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Catharism(カタリ派)

私は、寝入りばなや居眠りをしている状態のときに、ビジョンが見えたり、よくわからない謎のメッセージを受け取ることが多いです(苦笑)

10月11日ごろに見えたビジョンは、ある地域が赤くなっている地図でした。

ラングドッグ

この地域は、10世紀半ばにフランス南部とイタリア北部に現れたカタリ派と呼ばれるキリスト教徒が多かった場所だそうです。

カタリ派は、ローマカトリックの基本的な教義や儀式のいくつかに激しく反対したため、異端とみなされ根絶やしになるまで虐殺されてしまうのですが。
彼らはもちろん、自分たちこそ善良なキリスト教徒であると信じていました。

カタリ派の出現は、1181年にケルンで「このころドイツにカタロスがあらわれた」という記述が残っているそうです。
カタロスは、ギリシャ語で「清浄なもの」を指します。おそらく「カタルシス」(浄化)と同じと思われます。(もともとはセム語?)

南フランスの南フランスのリムーザンでは1012年から1020年の間にカタリ派が増えたという記録がある。


彼らの信念については、カタリ派が消滅してしまったため情報が少なく、正確に知ることは難しいようです。
wiki英語ページによると、カタリ派のほとんどの理論は、ビザンチン帝国から主に交易路によってもたらされたと書かれていました。また、トラキアのボゴミル派(「神の友」)のキリスト教運動と関連があったそうです。

※ボゴミル派は、10世紀半ばから14世紀末までブルガリアを中心にバルカン半島で信仰されたキリスト教の一派である。善悪二元論と現世否定に特徴があり、正教会では異端とされた。


ボゴミル派は、グノーシス主義の影響が強く、マニ教的な善悪二元論を支持していました。それゆえ、結婚・肉欲・飲酒・肉食、また教会の機密(秘蹟)も含め、地上の物質的なもの全てを否定しました。

グノーシス主義

グノーシス主義は、1世紀後半にユダヤ教と初期キリスト教の宗派の間で生まれた宗教的思想であり、いくつかのグループとバリエーションがあります。
私がグノーシス派のことを聞きかじった時は、キリスト教の異端派と聞いていましたが、今日の主流は、キリスト教とは別個の宗教思想であると考えられているようです。


そもそもカタリ派の始まりは、当時のカトリック教会の聖職者の汚職や堕落に反対する民衆運動であったと言われています。

キリスト教会に属する聖職者は、不節制でぜいたくな暮らしを行い、虚飾と華美な装飾の中で生活をしていると、カタリ派の人たちは考えていました。
さらに、教皇のことは神の敵である反キリストであると見なしていました。最後の審判の教義も否定していました。
カタリ派の考えでは、天使のように清らかであるソウルが、最後のひとつまでこの世から解放されたときにだけ、物質世界が終末を迎えるとされていたからです。
カタリ派の人々は万人救済論者であり、すべての人間が最終的には救済されると考えていました。
~バラ十字会のサイトの記事より~


カタリ派には「完徳者」(perfecti)と「信徒」(credentes)という二つのグループがあり、完徳者はほんの少数で大部分は信徒でしたが、使徒や初期のキリスト教徒のような生活を行ない、新約聖書を究極の真理だと考えていました。
カトリック教会の聖職者の堕落に辟易していた民衆は、完全な禁欲生活を送るカタリ派の完徳者の姿に強い感銘を受け、支持する人が多かったようです。

信徒は完徳者とちがって完全な禁忌を課せられていませんでしたが、完徳者は厳しい禁欲生活や労働の否定など完全に世俗と断絶した生活を送っていました。
の完徳者には男性でも女性でもなれた事から、カトリックとは違い女性でも高い地位を得る事ができたそうです。

カタリ派の勢力拡大を恐れた教皇イノセント三世は、宣教師を派遣し民衆をカトリック教会へ戻るように説得させようとしたが失敗したため、フランス王フィリップ2世と協議し、1209年アルビジョア十字軍を発足し、カタリ派の弾圧を始めました。

アルビジョア十字軍による最初のカタリ派大虐殺は、1209年7月22日ペジエという町で起きました。
記録によると7000人以上が虐殺されました。ほとんどが一般の民衆であり、無差別な虐殺だったと後世に伝えられています。略奪も行われました。

※ペジエは、ガリア人(ケルト)の町で、1996年に世界遺産に登録されたミディ運河とオルブ川の交差地で交通の要地として発達しました。


次に十字軍が攻撃したのは、カルカソンヌという町です。
カルカソンヌは、もともとはガリア人(ケルト)によって拓かれた土地でしたが、3世紀ごろに町全体を要塞都市に建設されました。

カルカソンヌが攻撃された理由は、当時の領主トゥールーズ伯、レイモンド・ロジャー・トレンカヴェルがカタリ派を擁護していたためです。
この町では虐殺は行われませんでしたが、8月1日、町は破壊され、水が絶たれたため、8月15日にトレンカヴェル公は降伏しました。

十字軍はトレカンヴェル公を監禁し、数か月後、トレカンヴェル公は自分の城の地下牢で赤痢で亡くなりました。
住民は追放され、カルカソンヌは十字軍の司令官であるシモン・ド・モンフォールに与えられました。


レイモンド・ロジャー・トレンカヴェル
トレンカヴェルは、くるみ割り人形(trenca avelana)を表すオック語に由来している可能性がある。


しかし、カタリ派の迫害はこれで終わったわけではありませんでした。
司令官のシモンは大勢のカタリ派信徒を火刑にしました。


続く




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