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百年戦争より前の百年戦争(プランタジネットVSカペー)

12世紀に始まったイングランド・プランタジネット朝の開祖であるヘンリー2世(在位:1154年 - 1189年)の父は、フランス貴族のアンジュー伯ジョフロワ5世(ガティネ家)でした。

当時の「アンジュー伯」とは、フランスのアンジュー地方の大領主を意味します。ヘンリー2世は、イングランド王になる前の1151年にアンジュー伯を継承しています。


アンジュー
父・ジョフロワ5世の紋章(1150年)


アンジュー伯は、ジョフロワ2世マルテル(1006年 - 1060年)が嗣子なく死去しアンジェルジェ家(アンジュー系)の男系が途絶えたため、実の妹エルマンガルドの息子で、ガティネ家のジョフロワ3世(髭伯)が継承しました。


ヘンリー2世は1150年にはノルマンディーも継承しています。
これはヘンリー2世の母が、イングランド王・ノルマンディー公ヘンリー1世(アンリ1世)の長女であり、高位の王位継承者だったからです。

ノルマンディー


ヘンリー2世は、父方と母方からのイングランドとフランスの領土を相続し、さらに自身とアキテーヌ伯の娘アリエノール・ダキテーヌとの結婚によってアキテーヌ領も手に入れ、また四男のジェフリーブルターニュ女公コンスタンスの婚姻によりブルターニュ公国を支配下に置きました。

こうしてピレネー山脈から南フランスおよびイングランドにまたがる「アンジュー帝国」を築きました。


アキテーヌ公国
ブルターニュ公国
1189年前後のアンジュー帝国




ヘンリー2世(イングランド王)


最初の百年戦争(1159年ー1259年)

百年戦争といえば、1337年に始まったフランス・ヴァロワ朝とイングランド・プランタジネット朝の百年戦争が思い浮かびますが、その前にフランス・カペー朝との「第一百年戦争」が起きていました。


確かに上述のようにフランス国土の半分以上がイングランド王の領土になったら、フランス王家は黙っていられないですよね。
しかもイングランド王とはいえ、フランスの本土領地では公爵や伯爵であり、フランス王の臣下でもあるわけです。


10世紀末までのフランス王領(青)


第一百年戦争の始まりは、父のジョフロワ5世が1144 年に得たノルマンディー公爵位を、1150年にヘンリー2世に譲ったことで火が着きました。

フランス王ルイ7世(在位:1137年 - 1180年)は、イングランド王スティーブン(フランス・ブロワ家)の息子ウスタシュ4世をノルマンディー公爵位の請求者として推し、ヘンリー2世を追い出す軍事作戦を開始しました。



ルイ7世


1151年9月に父ジョフロワ5世が死去し、ヘンリー2世はアンジュー伯領とメーヌ伯領を相続しました。
これによって、アンジュー、メーヌ、ノルマンディーの3つの地方が初めて同じ統治者によって統治されました。

(1202年から1204年のノルマンディー侵攻で、フランス王フィリップ2世はアンジュー、メーヌ、ノルマンディーを占領しました)

メーヌ

ヘンリー2世の結婚

翌1152年5月、ヘンリー2世は11歳年上のアキテーヌ伯の娘アリエノール・ダキテーヌ(ポワティエ家)と結婚しました。

この結婚はルイ7世との確執を深めるものとなりました。
というのは、アリエノールはルイ7世と離婚したばかりだったのです。

*****余談*****

アリエノールは1137年にルイ7世と結婚していました。
当時のフランス王の居城は、パリのシテ島にありました。シテ宮殿
つまり、処刑前のマリー・アントワネットが投獄されていたコンシェルジュリーもその一部です。

ルイ7世は、アリエノールのために王宮を拡大して、礼拝堂を増築し(現在のコンシェルジュリーの礼拝堂となった)、島の西端は壁に囲まれた庭園と果樹園を作りました。

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アリエノール


アリエノールは、結婚13年目の1150年に二人目の女児を出産しましたが、嫡男が生まれていないことは、サリカ法に従うフランス王家には大変な問題でした。
そこで離婚が考えられるようになり、ローマ教皇エウゲニウスの承認を得て4親等以内の血縁関係を理由に婚姻無効が認可されました。
ルイ7世とアリエノールは、共通の祖先(フランス王ロベール2世とその妻アルルのコンスタンス)を持つ3番目の従妹でした。

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ルイ7世とアリエノールの婚姻無効が成立した(3月21日)2か月後に、ヘンリー2世とアリエノールは結婚しました。
この結婚は、アリエノールの希望だったそうです。
この時代、女性相続人を誘拐して(嫁さらい)爵位と領地を手に入れることは暗黙の了解であったため、アリエノールの緊急な再婚は自領を守るためでした。

ところが、ヘンリー2世はルイ7世よりも血縁関係が近かったんですけどね。

ふたりの共通の祖先、アンジューのエルメンガルドアンジェルジェ家)を通じて三親等までの従兄弟であり、フランス王ロベール2世の子孫でした。


ルイ7世の怒り

ルイ7世は、アリエノールの再婚に異議を唱えないと約束していたものの、再婚相手が宿敵のヘンリー2世であり、ヘンリー2世が封臣にも関わらず国王の許可無く結婚したこと、国土の半分以上がヘンリー2世の領地となったことに衝撃を受け、かつヘンリー2世がイングランド王位継承権を持っており直ちに王位請求のためイングランドへ発つ準備をしていることを知り、すぐに戦争の準備を始めました。

ルイ7世は7月にノルマンディーへ出兵しましたが、急病に倒れ休戦を余儀無くされました。


*****余談*****

ヘンリー2世とアリエノールの間には、5男3女の8人の子が生まれています。
有名なリチャード獅子心王(1157年 - 1199年)とジョン王(1166年 - 1216年)も二人の子どもです。

リチャード獅子心王


フランス王ルイ7世は、2番目の妻(死別)との間にも男子を得られませんでしたが、3番目の妻アデラ・ド・シャンパーニュとの間に、フィリップ2世アウグストゥス(1165年8月22日 – 1223年)をもうけました。

フィリップ2世

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ヘンリー2世の息子たち

イングランド王スティーブンとウスタシュ父子の死により、ヘンリー2世は1154年にイングランド王に即位してプランタジネット朝を開きました。

ルイ7世にまだ嫡男が生まれていなかったため、ヘンリー2世は1155年に生まれたヘンリー若王とルイ7世の二番目の妻の子マルグリット(1158年生まれ)との結婚を提案しました。

ルイ7世はこの提案に同意し、ジゾール条約(1158年)で若い2人を婚約させ、2年後の1160年に幼い二人は結婚しました。
ルイ7世は、マルグリットの持参金にジゾールと周囲のヴェクサン伯領を与えました。

ヴェクサン


ヘンリー2世の子どもたちは大きくなるに連れ、父に対して反抗的になり、母アリエノールも加わって1173年に反乱を起こしました。
ヘンリー若王は18 歳になったばかりでした。

この反乱の引き金となったのは、当時7歳の末っ子のジョンとサヴォワ伯ウンベルト 3世の娘アリスとの結婚計画の一環として、ジョンにアイルランド以外にも、大陸領土内のシノンルーダンミルボーの城を与えるという発表でした。

アリエノールは、夫ヘンリー2世とロザモンド・クリフォードの不倫から不仲になっており、上の3人の息子たちの反乱に加わりました。


ロザモンド・クリフォード


この息子たちの反乱には、ルイ7世の支援があったことと、フランスの若い貴族たちが支持があったのが特徴的です。

ヘンリー2世はブラバンソンの傭兵を雇い、ノルマンディーを戦場に1年半も反乱は続きましたが、最終的に父の勝利でした。

アリエノールは15 年間監禁され、リチャード獅子心王(在位:1189年 - 1199年)が即位したときに解放されました。

反乱に乗じて、ノーサンブリアに侵攻したスコットランド王ウィリアム1世在位:1165年 - 1214年)は、ヘンリー2世に捕らえられ、スコットランドはイングランドに完全に臣従すること、スコットランド南部の城にはイングランド軍が進駐することなど屈辱的な講和(ファレーズ条約)を結ばされた。


***余談・ヴェルマンドワ家紋章***

この反乱の詳細は省きますが、反乱軍に見覚えがある名前がありました。
レスター伯爵 ロバート3世・ド・ボーモントは、フランス系イギリス人で、先祖はカロリング朝時代の王家の分家ヴェルマンドワ家の血統です。

ヴェルマンドワ家紋章

ボーモント家(ノルマンディー)の紋章は、色違いの市松模様です。


詳しくは別の機会に書きますが、私が3月からずっと書いているボルチモア男爵家にも関係しています。

青と黄、あるいは赤と黄の市松模様がちょっとでも入っていたら、「カロリング家」の血統Tが入っていると思ってください。間違いないです。

例:第3代ノーフォーク公爵、トーマス・ハワード


フランス王フィリップ2世との対立

ルイ7世は、1177年にヘンリー2世と和平を結び、1180年に死去しました。
息子フィリップ2世は15歳で即位(在位:1180年 - 1223年)した年に、カロリング家の血を引くフランドル伯フィリップ・ダルザスの姪で、エノー伯ボールドウィン5世の娘イザベル・ド・エノー(フランドル家)と結婚しました。

この結婚は嫁姑(アデル・ド・シャンパーニュ(ブロワ家)問題の勃発にもなりましたが、長くなるので割愛します。

フィリップ2世


フィリップ2世は、父王と同じようにヘンリー2世と息子たちの不仲を利用する方策をとりました。

ヘンリー2世は1189年に亡くなり、王位を継承したリチャード獅子心王は、イングランドにはほとんど滞在しませんでした。
リチャードは第3回十字軍に参加し、1191年7月、フィリップ2世、オーストリア公レオポルト5世と共にアッコンを攻め落としましたが(アッコン包囲戦)、その際、レオポルト5世が自身の功績を誇示し旗を掲げたのをリチャードの側近が叩き落としたため、レオポルト5世は激怒し途中で帰国するという事件がありました。

フィリップ2世はアッコンを占領してまもなく、1191年7月31日には病気を理由にフランスに帰国しました。

レオポルト5世


フィリップ2世は末っ子のジョンをそそのかし、神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世と結託して、ジョンの王位簒奪を支援しました。

その陰謀を母アリエノールから知らされたリチャードは帰路を急ぎましたが、途中で船が遭難したため変装して陸路を進んでいたところを、オーストリアを通過中にアッコンで屈辱を受けたレオポルト5世に捕らえられ、デュルンシュタイン城に幽閉されてしまいました。

この時ジョンは、リチャードが死んだものとして王位に即こうとしましたが、諸侯の支持を得られず断念しています。


デュルンシュタイン城


1193年に、リチャードはレオポルト5世からハインリヒ6世に引き渡され、イングランド側は15万マルク(10万ポンド)の多額の身代金を支払いました。
ジョンやフィリップ2世は、リチャードの解放を遅らせるようハインリヒ6世と交渉したそうですが、身代金が支払われるとリチャードは1194年2月に解放されました。

ハインリヒ6世がリチャードを解放する条件の一部として、リチャードの姪(ジェフリー2世の娘)エレノアは、オーストリア公レオポルト5世の息子フレデリックと婚約しました。
しかし翌年、レオポルト5世が亡くなったため、結婚は実現しませんでした。

リチャード獅子心王はイングランドに戻り、ジョンを屈服させ王位を回復しましたが、イングランドはカンタベリー大司教ヒューバート・ウォルターにまかせ、その後はフランスでフィリップ2世と争い、各地を転戦しました。

この頃にノルマンディーにガイヤール城を建てています。

ガイヤール城


失地王ジョンの時代、領地の喪失

1199年3月、リチャード獅子心王は嫡子がないまま、アキテーヌで戦死しました。
次の王位継承者は、1186年に死去した兄弟のジェフリー2世の遺児アーサー(1187年生まれ)になるはずでしたが、フィリップ2世の干渉を憂慮したイングランド貴族たちは、最終的なリチャード1世の遺言通りにジョンの王位継承を決定しました。

ところが、ノルマン法の解釈ではジョンが正式なイングランド王であるとされ、アンジュー法の解釈ではアーサーが正式な王位継承者であると認められるため、ジョンとアーサーは王位をめぐって対立することになりました。

1200年、ジョン王はフィリップ2世とル・グレ条約を締結し、ノルマンディーにおける英仏両国間の紛争を終結させ、ノルマンディーにおける国境を確定しました。


ジョン王


ジョン王は、1200年に最初の妻イザベル・オブ・グロスター(ノルマンディー家)と、共にヘンリー1世の血を引く又いとこであったことを理由に離婚し、既に婚約者のいたイザベラ・オブ・アングレーム(タイユフェル家)と再婚しました。

タイユフェル家は、ジラール家(マットフリーデ家)から分かれたと見られており、カロリング朝時代の支配層に属していた。

イザベラの婚約者だったユーグ9世・ド・リュジニャン(のちに再婚相手となる)が、フランス王フィリップ2世に訴えたため、フィリップ2世はジョンを法廷に呼び出しました。
しかし、ジョンが応じなかったため、フィリップ2世はジョンの全フランス領土の剥奪を宣言し、ノルマンディー以外のこれらの領土をアーサーに与え、アーサーを支援してジョンと交戦しました。

フランスのノルマンディー侵攻 (1202年-1204年)

1203年にジョンがアーサーを捕らえ殺害すると、フランスの諸侯はジョンを見限り、ブルターニュを始めとしてノルマンディー、アンジュー、メーヌ、トゥレーヌ、ポワトゥーはほとんど抵抗せずにフィリップ2世に降伏しまし
た。

ジョンに残ったのは、わずかにアキテーヌの中心地であるガスコーニュのみとなり、フィリップ2世はプランタジネット家のフランス領土の大部分を回収することに成功しました。


ブーヴィーヌの戦い

しかし、ジョン王は失った領地の回復を目指し、以前から同盟していたヴェルフ家出身の神聖ローマ皇帝オットー4世フランドル伯フェランらと謀って、1213年にフィリップ2世を南北から挟撃する計画を立てました。

この連合の目的は、フィリップ2世が在位初期ごろに征服した地域をフランス支配から解放することでした。



1214年に入るとジョンは、ポワチエ、アンジューを回復しましたが、オットー4世はドイツ諸侯の動員に手間どり進軍が遅れていました。
この間にフィリップ2世は王太子ルイ(ルイ8世)を南部に派遣したため、ジョンは撤退せざるを得なくなりました。

フランスの勝利により、オットー4世はこの戦いでの敗北で皇帝としての威厳を完全に失ってしまい、教皇インノケンティウス3世から破門宣告を受け、ローマ皇帝の座から引き摺り下ろされた。(その後ローマ皇帝の座にはホーエンシュタウフェン家出身のフリードリヒ2世が就任した。)


ジョン王はアンジュー地方を放棄せざるを得なくなり、シノンの和約によってアンジュー帝国は崩壊しました。また、フランスに60,000ポンドを支払わなければなりませんでした。


このブーヴィーヌでの惨劇により、これまでジョンに不満を抱いていた諸侯らが反発し、1215年にはマグナ・カルタにより国王の私権を制限するに至ったのです。

1180年と1223年のフランスにおけるプランタジネット家の版図(赤)と
フランス王領(青)、諸侯領(緑)、教会領(黄)


ヘンリー3世の落胆とカペー家の拡大

ジョン王は1216年の第一次バロン戦争の最中に亡くなり、2番目の妻の子ヘンリー3世(当時9歳)が王位を継承しました。

第一次バロン戦争(1215年 - 1217年)は、イングランド王国における内戦。ジョン王に対して、ロバート・フィッツウォルターらが率いる造反諸侯が戦った。また王太子ルイ(のちのルイ8世)が指揮するフランス軍が諸侯派を支持した。

そのころ、フランス王太子ルイ(ルイ8世)にロンドンは占領されていましたが、ノルマン・コンクエストから150年ほどしかたっていなかったこともあり(イングランドとフランスの関係は後々のような単純な敵対関係ではなかった)、王太子ルイは目立った抵抗を受けることはなく、造反諸侯や市民達から歓迎されていました。

王太子ルイは戴冠こそしませんでしたが、イングランド王位につくことを宣言し、スコットランド王のアレクザンダー2世を含む多くの貴族たちは、王太子ルイに忠誠を誓いました。

ルイ8世


ジョン王が亡くなってしまうと、造反諸侯のほとんどがルイ8世のもとから離脱したため、ルイ8世は1217年9月11日にランベス条約に署名し、イングランド王位の請求を取り下げ、フランスへ帰国しました。

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1242年、35歳になったヘンリー3世は、失われたアンジュー家の領地を取り戻り戻そうとサントンジュ戦争に参加しました。

この戦争は、ルイ9世の弟でポワティエ伯アルフォンスを支持するカペー家の勢力と、ユーグ10世・ド・リュジニャン(ヘンリー3世母の再婚相手)、トゥールーズ公レーモン7世、イングランド王ヘンリー3世の勢力が対立しました。

しかし、タイユブールの戦いは悲惨な結果になり、ヘンリー3世のアンジュー帝国復興の望みは潰えました。


ヘンリー3世


1243年1月、ヘンリーは以前に同盟を要請していた神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に「フランスの領土を取り戻す望みがなくなった」ことを手紙で伝えています。

第二次バロン戦争(1264年 - 1267年)の脅威が迫る中、1259年12月4日にパリ条約が締結され、第一次百年戦争は終了しました。

第二次バロン戦争は、イングランド王ヘンリー3世に対してレスター伯シモン・ド・モンフォールを中心とするイングランド諸侯が起こした反乱。

第一次百年戦争を通して、13世紀のカペー家の勢力の拡大は「ヨーロッパの歴史の転換点」になったと言われています。


最後までお読みくださりありがとうございました。
ではまた。

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