ドイツの始まりとフリッツラーの町
ドイツ連邦共和国ヘッセン州北部にあるフリッツラー (Fritzlar) は、人口約16000人ほどの小さな町ですが、中世の神聖ローマ帝国の起点となった聖堂と皇帝の街と言われています。
フリッツラーは、「平和の街」を意味する Friedeslar に由来するそうです。
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この記事はフリッツラーに関係したある人物について書いていきますが、その前に知っていたつもりでよくは知らないドイツについて紹介します。
備忘録を兼ねていますので、くどいかもしれませんがお許しください。
※ウィキペディアをよく参照しますが、ウィキペディアは書き替えられることが多くて(2021年以前に書かれていたことが消えている気がします)、デタラメが修正されているのならいいんですが、歴史改ざんも密かに行われているかもと不安です。
ドイツはヨーロッパのほぼ中央にあり、北側が北海とバルト海に面しています。首都はベルリン。
第二次世界大戦後、東ドイツと西ドイツの2か国に分断されましたが、1990年に統一されました。
EU最大の工業国で自動車産業に高い技術力を誇り、鉱産資源も豊富なうえ、国土の半分をしめる農地では畜産業も盛んです。
ドイツの国章
1950年に定められた「金地に黒鷲」のドイツの国章は、8世紀半ばのカール大帝(シャルルマーニュ)の頃から用いられた意匠で、13世紀には神聖ローマ帝国皇帝の紋章とされていました。
15世紀半ばに「双頭の鷲」が神聖ローマ帝国の紋章と定められ、その後、オーストリアのハプスブルク家に引き継がれました。
神聖ローマ帝国は、かつて中央ヨーロッパに存在した、ドイツ王たる皇帝によって統轄された諸領域の呼称で、現在のドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部・フランス東部を中心に存在していた多民族国家でした。
9世紀頃に成立し、最初は統一国家でしたが、14世紀頃から解体が始まり、17世紀のヴェストファーレン条約により帝国内の300以上の王国が事実上の独立をし、神聖ローマ帝国は名目だけになりました。(皇帝の座を独占していたハプスブルク家のオーストリア大公国は帝国と看做された)
1806年、ナポレオン・ボナパルトによって神聖ローマ帝国は正式に解体され、帝国の皇位はオーストリア帝国(1804年に成立~1867年まで)に移りました。オーストリア帝国は、別名、ハプスブルク帝国とも呼ばれます。
ヘッセン州
現在のドイツには16の連邦州があり、今回の記事で取り上げるフリッツラーは、ドイツ中央西部のヘッセン州(人口約610万人)の北部にあります。
ヘッセン州の大部分は、中世の初めはフランク王国・東フランク王国の下で、フランケン大公が統治するフランケン地方の一部でした。
中世のフランケン地方は現在よりも広く、現在のバイエルン州、バーデン=ヴュルテンベルク州とヘッセン州、ラインラント=プファルツ州にまたがっていたそうです。
「フランケン大公」は、906年に在地貴族のコンラディン家(コンラート家)のコンラート1世がフランケン地方の一円的支配を実現した際に創始したと言われています。(後述)
コンラディン家は、中世初期のドイツのフランケン地方にいた一族で、「コンラート家」(Haus Konrad)、ドイツ王を務めたことで「コンラディン朝」(コンラート朝)、フランケン朝とも呼ばれます。
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フリッツラーについて
フリッツラー は、ヘッセン州北部のシュヴァルム=エーダー郡に属す小都市で、同郡の経済的中心地です。
肥沃な土地と森に覆われた玄武岩の円錐型の山が特徴で、山頂に城砦や遺跡が数多くあり、町中にも中世の城壁跡や見張りの塔(現存する塔は10基)が残っています。
紀元前1世紀頃には、ゲルマン民族のチャッティ族( ChatthiまたはCatti)が定住していました。
帝政期ローマの歴史家タキトゥスは、
「チャッティ族は、頑健な体躯、引き締まった手足、獰猛な顔つきをしていて、独特の旺盛な勇気が特徴だった。ドイツ人にしては、知性と知恵に富んでいた」と、相変わらずの皮肉交じりの批評をしています。
またチャッティ族は、成人するとすぐに髪と髭を伸ばしたそうで、他のドイツ民族とは違っていたとのことです。
ローマの記録では、チャッティ族の首都はフリッツラーの近隣にあったようで、この一帯はチャッティ族の重要や施設があったと推定されています。
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【余談】
チャッティ族に言及した最後資料は、6世紀の歴史家トゥールのグレゴリウスによるもので、伝えられるところによるとチャッティ族は伝説の「初代フランク王」と関係があったとか。
最初のフランク王は、クローヴィス 1 世ということで一般的に周知されていますが、中世の記録にしか名前が出てこないファラモンドという人物が最初のフランク王だった記録があるそうです。
ファラモンドは、トロイの木馬の子孫マルコメルの息子と言われています。
また、ファラモンドの息子クロディオは、フランク王国のメロヴィング家の始祖メロヴィクス(メロヴェク)の父と言われています。
そして、メロヴィクスの息子とされるキルデリク 1 世は、クローヴィス 1 世の父です。
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8世紀のキリスト教化
フリッツラーの歴史で大きな転換点は、イングランド人の宣教師・聖ボニファティウスによるキリスト教の布教です。
723年、現在はドイツの守護聖人となっているボニファティウスは、ガイスマー村(Geismar)でドナーズ オーク、別名トールズ オークと呼ばれる樫の古木を切り倒しました。
ドナーズオークは、チャッティ族がゲルマン神話の神トール(ドナーとも呼ばれる)に捧げた木で、ゲルマン族にとって最も重要な神木でした。
ボニファティウスは、チャッティ族にキリスト教の神の優越性を示すためにこの古木を切り倒したのです。
ボニファティウスは、「この木が「聖なる」ものであるならば、自分の上に雷を落とせ」とトールに呼びかけたと言います。
古木が切り始めると、突然大風が起こりオークをなぎ倒しました。
トールの雷がボニファティウスに落ちなかったのを見て、人々はキリスト教へと改宗したそうです。
ボニファティウスは、その古木を使ってこの地に、聖ペトロ礼拝堂を建てました。 この礼拝堂がフリッツラー修道院の始まりとなり、現在はフリッツラー司教座聖堂が建っています。
ドナーズオークの伐採は、ゲルマニアのローマ帝国時代の国境の北部および西部におけるキリスト教化の始まりと一般にみなされています。
ボニファティウスの布教活動を支えたのは、フランク王国カロリング朝の宮廷貴族たちでした。
カール大帝(シャルルマーニュ)は、フリッツラーに最初の皇帝宮殿(現存していない)を建設したと言われています。
また修道院に王室の保護を与え、多くの土地を与えました。それにより、周りの町も急速に発展しました。
ザクセン族の改宗
フリッツラーは、フランク族とザクセン(サクソン)族との定住地の境界地域に位置し、中世初期の重要な街道が交差する地点に面していました。
特に10世紀から11世紀は、ローマ王やローマ皇帝の特権的な滞在地でした。
フランク人は、3世紀半ばまでにライン川右岸に居住していた複数の部族の総称です。一般的にサリー族とリプアリー族に大別されます。前者はフランク王国を建国しました。
フランク人の王族は長髪を切らずにたなびかせ王権の象徴とした一方、一般戦士の男性は青年期に達した時、「最初の断髪」によって後頭部を剃りあげたそうです。
5世紀末、サリー族のクローヴィス1世がフランク王国を建設し、キリスト教に改宗しました。以降、フランク王国は西ヨーロッパ全域を支配します。
ザクセン(サクソン)人は、もともとは北ドイツのホルシュタイン地方南西部一帯に居住していたとみられています。
2世紀から4世紀に徐々に居住地を拡大していき、4世紀後半から5世紀にかけての民族移動で、アングル人やジュート人とともにブリテン島に上陸し、今日のイギリス人(アングロ・サクソン人)のもととなりました。
6世紀にはライン川一帯まで勢力を広げ、7世紀末には多数の部族を吸収して、エルベ川からエムス川にかけての広汎な地域に居住域を拡大しました。
カール大帝(シャルルマーニュ)によるザクセン人征服戦争以前は、キリスト教を受容せず、伝統的な神々への信仰を守っていました。
フェルデンの大虐殺とヴィドゥキントの改宗
フランク王国がザクセン人征服戦争を開始したのは、領土拡張とキリスト教(アタナシオス派)の布教のためでした。
フェルデンの大虐殺(782年10月)は、ザクセン戦争中の出来事で4,500人のサクソン人が殺害されたそうです。
ザクセンのリーダー、ヴィドゥキントは逃亡してその中に含まれていませんでした。
785年、ゲリラ的抵抗を続けていたヴィドゥキントは降伏してキリスト教に改宗し、カール大帝(シャルルマーニュ)はヴィドゥキントをザクセン公としました。
ヴィドゥキントの改宗は、キリスト教の勝利を象徴するものとされ、教会の絵画や彫刻などに彼の姿が盛んに描かれたそうです。
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聖樹伝説
772年に、カール大帝(シャルルマーニュ)によってザクセンの聖樹イルミンスルが破壊された記録があります。
聖樹イルミンスルもトール神に捧げられた大樹でした。トールはギリシャ神話のゼウス、ローマ神話のユピテルと同一視されます。
聖なる森や聖なる木は、ゲルマン民族の歴史を通じて崇拝(ユグドラシル=宇宙樹)されていたので、ゲルマン民族のキリスト教化の際には、それらは漏れなく破壊の対象とされたのです。
イルミンスルがあった場所は、フリッツラーからそう遠くなくい、ノルトライン ヴェストファーレン州の現在はオーバーマルスベルクという名前の町だと見られています。
フリッツラー周辺の地域は、6世紀以降の重要な異教の信仰の証拠があるそうです。
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マインツの車輪
ヴィドゥキントが改宗した翌年786年、フリッツラーではマインツ大司教を選出する評議会が開かれました。
マインツ大司教は、ドイツにおけるカトリックの最高位です。
その年から1051年まで、フリッツラーの修道院長がマインツ司教の座に着きました。
ルッルスの主な功績は、フランク王国カロリング帝国における聖ボニファティウスの教会改革の完了と、ヘッセン・テューリンゲンにおけるドイツ人のキリスト教化の成功でした。
ボニファティウスがローマとの密接な関係を模索していたのに対し、ルッルスはフランク王とのより良い理解を求めたそうです。
フリッツラーの紋章がちょっと変わっているなぁと思っていましたが、マインツ市の紋章によく似ています。(色が反転)
「マインツの二重の車輪」は、マインツ大司教の紋章に由来しているそうですが、ホイールの起源は不明です。
紋章は12世紀になってから登場したそうです。
こちらで色々な「マインツの車輪」の紋章を見ることができます。
フリッツラーの決闘
9世紀後半、コンラート家の大コンラートと、フランケン地方を支配していたバーベンベルク家の東フランケン公ハインリヒとその息子アダルベルトの間で抗争が起きました。
バーベンベルク家は、フランス王室カペー家の祖でもあるロベール家を遠祖としています。
バーベンベルク家で最も古く歴史に残っている人物は、9世紀初めに現在のヘッセン州とテューリンゲン州の間の地域を支配していたグラープフェルト伯のポッポ(Poppo I、在位819年 - 839年)と言われています。
838年から839年、カロリング朝初代東フランク王ルートヴィヒ2世(在位843年 - 876年)が、父である神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ1世(在位813年 - 840年)に対し反乱を起こしました。
その争いの際に、ポッポは皇帝側で戦いました。
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神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ1世は、カール大帝(シャルルマーニュ)の三男で、フランス国王ルイ1世と見なされています。
ルートヴィヒ2世が父の皇帝に反旗を翻したわけは(長いので割愛すると)、819年に皇帝はヴェルフ家のユーディトと再婚し、四男シャルルが誕生したことで、シャルルにも王国を分け与えようとしたことから始まった、兄弟4人の相続争いです。
皇帝ルートヴィヒ1世の2番目の妃ユーディトの父は、古ヴェルフ家の始祖であるシュッセンガウ伯ヴェルフ1世、母はザクセン人貴族出身のハイルヴィヒ(Heilwig)。ユーディトは非常に美しかったそうです。
ヴェルフといえば、13世紀には「ヴェルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)」の争いの元になる家系ですが、9世紀頃はまだ皇帝と縁が深かったのですね。
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大コンラートが争ったバーベンベルク家のハインリヒは、そのポッポの子または孫と考えられています。
ハインリヒは、886年にバイキングがパリに侵攻した(パリ包囲戦)際に、命を落としています。
カール3世は、上述の皇帝の父に反対したルートヴィヒ2世の息子のひとりです。母は、ヴェルフ家のヘンマで上述の皇后ユーディトの妹です。
似たような名前が多いので相関図を作ってみました。
パリ伯ウード(Eudes、852年以降 - 898年)の父は、ネウストリア侯ロベール・ル・フォール(ロベール豪胆公)、母はトゥール伯ユーグの娘アデライード。
ロベール豪胆公(830年頃 - 866年7月2日)は、ヴォルムスガウ伯ロベール4世ともいわれます。
ロベールの一族はその名を取ってロベール家と呼ばれます。
ロベール豪胆公はフランス王ユーグ・カペーの曽祖父にあたり、カペー朝(ヴァロワ・ブルボンをも含む)の祖にあたります。
アデライードは2回の結婚により、ヴェルフ家、およびロベール家(のちカペー家)をつなぐ重要な役割を果たしました。
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コンラディン家とフランケン公
906年にコンラディン家の大コンラートとその子コンラート1世は、バーベンベルク家の居城があったフリッツラーを急襲し、バーベンベルク家は息子たちが戦死するなどで決定的な敗北を喫しました。
この戦いで大コンラートは亡くなりましたが、コンラート1世はフランケン公の地位を確保しました。
コンラディン家は東フランク王家と縁が深く、大コンラートと呼ばれたコンラートは、第3代東フランク王アルヌルフの庶子(あるいは親族の娘)グリスムートと結婚し、コンラート1世を産みました。
また大コンラートの従妹オーダ(ウータ)は、アルヌルフの妃となりは、第4代東フランク王ルートヴィヒ4世を産んでいます。
アルヌルフ王が婿の大コンラートを支持したため、バーベンベルク家は衰退しました。
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カロリング朝の断絶とフランケン朝の成立
コンラート1世(コンラディン家)
911年、ルートヴィヒ4世(在位899年 - 911年)が嗣子なく夭逝したため、東フランクのカロリング朝が断絶しました。
外甥にあたるコンラート1世はザクセン公オットー1世およびマインツ大司教の推挙により、貴族による選挙で国王に選ばれました。
王を選挙で決めるのはゲルマンの風習(“選挙王制=貴族、有力者の合意による”の原型)で、コンラート1世は即位後よりザクセン公をはじめとする部族大公と対立することになります。
コンラート1世は、913年にバイエルン公アルヌルフ(悪公)の母クニンデ・フォン・シュヴァーベン( 878年頃- 918年以降2月7日)と結婚。
クニンデはコンラートより3歳ぐらい年上と見られます。
クニンデの母は、東フランク初代国王ルードリッヒ2世の娘ギセラで、クニンデは最初の結婚(バイエルン辺境伯ルイトポルト)で、バイエルン公アルヌルフ(悪公)とその弟ベルトルトを産みました。
コンラート1世は、アルヌルフ(悪公)とクニンデの兄シュヴァーベン宮中伯エルハンガーの両者と同盟を結びましたが、エルハンガーと弟ベルヒトルトとは後に対立し、コンラート1世は917年1月に二人を処刑しました。
ハンガリーに亡命していたアルヌルフ(悪公)が帰国したときには、コンラート1世は軍を率いて討伐に向かいましたが、コンラート1世は負傷し、その傷がもとで翌918年に亡くなりました。
臨終の床で、コンラート1世は弟エバーハルトを説得し、王国の分裂を防ぐために宿敵のザクセン公ハインリヒ1世(リウドルフィング家)を後継者に推挙しました。
各部族大公の対立や継続的なマジャール人の襲撃に直面して、王国をまとめることができる唯一の公爵はハインリヒ1世であると遺言したのでした。
コンラート1世とハインリヒ1世の確執は、コンラート1世が新王として選出された時に遡ります。
父のオットーとハインリヒ1世は、コンラート1世の即位自体には賛成しましたが、彼に服従することは拒否し、テューリンゲンにおける領有権をめぐって武力衝突が続いていました。
912年、父オットーが死去し、ハインリヒは公位を継承しましたが、コンラート1世はこれを承認せず、両者の間での紛争は続き、ハインリヒは東フランク王国からのザクセン独立の動きも見せていました。
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コンラート1世には男子の跡継ぎがいなかったため、コンラディン家は弟のエーバーハルト3世が相続したが、エーバーハルト3世自身も939年にて戦死し、コンラディン家はフランケン公の地位を失いました。
しかし、コンラート1世の娘ヒキナ(ヒッカ)の夫が、ザーリアー家のヴォルムスガウ伯ヴェルナー5世と結婚し、その子孫がザーリアー朝として後に国王および神聖ローマ皇帝を世襲することになります。
ザーリア朝・・・皆さん、覚えておられるかしら?
『カノッサの屈辱』のハインリヒ4世は、コンラート1世の子孫でもあるのです。詳しくはまた記事にします。
フランケン朝からザクセン朝へ
ザクセン人の誇りハインリヒ1世
919年5月、フリッツラーで行われた帝国議会で、ハインリヒ1世は国王に選出されました。
この出来事は、フランク族とザクセン族というドイツの2大部族間の激しい対立に終止符を打つ意味がありました。
カール大帝(シャルルマーニュ)の征服にひどく苦しんだサクソン族に、初めて王権が移ったのです。
そして、これは「ドイツ帝国」の幕開けでした。
911年にコンラート1世が即位してフランケン朝が成立した際に、「東フランク王国」から「ドイツ王国」になってはいましたが、フランク人ではないハインリヒ1世の即位によって、実質的にドイツ王国となったと言えます。
以降、リウドルフィング家がザクセン朝として王位を世襲、ハインリヒ1世の子オットー1世からはイタリア王と皇帝を兼ね、1024年にハインリヒ2世が没するまで続きました。
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ハインリヒ1世の父は、リウドルフィング家のオットー1世(836年頃 - 912年)、母はバーベンベルク家のオストマルク東方辺境伯ハインリヒの娘ハトヴィヒ。
ハトヴィヒの父オストマルク東方辺境伯ハインリヒとは、大コンラートと争ったバーベンベルク家のハインリヒのことです。ハトヴィヒの男兄弟は全員、コンラディン家との抗争で死亡しました。
ハトヴィヒは、母方から皇帝ルートヴィヒ1世の曾孫にあたります。
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ハインリヒ1世在位(919~936年)は、「ファウラー」(捕鳥王)というあだ名がありました。王になることを知らせるために使者が到着したとき、鳥よけの網を修理していたと言われています。(ヘンリー・ザ・ファウラー)
マインツ大司教は、通常の儀式に従ってハインリヒ1世に油を注ぐこと(「塗油」の儀式)を申し出ましたが、彼は塗油を受けなかったとか。
即位式における塗油は、カロリング朝のピピン3世(小ピピン)の即位式以来の伝統に行われ、地上における統治権を神から授かることの象徴的行為とみなされていました。
2023年4月に行われたイギリスのチャールズ3世の戴冠式では、塗油の儀式が行われました。
wikiによれば、ハインリヒ1世の次以降の王は塗油を行ったそうです。
ハインリヒ1世だけ行わなかった理由は、彼はザクセン族の伝統を守ろうとしたのかなと思いました。彼の最愛の妻は、カール大帝に反抗したヴィドゥキントの後裔とされるマティルデ(聖マティルデ)でしたし。
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ハインリヒ1世は、彼の王位を認めなかった他諸侯に対しては各地方における大公の教会支配権その他の自治権を与えて大公領としました。
またマクデブルクなどの城塞都市を建設して防衛を強化し、マジャール人の侵入を撃退し、ノルマン人の侵入にも備えたそうです。
西フランク王シャルル3世は、ハインリヒ1世を「東フランク人の王」として公式に承認し、またハインリヒ1世はカロリング朝が断絶した時点で西フランク王国に帰属が変更されていたロートリンゲン公領(現在はフランスのロレーヌ地方)を取り戻すことが出来ました。
こうして、東フランク王国(ドイツ王国)は、フランケン、ザクセン、シュヴァーベン、バイエルン、ロートリンゲンの5つの公領で構成されることになりました。
またハインリヒ1世は、王位継承に関する王令を発布。
フランク王国では複数の子がある場合は分割相続を原則(王国分割令)としていましたが、ハインリヒ1世は単独相続にあらため、分割による王権の弱体化を防ごうとしました。
ハインリヒ1世の子オットー1世は、マジャール人を最終的に撃退し、962年にローマ教皇よりローマ皇帝の戴冠をしました。
このオットーの戴冠が、神聖ローマ帝国の起源とされています。
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またまた大変長い記事になってしまいました(苦笑)
歴史の授業では、ほとんど(まったく?)登場しない東フランク王ハインリヒ1世ですが、なかなかの名王だったんじゃないかと思いました。
フリッツラーは、ザーリア朝(「カノッサの屈辱」のハイリンヒ4世が代表する)でも重要な役目をしました。
また別の機会に続きを書きたいと思います。
今日はこのへんで。また近いうちに。
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