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「地の時代」のポーランド王国

ウィキに「大洪水時代」というページがあったので、気になってみてみたら、ポーランドの歴史において17世紀中盤のスウェーデン軍の侵入に始まる北方戦争の被害(1655年 - 1660年)のことでした。
ポーランド語でPotop(ポトプ)、またはスウェーデン大洪水(Potop szwedzki〈ポートプ・シュフェツキ〉と呼ぶそうです。

1650年代は、西洋占星術では「水の時代」の終わりになります。
水の時代は、1425年に蠍座で木星と土星が会合して始まり、1663年12月に次の「火の時代」が正式に始まるまでの約200年間を言います。

エレメントのサイクル(200年)は、火→地(土)→風→水の順。
歳差運動による「〇〇時代(2160年)」は、水→風→地(土)→火の順。

水の時代の特徴として、「宗教改革」や「大航海時代」が挙げられますが、「覇権争い」や「領土拡張」が根本にあります。

「大洪水」の前のポーランド・リトアニア共和国は、東欧地域に領土を拡大し、人口も増加していました。
また地政学的にクリミア・ハン国(1441年~1783年、クリミア半島を中心に存在した国家)およびオスマン帝国と、覇権を巡り300年間争っていました。1558年からのスウェーデンとポーランド間の戦争も、300年間に及んでいたそうです。これらの戦争は、18世紀のポーランド分割まで続きました。

ポーランド・リトアニア共和国の国章

ポーランド公国の始まり

ポーランドの始まりは、960年頃から1370年まで続いたピャスト朝(Dynastia Piastów)と言われています。
西暦1000年に、ボレスワフ1世がローマ皇帝オットー3世から戴冠および大司教座設置を許可され、その後1025年にローマ教皇ヨハネス19世の許可が下ったことをもってポーランド公国の始まりと見なされました。

ピャスト朝は、地の時代でした。「中世の温暖期」(950年頃 – 1250年頃)にも重なっています。(日本は主に平安時代でした)

ボレスワフ1世

ボレスワフ1世の肖像画も、いかにも地の時代の王様の風格です。
マルセイユ版タロットの4番「皇帝」に似ています。

武勇に優れていたことから、『勇敢王』(Bolesław Chrobry ボレースワフ・フローブルィ:「勇敢なボレスワフ」)と称されたそうです。

中世の温暖期は、人間の活動も活発になり、農業が栄え、人口増加にもつながりました。火山活動も穏やかだったようです。
また海が凍らなかったためにバイキング(北方系ゲルマン人)が、北欧域外への侵略を拡大したり、中央ヨーロッパでも冬期の進軍が出来たため、諸国の王たちは領土拡大のために隣国を侵略しました。

ナポレオンがロシア遠征(1812年)に失敗した原因は、寒さだったと言われていますね。当時は、ダルトン極小期(1790年~1830年)の最中でした。

ダルトン極小期は、1790年から1830年まで続いた、太陽活動が低かった期間である。ダルトン極小期は、地球の気温が平均より低かった時期と一致している。

ボレスワフ1世は、軍隊を強化し、1003年から1004年にかけてチェコを征服、またポーランド東南部にも勢力を拡大。
1018年、キエフ公国東ローマ帝国が対立すると、ボレスワフ1世は、東ローマ皇帝バシレイオス2世と同盟を結んで、キエフ公国を撃退し一部を征服しました。また神聖ローマ帝国領のマイセンにも侵略しています。

征服に抵抗する住民をことごとく捕え、奴隷としてイスラム世界などに売り飛ばしたそうで、非常に恐れられた王様でもあったようです。
一方で、イタリアや東ローマ帝国から進んだ文化を次々と取り入れ、イベリア半島の後ウマイヤ朝からイスラム文化を取り入れ、ポーランドを大いに発展させました。

ボレスワフ1世は1025年に亡くなり、2男のミェシュコ2世ランベルトが王位を継ぎましたが、相続争いや内紛が頻発するようになっていき、1370年にピャスト朝は途絶えました。

1226年に地の時代から風の時代に変わると、ヨーロッパ各国に騎士団が生まれ遠征が盛んになったり、モンゴルが東ヨーロッパに侵攻したり。
風の時代は日本も戦国時代でした。

今日はこのへんで。

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