法行為は比類のないものであった」とし、「略奪と焼き討ちの多くの犯罪にさらに悪い犯罪を加える準備をしていた暴君」と記している。


小説家を含め、歴史家や評論家が何を信じ、誰を支持していたかはとても重要ですね。

オーデリック・ヴィリタリスは、ノルマンディーにかつてあったベネディクト 会修道院(現在のサンテヴル=ノートルダムコミューンにある)サンテヴルール修道院で働いていました。

サンテヴルー修道院教会の遺跡


オーデリック・ヴィタリスは、1091年頃にはこの頃修道院に入っていたことがわかっています。

サンテヴルール修道院は、ベレーム家と敵対していたジロワ家の援助を当初から受けていました。つまりパトロンがジロワ家なのです。
ですので、ベレーム家のことを悪く書けば書くほど、パトロンを喜ばせることになるわけですね。

神に仕える者も、パトロンを失っては教会を保つことはできない。
これが現実なんですよね。
(ローマ教皇もある国の王族には決して頭が上がらない)

そういった意味では、極悪人として名を残させられたロバート・ベレーム始めとするベレーム家は気の毒ではありますね。
探しても誰の肖像画も残っていませんし。


~~**◇◆◇**~~**◇◆◇**~~

モンゴメリー王

ロジャー2世の父は、モンゴメリー王ロジャー 1世というそうです。
出自不明となっていますが、ノルマンディー公国の貴族たちと同じくヴァイキングの子孫で間違いないでしょう。

ロジャー1世には5人の子どもがいたそうです。
ヒュー・ド・モンゴメリー
ロバート・ド・モンゴメリー
II.ロジャー・ド・モンゴメリー、初代シュルーズベリー伯爵。
ウィリアム・ド・モンゴメリー
ジルベール・ド・モンゴメリー(1063年にメイベル・ド・ベレームに毒殺されたとされている)

*****

ゴメリの山

話は変わりますが、「モンゴメリ=ゴメリの山」だとすると、「ゴメリって誰なん?」ってなりませんか?(私だけ?)
調べてみると、いくつかの説がありました。

1つは、ハーラル1世(ノルウェー王)の近親者だったモア伯爵ラグンヴァルド・エイステインソン(900年頃没)の息子であるゴメリック。

あるいは、中世イングランドの王国、イースト・アングリアとノーサンブリアのバイキング王Ingvar Ragnarsson(イーヴァル・ラグナルソン  873年頃没)の息子であるゴメリック。

ただ、どちらも伝説化された父親の、さらにその子どもなので、実際にいた人物かはわからないのが悩ましいです。

ロブロカス(ロズブローク)とその息子たちイーヴァルとウッボ


3つめは、ノルマディー公国の祖ロロことロベール1世(933年没)の兄弟。
ロロは、上述のモア伯爵ラグンヴァルド・エイステインソンの息子の一人といわれています。そうすると1に戻ってしまいます(苦笑)

ところが、ラグンヴァルド・エイステインソンの息子にはゴメリ、ゴメリックという名前はいないようです。

モンゴメリー家の祖先までたどり着くことはできませんでした。残念。

~~**◇◆◇**~~**◇◆◇**~~

ちょっとだけのつもりが、この記事も長くなってしまいました。
マニアックな記事を最後までお読みくださりありがとうございました。
よかったらまたお付き合いください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?