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陰陽師・安倍晴明が見たもの

約十年以上ぶりにNHK大河(「光る君へ」)を観ているんですが、以前に安倍晴明について少し調べたことがあったので書いてみます。

安倍 晴明(あべの はるあきら)は、平安時代の陰陽師。
「晴明」を「せいめい」と読むことが多いが、これは音読みであり、諱本来の読み方は確定していない。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏流土御門家の祖。官位は従四位下。

平安時代は794年~ 12世紀末までの約400年続いたので、安倍晴明が活躍したのは10世紀、平安中期になります。
中期は901年頃~1068年頃、藤原氏が頭角を現し、990年頃には藤原兼家、道隆、道長親子が権力を握った時代です。

ヨーロッパは、中世の温暖期でした。ちょうどドイツ帝国が始まった頃です。



NHK大河では、ユースケ・サンタマリアさんが晴明を演じておられます。
なかなかの怪演で「晴明はこうでなくっちゃね」という感じです。

陰陽師の始まり

陰陽師は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指す。
中・近世においては民間で私的祈祷や占術を行う者を称し、中には神職の一種のように見られる者も存在する。

Wikipediaより

陰陽師というと呪術師のイメージが強いと思いますが、「国家資格」が認められた技術的(ロジック重視)な占い師でした。
国家公務員で、むしろ身分は低かったそうです。

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余談ですが、東洋系の占いは、ロジック重視です。
現代の占い師の一般的なイメージでも、全占い師に霊能力があると勘違いされていますが、占い師全員が霊能力があるわけではありません。
人は誰でも霊感がありますが、占い師は職業病的に一般の方よりも霊感が強くなっていくのです。
人の頭を触る仕事の美容師さんにも霊感が強い人が多いですね。

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陰陽師の最初は、日本書紀によれば675年頃に「陰陽寮」と呼ばれる天体観測所が出てきます。もっぱら天文観測や暦時の管理、地相を占う仕事をしていました。

奈良時代の養老律令(757年頃)には陰陽寮の官制が書かれており、当時の陰陽寮は定員88人で、ここでは割愛しますが内訳も詳しく書かれていたそうです。

天文観測は天文生(天文官)によって昼夜交替で行われ、異変があれば上司に報告し、それを陰陽師のグループが占書をもとに占い、占文(解説)を添えて中務省(なかつかさしょう)を通じて内裏へ密奏するシステムでした。


天文官は見たことを他言してはならず、観測器具、天文図書、占書の持ち出し、筆写も禁じられていました。
天に現れた異変は、為政者の失政を警告する啓示として見られていたので、天変を他言することは為政者の失敗を暴露することと同等になり、現政府の転覆に繋がったからです。

陰陽寮から内奏された占文の内容は極秘事項だったので、のちに国史を編纂するにあたっては、占文は当然削除され、天変地異の事象のみが記入されたそうです。
(参考図書「星の古記録」斉藤国治著)

640年に陰陽師が観測した星食について書いた、短い記事がありますので、よかったらご覧ください。

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ヤミ陰陽師の出現

飛鳥時代から始まった陰陽師の仕事(天体観測・暦作り・吉凶判断が主な役目)が、平安時代になると変化します。

平安時代中期以降、陰陽寮所属ではない「ヤミ陰陽師」が出現しました。
ヤミ陰陽師が私的に貴族と契約し吉凶を占ったり、災害を祓うための祭祓を密かに執り行い、場合によっては敵対者の呪殺まで請け負うような風習が横行するようになったそうです。

正式な陰陽師」たちにもこの風潮に流される者が続出し、貴族のリクエストに応えて呪詛返しや呪術的な防御も担当するようになりました。
そうして正式な陰陽師までもが、政権の闇で暗躍するようになっていったのです。


「光る君へ」の2月18日の放送では、晴明の呪詛のせいで花山天皇の女御・藤原忯子様がお腹の子とともに亡くなってしまいました。(後述)
呪詛は右大臣・藤原兼家からの依頼で「帝の血を引く子」だけを死なせるはずでした。

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安倍晴明を見出した賀茂忠行

晴明の師は、賀茂忠行という人物でした。
今昔物語集』では、忠行は覆物の中身を当てる「射覆」が得意で、醍醐天皇の前で箱の中身を見事に言い当てたため、「天下に並ぶもの無し」と賞賛されています。
今で言う透視能力があったのかもしれませんね。

賀茂忠行は、陰陽の術に優れ、時の帝から絶対的な信頼を得た。
それまで陰陽寮(陰陽道)の天文道・暦道・陰陽道の三部門はそれぞれ専門家による分業であったが、賀茂忠行は三つすべてを掌握し、陰陽家・賀茂氏を確立した。
安倍晴明を見出し、彼に「まるで瓶の水を移すかのように」陰陽道の真髄を教えたという。

賀茂忠行が陰陽道の三部門すべてを統括するに至った背景には、菅原道真による遣唐使の廃止(894年)によって陰陽五行説に関わる諸説・諸思想の最新の情報が日本に伝播されなくなったことが影響しているそうです。

最新の情報が入らなくなったため人材を育成することが困難になり、賀茂忠行が活躍した時代には陰陽寮は人員が少なくなってしまいました。

陰陽寮内では本来は禁じられていたはずの複数部門の兼務や、本来は補助職・名誉職的要素の強い「権(権天文博士・権暦博士など)」職で対応するという状態になっていたのです。

賀茂忠行は陰陽道の根幹である道教の呪術に加えて、密教の呪術などを多様に取り入れ、陰陽道を「宗教・呪術」中心に機能転換していったそうです。

佐々木蔵之介さん(右)が演じた安倍晴明

その後、賀茂・安倍両家からのみ陰陽師が輩出されることとなります。
賀茂家は暦博士、安倍家は天文博士を常時任命し、陰陽寮の各職位をほぼ独占しました。

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安倍晴明は霊能力者だった?

安倍晴明にスポットライトが当たるようになったのは、陰陽師ブームが起きた1990年代からだったと思います。

1990年代といえば、テレビで霊能力者・冝保愛子さんが取り上げられるようになり、オカルトブームが起きました。
ところがオウム真理教による地下鉄サリン事件(1995年)が起きたため、一気にオカルトブームは縮小していったんですが。

そんなオカルトブーム最盛期に、安倍晴明が神格化されたと思います。

夢枕獏の小説『陰陽師』(1993年)の初出は『オール讀物』1986年9月号に掲載された短編小説「陰陽師」(単行本収録時に「玄象といふ琵琶鬼のために盗らるること」に改題)。
単行本は1988年に第1作『陰陽師』が刊行されて以降シリーズ作品となっている。
1993年に岡野玲子により漫画化された。テレビドラマ化や映画化、舞台化も何度かされている。

ネットで安倍晴明について書かれた評判は、母親が狐だった(葛の葉伝説)とか、晴明が幼少の頃、夜道で百鬼夜行(鬼や妖怪の群れ)を目にしたとかが多く見受けられました。

再び『今昔物語集』によれば、賀茂忠行が内裏より自邸に帰宅途中、牛車の外にいた幼少の安倍晴明に呼び起こされて外を見ると、百鬼夜行の一団と遭遇しました。
忠行はすぐに祓いを行い難を逃れることができたため、それ以降、晴明を可愛がったということでした。

野村萬斎さんが演じた安倍晴明

安倍晴明のホロスコープ

安倍晴明が生まれたのは、921年2月21日(延喜21年1月11日)。
誕生日を聞いて魚座生まれだとわかりましたが、ホロスコープを作ってみました。

太陽は魚座7度。生まれ時間がわからないですが、月は蟹座で、エレメントは水が多いです。

太陽と水星が魚座でコンジャンクション。まじめかどうかは別として、まめな性格です。

太陽と牡牛座木星がセキスタイルですので、他者から信用をされ財産も増やしていきます。

太陽は蟹座火星とトライン。
意志が強く、よく働く人です。働き過ぎる傾向もあるようですね。

蟹座と火星は相性が良くないと言われます。
サイン的にスクエアですし、水星座の領土に火星座の支配者が入ってきたら、お互いにやりにくいですよね。

蟹座火星の男性は子だくさんになりやすい(あるいは愛人が多い)んですが、晴明はどうだったかわかりません。

安倍晴明には二人の子供がおり、長男が安倍吉平(あべのよしひら)、次男が安倍吉昌(あべのよしまさ)。
二人の息子は父と同様に陰陽道を学び、陰陽寮に属し重要な役割を果たしていたそうです。
明治維新後、陰陽師という役職は迷信と決定付けられ廃止されてしまうのですが、安倍晴明の血を引く子孫は今なお現代日本に残り続けています。

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晴明が子どもの頃から霊能力があったかを検証するのは、魚座生まれというだけでは難しいですが(魚座生まれがみな霊能力者になるわけではないですものね)、魚座は境界線を持たない星座なので、晴明のように霊界が見える人がいてもおかしくはないです。


乙女座の後ろのほうにいる土星が、水瓶座金星と牡牛座木星とでゴールデンヨドを形成しています。
ヒトラーはゴールデンヨドを複数持っていました。
ゴールデンヨドがある人は、特別な使命があると思います。

ゴールデンヨドの形

晴明が後世にまで名を残したのは、ゴールデンヨドがあったからでしょう。


そして、射手座22度にカイロンがありますが、この場所には球状星団Facies(フェイシーズ)があります。
フェイシーズは一般的には不幸な影響力を持つと考えられています。星団は冥王星の性質も表しており、人生の暗い側面と何らかの関連性を伴う、心理的、探求的、強烈で深遠な性質を与えます。


しかし、射手座に属するため木星の性質を持っており、宗教、政治、哲学、旅行に興味を持ち、文学や映画など何かの出版や制作を通じて自己表現をします。

このカイロンは、乙女座土星、魚座天王星とTスクエアを形成します。
蟹座1度の海王星まで含めるとグランドクロスになります。

ネイタル海王星(蟹座1度)のサビアンシンボルは「魔法の絨毯に乗った男が、大地の巨大な区域を飛び回る」

魔法の絨毯に乗った男というだけで晴明にぴったりな感じです。
この度数を持つ人は、未来予測に関する確かな能力があると言われます。伝統的で普遍的なものの見方を通じて、ものごとの全体を眺望できる能力があるそうです。


晴明が、呪詛や祈祷などで能力を発揮し、カリスマ陰陽師になっていったのは、フェイシーズの影響を受けているカイロンがあったからのように思います。

実は私も射手座22度に土星があるんですが、凡人です(苦笑)残念!!

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遅咲き人生

安倍晴明が活躍したのは、40歳を過ぎてからです。
天徳4年(960年)に39歳で陰陽寮に入り、天文得業生(陰陽寮に所属し天文博士から天文道を学ぶ学生の職)になりました。

太陽と冥王星がスクエアなので、社会的な後ろ盾(後援者)がなかなか得られなかったのでしょう。挫折することも多かったかもしれません。
国家機密を扱う陰陽師の仕事は適職だったと思います。


960年は村上天皇の時代。
村上天皇は晴明に占いを命じていたそうなので、すでに晴明の占いの評判が良かったのでしょう。
同年に内裏で火災が起き、焼損した霊剣鋳造の功労によって、翌年(961年)には陰陽師に任じられたそうです。

その頃、空の天王星が乙女座23度付近にあり、ちょうど晴明の天王星とオポジション。射手座22度カイロンとTスクエアになっていました。
占星術とも関りがある天王星の刺激で、陰陽師になったのは面白いです。


しかし、40歳過ぎはミドルエイジクライシス(中年の危機)の時なんです。
体力はあっても、精神的には辛く感じる出来事が多かったんじゃないかと察します。

天禄2年(971年)には、51歳で天文博士になりました。
村上天皇の第5皇子で11歳で即位した円融天皇(959年生まれ)の時代です。

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余談ですが、「光る君へ」では、円融天皇を二代目坂東巳之助さんが演じられていました。
私は歌舞伎はぜんぜん詳しくないですが、円融天皇演じる巳之助さんがふと見せる表情が父親の坂東三津五郎さん(故人)にそっくりで「おおっ」となりました(笑)
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円融天皇について

円融天皇の母は、藤原北家、右大臣藤原師輔の娘で中宮の安子でした。
円融天皇は、天禄3年(972年)1月3日に元服を迎えますが、その直後に摂政を務めていた右大臣藤原師輔の長男藤原伊尹が死去。

すると、伊尹の弟の兼通兼家の間で関白職を巡って熾烈な争いが起きました。円融天皇は亡母安子の遺訓に従って兼通を関白に任じ、翌4年(973年)に兼通は娘媓子を入内させました。

当初、円融天皇は兄・冷泉上皇の子(花山天皇)が成長するまでの「一代主」、つまり中継ぎの天皇とみなされていたそうです。

貞元2年(977年)に兼通が重病に陥ると、兼通の要望に従って藤原頼忠を後任にしました。藤原頼忠は、娘遵子を入内させていたので、円融天皇は兼家よりも頼忠を良く思っていたのでしょう。

当時兼家は、村上天皇の第2皇子冷泉天皇には長女・超子を入内させていたのに対して、円融天皇には娘を入内させていませんでした。
その後兼家も天元元年(978年)に次女・詮子を入内させ、同3年(980年)6月に詮子は懐仁親王(後の一条天皇)を儲けました。


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蟹座の火星は防衛型で自分から攻撃することはないですが、窮地に立てば反撃能力は高いです。
兼家から晴明の呪詛のせいで、花山天皇の女御・藤原忯子様がお腹の子とともに亡くなったことを責められた晴明は、一言で鋭く反撃しました。

おお、蟹座火星よのう(笑)
水瓶座の金星は冷静沈着な性質だったことを表していると思います。
ちょっとふてぶてしい印象なのですが、太陽が魚座なので薄められていたかもしれませんね。

晴明に言い返された兼家は、怖い夢を見てしまうというオチも良かったです。

藤原兼家を演じる段田安則さん

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花山天皇の退位

「光る君へ」では、本郷奏多さんが花山天皇(在位984年 - 986年)を演じています。花山天皇は17歳で即位しました。

寛和元年(985年)7月、最愛の女御・藤原忯子を亡くした花山天皇は、「出家して忯子の供養をしたい」と言い始めます。
このときは周囲に説得されて翻意しますが、寛和2年(986年)6月22日、花山天皇は突然出家して退位してしまいます。

※花山天皇の退位は、この記事を書いている時点では「光る君へ」ではまだ放送されていません。

宮廷の歴史をまとめた『大鏡』には、兼家が、詮子が産んだ孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らせたと書かれています。(寛和の変

兼家の三男道兼は、悲しみに暮れる天皇と一緒に自身も出家すると唆し、内裏から元慶寺(花山寺)に密かに連れ出しました。

花山天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしい」と言って出発を躊躇いますが、その時に雲が月を隠し、天皇は「やはり今日出家する運命であったのだ」と自身を諭したそうです。

花山天皇。月岡芳年「花山寺の月」

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そして、この花山天皇の退位を晴明は予言していたそうです。

『大鏡』花山院の条
さて(天皇のお車は)土御門より東ざまに率て出だし参らせ給ふに、晴明が家の前を渡らせ給へば、(晴明)みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打つなる。
(晴明)「帝おりさせ給ふと見ゆる天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。参りて奏せむ。車に装束疾うせよ。」と言ふ声聞かせ給ひけむ、さりともあはれには思し召しけむかし。
(晴明)「かつがつ(とりあえず)、式神一人内裏に参れ。」と申しければ、目には見えぬものの、戸をおしあけて、御後ろをや見参らせけむ。
「ただ今、これより過ぎさせおはしますめり。」と答へけりとかや。
その家、土御門町口なれば、御道なりけり。

花山天皇の御一行が安倍晴明の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった」という晴明の声が聞こえ、目に見えないものが晴明の家の戸を開けて出てきて「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えたと言います。

晴明が見ていた天変

その天変というのは、『星の古記録』(斉藤国男著)によると、寛和2年(986年)6月22日は、現在の暦では986年7月31日の夜でした。
木星がてんびん座α星に接近していたそうです。

木星は歳星といい、昔は国家または帝王を表しました。
またてんびん座は、「宿曜占星術」では「氐(てい)宿」に相当します。
α星は氐宿星と言って、氐宿を代表する星でした。

てんびん座α星は、黄道から非常に近い位置にあるため、月やごくまれに惑星による掩蔽(星食)が起こるそうです。
2052年11月10日には水星による掩蔽が予測されています。

陰陽寮の天文官たちは数日前から兆候を見ていたのは明らかで、晴明は近日中に天皇に重大な変化があると予測していたでしょう。

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疫病神退治をする安倍晴明(泣不動縁起より)


晩年の晴明

花山天皇の退位の年には、晴明は65歳になっています。
その後の晴明は、一条天皇や藤原道長の信頼を集めていたことが、道長の日記『御堂関白記』などの当時の貴族の日記に書かれているそうです。

藤原実資の日記『小右記』によると、正暦4年(993年)2月、一条天皇が急な病に伏せった折、晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち帝の病は回復したため、晴明は正五位上に叙されました。

道長の『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004年)7月には深刻な干魃が続いたため、晴明が雨乞いの五龍祭を行ったところ雨が降り、一条天皇は晴明の力によるものと認め、被物(かずけもの)を与えたそうです。

陰陽師として名声を極めた晴明は、その後、左京権大夫、穀倉院別当、などの官職を歴任し、位階は従四位下に昇りました。



晴明は、寛弘2年9月26日(1005年10月31日)に84歳で亡くなりました。
トランシットを見ると、ネイタル天王星にトランシット天王星がコンジャンクション。天王星リターンだったんです。
天王星リターンは、引退を意味します。死を意味してはいません。
そしてトランシットのSノードが、ネイタル海王星に重なっていました。

お役目を全うしたという感じですね。

今までのきらびやかな安倍晴明のイメージを、よい意味で覆してくれたユースケ・サンタマリアさんの演技、今後も楽しみです。

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2024年は安倍晴明ブーム来るか?

山崎賢人さん主演で「陰陽師0」が公開されるそうです。

山崎賢人さん、染谷将太さん、奈緒さん、等々、人気ある若手や脇を固める名優たちが出演されているので、結構、話題になるでしょうね。

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