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ルイ16世最期の日までの備忘録②

アンリ4世による「ナントの勅令」(1598年4月13日)は、ユグノーなどのプロテスタント信徒に対してカトリック信徒とほぼ同じ権利を与え、近世のヨーロッパでは初めて個人の信仰の自由を認めた。


ユグノー(フランス語: Huguenot)は、フランスにおける改革派教会(カルヴァン主義)またはカルヴァン派。

1518年-1519年にマルティン・ルターの書物によって宗教改革がフランスに伝えられ、当初はソルボンヌの学者たちもルターに共感していたが、ローマの教会がルターを非難したため、1521年以降は、プロテスタント信仰を持つ者は、火あぶりか亡命の他に選ぶ道が無くなった。

1520年代から1540年代のフランス宗教改革はルターの影響を受けていたが、次第にジャン・カルヴァンの影響が強くなる。


ルイ16世の先祖ブルボン家は1550年代ごろに、カルヴァン派に改宗しているが、それは政敵であるカトリックの大貴族ギーズ家への対抗という政治的意図があったと考えられている。

1562年、フランスのカトリックとプロテスタントの間でユグノー戦争(Guerres de religion, 1562年 - 1598年)が起き、休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った内戦となる。
契機は、1562年にカトリックの中心人物ギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)による。
妥協的な和平を挟んだ数次の戦争の後の1572年8月24日には、カトリックがユグノー数千人を虐殺するサン・バルテルミの虐殺が起こっている。

また、これは宗教上の対立であるとともに、ブルボン家(プロテスタント)やギーズ家(カトリック)などフランス貴族間の党派争いでもあった。

1589年にギーズ公アンリ、次いで国王アンリ3世が暗殺されてヴァロワ朝が断絶し、アンリ4世が即位してブルボン朝が興った。
パリではカトリックの勢力が強く、プロテスタントの王を認めなかったため、アンリ4世はカトリックに改宗している。
一方でナントの勅令(1598年)を発して、プロテスタントに一定の制限の下ではあるが信仰の自由を認め、戦争は終結した。

ナントの勅令は、フランスの国家統一の出発になった。
戦費の縮小や商工業におけるユグノーの活躍もあって政治情勢のみならず国家財政も安定し、17世紀のフランスの大国時代を作り上げた。

しかしプロテスタントは、自分たちの教会を持つことは許されたが、それとは別にカトリック教会にも十分の一税を納めなければならなかった。

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             アンリ4世の肖像

ナント勅令によって戦争は終結したものの、ユグノーに与えられた政治的自由は、17世紀を通じて次第に騒動の元となる。

1661年、ユグノーを敵視するルイ14世がフランス政府の実権を握ると、勅令の条文の幾つかを無視し始める。
1681年、竜騎兵の迫害(dragonnades)政策を始め、ユグノーの家族にカトリックに再改宗するか他国へ移住するかを迫った。
最後にはルイ14世はフォンテーヌブロー勅令(1685年)を発し、過去の勅令を正式に取り消し、フランスにおけるプロテスタントを非合法化した。

ルイ14世は、ルイ16世の曽祖父にあたる。

ルイ14世自身はあまり信仰心がなかったが、ハプスブルク家との戦争を繰り返すうちにこれまでのガリカニスム(フランス教会自立主義)擁護から「カトリック教会の守護者」へとスタンスを移し、ローマ教皇との結びつきを強めるようになった。
王は国内のカトリック信仰の強化を目指し、ユグノー(フランス・プロテスタント)の弾圧に着手する。
ルイ14世は官職からユグノーを締め出し、職業を制限し、亡命まで禁じる勅令を次々と出した。兵士をユグノーの家々に送り込んで改宗を強要することまでした(竜騎兵の迫害)。

ユグノーはとくに集中マニュファクチュアの担い手として重要であり、金融・商業においても支配的であったが、フォンテーヌブローの勅令により、改革派牧師の追放、改革派教会堂の破壊が命じられ、ユグノーの多くはドイツをはじめとする国外に移住した。
時計職人にもユグノーが多く、フォンテーヌブローの勅令後には改宗を拒否する職人達がスイスのジュネーブに移住したことで、スイスでは機械式時計が地場産業となった。

フランス革命後には多くのユグノー銀行家がフランス金融界で活躍し、現在でもユダヤ系以外はプロテスタント系によってフランス銀行業は担われている。


ルイ14世が即位した当時のフランスは、先王ルイ13世と宰相リシュリュー枢機卿によって大貴族とユグノー勢力を抑制して国王集権化が進められており、また対外的には三十年戦争(1618年から1648年)に介入してハプスブルク家の神聖ローマ皇帝及びスペインと戦っていた。

この戦争はブルボン家およびネーデルラント連邦共和国と、スペイン・オーストリア両ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いであった。
戦争の結果、オランダとスイスが独立し、ドイツ諸侯も独立性も強化され、神聖ローマ皇帝は名目的存在となり、ハプスブルク家は大打撃を受けた。
アルザス地方を獲得したフランスは大陸最強国となり、北ドイツの諸要地を獲得したスウェーデンも強国となった。

「最後で最大の宗教戦争」ともいわれ、ドイツの人口の20%を含む800万人以上の死者を出し、人類史上最も破壊的な紛争の一つとなったと言われている。

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              ルイ14世の肖像

三十年戦争は終わったが、フランスはスペインとの戦争を継続しており、テュレンヌがフランス軍司令官としてスペイン軍に属したコンデ公とネーデルラントで戦った(フランス・スペイン戦争)。
フランスはイングランドから軍事支援を受け、1658年のダンケルク近郊の砂丘の戦いで英仏同盟は勝利した。
翌1659年に結ばれたピレネー条約によってピレネー山脈を境界とするフランスとスペインの国境を確定、ルイ14世はスペイン王フェリペ4世の王女マリア・テレサ(マリー・テレーズ)と婚約した。


1680年代始めにルイ14世の影響力は大いに高まった。この時期がルイ14世の絶頂期とされる。
1681年に始まったヴェルサイユ宮殿は、1624年 ルイ13世の狩猟の館があった場所に建設された。
宮殿内には地方の有力貴族の居住空間も用意され、権力の一極集中を実現していたが、それは貴族たちを長期間国王の監視の下に置くことになり、かれらを統制するためであったと言われている。

ルイ14世は民衆の誰もがヴェルサイユに入るのを許し、民衆に庭園の見方を教える「王の庭園鑑賞法」というガイドブックを発行した。
それには「ラトナの噴水の手前で一休みして、ラトナ、周りにある彫刻をみよ。王の散歩道、アポロンの噴水、その向こうの運河を見渡そう」と書かれている。民衆は、ガイドブックに従って庭園を鑑賞することで、貴族と自然を圧倒した王の偉大さを刷り込まれていった。

ルイ14世の晩年には多年の戦争による莫大な戦費のためにフランスの財政は破綻しかかっており、重税のためにフランスの民衆は困窮しきっていた。
1709年にはかつて革命を起こして王政を打倒したことのある「イギリス人を見習え」と謡う小唄が流行したほどだった。

1715年9月1日、77歳の誕生日の数日前にルイ14世は壊疽の悪化により崩御した。民衆は老王の崩御を歓喜し、葬列に罵声を浴びせたという。

王権は、当時5歳の王太子、ルイ15世に移された。

※ルイ15世は、ルイ16世の祖父に当たる。

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