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ローマを建国したロームルスと悲しみのポメリウム

最近、キリスト教とローマのことばかり書いている気がします(苦笑)
この記事もローマに関係したことなのですが、「すべての道はローマに通ず」とはよく言ったものだと思います。

ヒッポのアウグスティヌスは、彼の著書『神の国』の中で、キリスト教が広まる前のローマで崇拝されていた異教の神々は、「ローマ人に道徳を与えなかった。淫猥な祭典すら要求し、不浄の汚鬼に違いない」と断言しました。

アウグスティヌスら教父たちは、「ローマ人は異教を捨ててキリスト教に回心しなければならない」と訴えましたが、キリスト教以外を排除してしまったことでローマ帝国の滅びは早まったように思います。

始めたことは必ずいつかは終わる定めではありますが・・・。



ローマの建国

ローマの建国神話では、紀元前753年4月21日にロームルスRomulusが「 Romana」を建設したところから、王政ローマが始まります。
4月21日はローマの誕生日ということで、現地では「Natali di Roma」とも呼ばれているそうです。(ローマのクリスマスという意味で)

人間の年齢になおすと、ローマは今年(2023年)、2776歳になりました(笑)
地球の歳差運動が約2190年なので、ローマが建国されたのは「おひつじ座の時代」でしょう。
紀元前500年代~紀元前400年代のエレメントが土なので、紀元前750年代は「火の時代」だったかもしれません。



ロームルスには、双子の兄弟レムスがいました。資料によって兄と弟が入れ替わっていますが、私の記憶ではロームルスが兄です。

彼らの母はレア・シルウィア。初期の伝承ではイリアと呼ばれていました。
彼らの父は、軍神マルス(火星)と言われています。火星は、牡羊座の守護星です。

産みの母レア・シルウィア

レア・シルウィアの像


伝承によれば、母レア・シルウィアは、ラティウム州アルバ・ロンガの王族ヌミトルの娘でした。
遡って祖先は、トロイの木馬の英雄であるアイネアス(アプロディーテの子)とラティウムの王ラティヌスという由緒ある家柄です。

アルバ・ロンガでは、アイネアスの死後、息子のアスカニオス(アルバ王)が都市を繁栄させました。
アスカニオスの死後、王位は彼の息子、あるいは異母兄弟とされているシルウィウスに継承され、以降の王達は「シルウィウス」を姓として名乗ったそうです。
レア・シルウィアの名も、シルウィウスに繋がる王族であることを表しています。


『アエネアスはトロイを燃やす』、フェデリコ・バロッチ作(1598年)


ある日ヌミトルは、弟アムーリウスに王位を奪われ、息子ラウススを殺害され、娘レア・シルウィアは強制的に「ウェスタの巫女」にさせられました。


ウェスタの巫女は、貴族の子女のみに許されたエリート的存在でしたが、30年間の奉仕とその間は純潔を保たなければいけなかったことは、上のリンク記事にも書きました。
アムーリウスは、正当な王位を継ぐヌミトルの子孫が増えるのを防ぐために、レア・シルウィアを結婚させないようにしたと言われています。


ところが、レア・シルウィアが巫女になって4年目に、彼女は突然、妊娠してしまうのです。
レア・シルウィアが神殿で使用するための水を汲みに泉に行ったときに眠気に襲われて眠ってしまい、そのときに軍神マルス(火星)が現れて彼女をレイプしたということでした。

マルスとレア・シルウィア

レア・シルウィアの妊娠を知ったアムーリウスは、双子が産まれるとすぐに赤ん坊を殺すように命じましたが、兵士は幼い彼らを哀れみ、籠に入れて密かにティベリス川に流しました。

その後、レア・シルウィアは、純潔の誓いを破った罪で投獄されたそうです。おそらく唯一の巫女の処刑法にならい、生き埋めにされたのでしょう。


育ての母アッカ・ラレンティア

双子は幸運にも川の精霊に助けられ、雌オオカミの乳を飲んで生き延びているところを、パラティーノの丘周辺に暮らしていた羊飼いのファウストゥルス(Faustulus)に拾われました。

双子は「ロームルス」と「レムス」と名付けられ、ファウストゥルスと彼の妻アッカ・ラレンティアによって大切に育てられました。


アッカ・ラレンティアには、複数の伝承があります。
彼女はファウストゥルスの妻ではなく「ルパ」(雌オオカミの意味)と呼ばれる売春婦であったという説や、彼女は豊穣の女神で12人の子どもがいたという説では、ラレス崇拝のアルヴァル同胞団は彼女の子どもたちが始めたということになっています。

ラレスは、家庭、道路、海路、境界、属(家系)の守護神とされており、すべての町で崇拝されていました。各家庭だけでなく、ローマの歴代王たちもラレス崇拝していたことが明らかになっています。
古代ギリシャの道路の守り神ヘカテーとの共通性もあるようです。


双子を拾うファウストゥルスとアッカ・ラーレンティア(ピエトロ・ダ・コルトーナ画)



祖父との再会と王位の奪還

ロームルスとレムスが18歳になったある日、アヴェンティーノの丘の羊飼いたちと諍いが起き、弟レムスが拉致されました。
アヴェンティーノの丘は祖父ヌミトルの所有地だったので、アムーリウス王はレムスの処遇をヌミトルに任せたそうです。

ヌミトルはレムスを見て、すぐに自分の孫であることに気付きました。

同じ頃、ロームルスはレムスを奪還しようとしていました。
ファウストゥルスは、ロームルスに「実は、二人はヌミトルの孫である」ことを告げました。

一説によると、ファウストゥルスは、アムーリウスの召使が双子を川に流すのを目撃しており、自分が拾った子供達がヌミトルの孫であることを知っていたそうです。

伝承ですので、話はいくらでもドラマチックに盛れますね。

ロームルスとレムスは祖父ヌミトルと結託し、アムーリウスを倒しました。祖父ヌミトルが王位に返り咲くと、ロームルスとレムスは、自分達が育った土地に新たな都市を作ることを提案し、パラティーノに戻りました。

ローマの七丘

都市ローマの起源となったローマの七丘は、アウェンティヌス(アヴェンティーノ)、カピトリヌス(カンピドリオ)、カエリウス(チェリオ)、エスクイリヌス(エスクイリーノ)、パラティヌス(パラティーノ)、クイリナリス(クイリナーレ)、ウィミナリス(ヴィミナーレ)の7つである。
※カッコ内は現代のイタリア語での表記。

テヴェレ川の北西にあるバチカンの丘 (ラテン語 Collis Vaticanus) は、ローマの最も古代の地域の境界外にあるため、七つの丘には数えられていません。

ヨハネの黙示録では、バビロンの娼婦が座っている「七つの山」はローマの七丘を指しているとも言われています。


神が選んだ土地と12の数

しかし、土地のことで二人の意見が食い違ったため、伝統的な鳥占い (Auspice)で決めようということになりました。
それぞれが自分が良いと思う場所に祭壇を作ることにし、ロームルスはパラティーノの丘に、レムスはアヴェンティーノの丘に祭壇を設けました。

プルタルコスによれば、先にレムスの祭壇の上に6羽の鷲が飛来し、次にロームルスの祭壇の上に12羽の鷲が飛んできたそうです。

鷲は野鳥の中でも最も強力であり、ユピテル(木星)の使いと見做され、「神聖な鳥」とされていました。
ユピテルは、ジュピター(木星)のことで、ゼウスと同一視されています。


ロームルスは、レムスより鷲の数が多かったことを理由に、レムスは自分のほうに先に鷲が飛んできたことを理由に、お互いに譲らなかったため、兄弟の仲は悪くなったと言われています。


6も12も重要な数字なのですよね。
6は、ピタゴラスが名付けた最初の完全数。その約数の和が12。

黄道十二宮や十二星座や十二使徒やオリュンポス十二神などもありますが、木星の公転周期も12年です。
ロームルスの次の王様ヌマ・ポンピリウスは、1年を12か月にした暦を創りました。

それから、ラレス崇拝のアルヴァル同胞団は、アッカ・ラレンティアの12人の息子のうちの一人が死んでしまい、ロームルスがその死んだ息子の代わりとなり、残りの11人の息子たちと設立したのが始まりであるとされています。


ポメリウム(境界線)

その後、ロームルスは、パラティーノの丘に境界線を示すために、鋤を使って溝を掘りました。

境界線のイメージは、城壁や○○の長城のような石を積んだものを連想すると思いますが、ロームレスが造ったのは幅の広い溝でした。
あとで城壁を造るつもりだったかもしれませんが。

まるで、子どもが「ここ、オレの陣地~」と言って、地面に線を引いているのを想像してしまいました。


ロームルスが掘った溝(境界線)は、ポメリウムと呼ばれ、その内側は神域とされました。
ポメリウム(pomerium、pomoerium)は、壁を越えることを意味する ラテン語のポスト モエリウムの短縮形で、「壁の後ろ/壁の向こう」を意味します。



伝承では、ロームルスが掘った溝をレムスが嘲笑し、兄を挑発してポメリウムを飛び越えたために、激怒したロームルスにレムスは殺されたことになっています。

あるいは、二人の支持者たちがロームルスとレムスのどちらが王に相応しいかで諍い、戦闘に巻き込まれたレムスと養父ファウストゥルスが命を落とした説や、ロームルスの家来がレムスを殺害したという説もありますが、どちらにしてもレムスは死んでしまいました。


弟の亡骸を前にしてロームルスは、「この壁を越えんとする全ての者に災いを」と呪いました。

この呪いは、後に様々な制限を作り出しました。
記事が長くなってきたので、詳しくはまた別記事にします。


これによりポメリウムは法的および宗教的な境界線という性質を帯びましたが、ポメリウムの面積自体は小さく、アヴェンティーノの丘は含まれていませんでした。

その後の王たちによりポメリウムは広げられて行き、セルウィウス・トゥッリウス( Servius Tullius)という第6代の王(在位:紀元前578年 - 紀元前535年)が、ローマの境界線として定めたと言われています。

ローマの中心地フォロ・ロマーノは、ポメリウムの中で発展しました。

当時のポメリウムには、まだほとんど壁がなく、位置を示すシバスという石(今で言うマイルストーン)が置かれていました。
ロームルスは連続した溝を作らず、その部分には門を建てたそうです。

城壁がなくても、ポメリウムに入るには必ず門を通過しなければなりませんでした。レムスのように境界線を飛び越えて入って来た者は、死刑になったそうです。ポメリウムを渡ることは、都市の侵略と考えられたのです。



神になったロームルス

伝承によれば、ロームルスは紀元前715年(または紀元前716年)7月7日、突然の激しい嵐と雷の最中に姿を消しました。
しかし実際は暗殺だったとの噂もあります。

ロームルスは、死後、友人のユリウス・プロクルスの前に姿を現し、自分は「(ローマ神話の)クゥイリヌス神になった」と伝えたといわれています。

ユリウス・プロクルスとロームルス


ユリウス・プロクルスによれば、ロームルスは生前よりも大きく輝いた姿で現れ、「自分がこの世を去ったのは、神々の意志だった」と説明し、「自分は、地球上で最も偉大な運命にある都市を建設するために地球にやって来、その仕事が終わったので天に帰った」と言ったそうです。

そして「常にクィリヌスとして見守っている」と言って昇天したとか。

イエス・キリストの昇天に似た話ですが、ほんとうにユリウス・プロクルスが言っていたとすれば、イエスの昇天より750年前の話になります。

そういうわけで、ロームルスが掘った溝・ポメリウムの内側は、ローマ帝国の始まりの場所になり、もっとも神聖な場所とみなされました。

長くなりましたので続きはまた。
最後までお読みくださりありがとうございました。

初期のポメリウム

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