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13世紀*エドワード1世のスコットランド征服とジャック・ド・サン・ジョルジュの城

我ながらいつ終わるのだろう?と思うボルチモア男爵シリーズ(笑)のスコットランド・ステュワート家編に関連したスピン記事です。


イングランド王とスコットランドの城

リンリスゴー宮殿の初期の姿は、エドワード1世がスイスから呼び寄せたマスターメイソンのジャック・ド・サン・ジョルジュが建てた要塞城だったそうです。

エドワード1世がジャックを知った経緯はよくわからないですが、ジャックと父親のジョン(ローザンヌ大聖堂の建築家ジャン・コテリールと同一の可能性)は、サヴォィアのピエトロ2世のイヴェルドン城、シヨン城を建てています。


イヴェルドン城
シヨン城


ジャックは、エドワード1世のウェールズ征服(1277年~1283年)が始まってまもなく、イングランドの記録に名前が見られます。
ウェールズのルドラン城(1277年)、フリント城(1278年)が、ジャックが最初に取り組んだ城です。

ルドラン城
フリント城
ターナーによるフリント城の1838年の水彩画


ウェールズ征服後もジャックはイングランドに留まり、城を建てていました。ハーレック城、カーナーヴォン城、ビューマリス城(アングル―シー島)、コンウィ城は、「グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁」として世界遺産に登録されています。


ハーレック城
カーナーヴォン城
ビューマリス城
コンウィ城


ビューマリス城やコンウィ城といえば、イングランド内戦でチャールズ1世の王党派が戦ったことを思い出します。


第一次スコットランド独立戦争(1296年-1328年)

エドワード1世は1298年頃にスコットランド征服を始め、リンリスゴーにもともとあったモット&ベイリー的な簡単な要塞を、1302年にジャックが城に建て直したと言われています。

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スコットランドでは、1286年に国王アレクサンダー3世が嫡子なく逝去したあと、外孫のノルウェー王女マーガレット(1283年4月9日 - 1290年9月26日)が3歳で即位したものの4年後に亡くなったため、王位が空白になっていました。

王位請求者が13人になり、内戦の勃発を恐れたスコットランド諸侯たちは、エドワード1世に調停を求めました。
マーガレットの母方の大伯父にあたるエドワード1世は、これを好機として空位の間のスコットランド統治権を要求し、傀儡王ジョン・バイオールを擁立しました。


バイオール家紋章

ジョン・バイオールについて詳しいことは不明だそうですが、バリオール家はノルマンコンクエストでイングランドにやってきたノルマン貴族で、フランスのピカルディ地方のバイユール村に起源をもつようです。


外交の失敗とガスコーニュ戦争

その頃、イングランドとフランスは、南フランスのガスコーニュ(アキテーヌ領)をめぐって紛争になっていました。
第一次百年戦争は1258年のパリ条約で終結していましたが、イングランド王の唯一の大陸領として残っていたガスコーニュはワインの産地であり、フランス王は併合のチャンスを狙っていました。


アキテーヌ

1292年にフランスのノルマンディーで、イギリスの船員とアキテーヌのバイヨンネの船の乗組員の間で口論から殺人が起きたのが発端でした。
船員の間で相互の海賊行為に発展し、バイヨンネの軍隊がラ=ロシェル港を急襲するという事件が起きました。


フランスのフィリップ4世は、その報復としてアキテーヌ公領の没収を宣言し、軍を侵攻させました。
イングランドに損害賠償を請求したフィリップ4世は、エドワード1世を召喚しましたが、エドワード1世は弟のエドマンド・ランカスターを派遣して危機を調停させています。
エドマンドは、フィリップ4世の王妃ファナの母ブランシュ・アルトワとの再婚(1276年)によってフィリップ4世の義理の父でした。



エドマンドとフィリップ4世の秘密の交渉は、フランスがガスコーニュを40日間占領し、エドワード1世はフィリップ4世の異母妹ブランシュと結婚するという内容でした。

エドワード1世は、1290年に最愛の王妃エレノア・オブ・カスティーリャを亡くしており、嫡子がエドワード2世のみだったため、王は再婚してさらに息子をもうけることを切望していました。
当初、ブランシュは息子のエドワード2世と婚約していましたが、エドワード1世は自分の妻に迎えたいと思うようになっていたのです。

ところが、エドマンドが新しい花嫁を迎えに行くと、ブランシュはハプスブルク家のルドルフ3世と婚約しており、フィリップ4世は代わりに当時わずか11歳だった別の異母妹のマーガレットとの結婚を勧めました。

また40日過ぎても、フィリップ4世はガスコーニュの支配権を放棄せず、騙されたことに怒ったエドワード1世はフランス王への敬意を放棄し、1294年から1303年のガスコーニュ戦争と言われる衝突に発展しました。



ちなみにエドワード1世とマーガレットの結婚は、フランスとの関係が持ち直した1299年まで行われませんでした。若きマーガレットとの結婚は、老王に安らぎをもたらしたと言われています。

初めがゴタゴタすると、結局うまくいかない法則があるのですが、エドワード1世とマーガレットの場合はうまく行ったようです。


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傀儡王ジョン・バイオールの失脚とダンバーの戦い

そういうわけで、エドワード1世はスコットランドの貴族たちにもフランスに出兵するように要請しましたが、スコットランドはフランスと同盟を結んでエドワード1世に反発しました。

ジョン・バイオールはダンバーの戦い(1296年)でイングランド軍に大敗し、廃位させられました。彼はロンドン塔に3年間幽閉されたのち、親族のいるフランスへ帰国しました。


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エドワード1世は、多くのスコットランド貴族を捕虜にした後、スコットランド王が即位するときの「スクーンの石」(運命の石)、王冠、聖マーガレットの黒い十字架(イエスが磔になった真の十字架の破片と言われている)をすべて奪って、ウェストミンスター寺院に送りました。

エドワード1世がスクーンの石を持ち去った理由は、スコットランドに王位は許さない、イングランド王がスコットランド王を兼ねるという意志表示だったと見られています。


座面の直下にスクーンの石が嵌め込まれた
エドワード王の椅子を描いた1855年の絵画


その後、スクーンの石は英国の君主の戴冠式で使用されました。
1996年に700年ぶりにスコットランドに返還されましたが、英国王室の戴冠式のときは一時的にウェストミンスター寺院に戻されます。

2023年5月6日のチャールズ3世の戴冠式では、同年4月29日にエディンバラからウェストミンスター寺院に移送されました。



エドワード1世のフランドル遠征(1297年-1298年)

エドワード1世は、フランドル伯ギー(ダンピエール家)と同盟を結び、フランス北部からの攻撃を計画していました。


ダンピエール家紋章
フランドル地方


当時、フランス王フィリップ4世は、毛織物業で栄え経済的に豊かだったフランドル地方の完全支配を目指し、フランドル諸都市と激しく争っていました。

1294年、ギーの娘フィリッパとイングランド王太子エドワード2世との結婚が計画されましたが、フィリップ4世はギーと2人の息子を捕らえ、この結婚を取りやめるよう強要し、娘フィリッパは1306年に死去するまでパリにおいて幽閉されました。

婚姻による同盟は失敗したものの、イングランドとフランドルは1297年に同盟を結んでフィリップ4世に抵抗しました。フランドル戦争(1297 – 1305年)

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こうしてエドワード1世がフランスに気を取られている間、スコットランドでは新しいリーダーによって独立への蜂起が始まりました。

イングランドの貴族たちはスコットランドの動きを懸念し、フランドル遠征への参加を渋り、最終的に1297年8月末、エドワード1世は895人の騎士と7560人の歩兵と弓兵からなる軍隊と共にフランドルに移動しました。
その中には、ダンバーの戦いで捕らえられた多くのスコットランドの貴族が、条件付き釈放として奉仕させられています。


スターリングブリッジの戦い

1297年9月11日、アンドリュー・モレイウィリアム・ウォレス率いる軍は、フォース川沿いのスターリング近くでイングランド連合軍を破りました。

イングランド軍の騎士隊750人、歩兵18000人に対しスコットランド軍は騎士隊150人、歩兵7000人と数の上でイングランドが優勢でしたが、先のダンパーの戦いで大勝したイングランドが兵力差以上にスコットランド軍を甘く見た結果だと言われています。

スターリングブリッジの戦い


この戦い以降、イングランドに味方していたスコットランド貴族の多くが反乱側につき、イングランドは支配地の多くを失いました。

モレイはスターリングの戦いで負った傷がもとで数週間後に亡くなりましたが、ウォレスは「スコットランドの守護者」に選出されました。



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フランスにいたエドワード1世は、急遽フランス王と休戦を結び(ローマ教皇が調停に入った)、スコットランドに報復するべく帰国しました。

なんでしょうね。
エドワード「悪りぃ。国で反乱が起きたんで、オレちょっと帰るわ」
フィリップ「おう、わかった。頑張れよ」みたいなことなんでしょうか(苦笑)

しかし、この休戦にはフランドルが含まれていなかったため、フランドル伯ギーはイングランドの応援なしでフランス軍と戦うことになったのです。
フランス軍は1299年に再びフランドルに侵攻し、1300年1月にギーと息子は捕らえられ、1305年に捕囚のまま死去しました。


フォルカークの戦い

エドワード1世は帰国すると、大軍を編成してスコットランド征服を再開し、フォルカークの戦い(1298年7月22日)にウォレスの軍は敗れました。

この日は聖マグダラのマリアの祝日で、その前夜、イングランド軍が過ごしていたのがリンリスゴーでした。
ダラムのアントニー・ベック司教が、夜明けにミサを行った記録があります。彼は長年にわたってエドワード1世に仕えた軍の司令官であり外交官でした。


フォルカークの戦いでのアントニー・ベック。


イングランド軍の騎兵隊2000人、歩兵12000人に対しスコットランド軍は騎兵隊500人、歩兵9500人だったといわれています。
スコットランド軍が槍兵がメインだったのに対し、イングランドは、ロングボウを中心とする弓兵、投石機による一斉攻撃を行い圧勝したそうです。

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ウォレスはなんとか生き残り、その後も7年間にわたってゲリラ戦を行てイングランドに抵抗し続けていましたが、1305年に捕らえられ、反逆者として八つ裂きの刑に処せられました。
(ウォレスは今なおスコットランドでは愛国者・英雄として称えられているそうです)。

大逆罪によりウェストミンスター・ホールの法廷で裁判にかけられるウォレス


裁判でウォレスは「自分はイングランド王に忠誠を誓ったことはなく、彼の臣民ではないので大逆罪など犯していない」と主張した。
エドワード1世としてはウォレスに残虐刑を課すことでスコットランドの抵抗運動を恐怖で抑えつけようという意図であったが、逆にスコットランド国民感情を鼓舞する結果となり、幾月もたたぬうちにエドワード1世のスコットランド支配は崩れ去ることになる。


この戦いで戦死したジョン・ステュワート卿の直接の子孫が、スコットランド女王メアリーの2番目の夫で、のちにイングランド国王ジェームズ1世になるジェームズ6世の父、ヘンリー・ステュアート、ダーンリー卿です。


イングランド国王ジェームズ1世


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1300年~パリ条約締結まで

フォルカークでの勝利にもかかわらず、エドワード1世はスコットランドを征服する目標を達成できず、1300年と1301年の夏に再び侵攻しています。

1300年は、総勢10000人を率いてスコットランドを攻め、マクスウェル卿の所有だったケアラヴロック城を占領しましたが、教皇が撤退を要求する手紙を送ったため休戦し、イングランド軍は秋には撤退しました。


ケアラヴロック城
マクスウェル家紋章


1301年7月、エドワード1世は6度目のスコットランド侵攻を開始し、二面的な攻撃を行いましたが、スコットランド軍の先制攻撃を受けてリンリスゴーで冬を過ごし、翌年年1月に9ヶ月間の休戦が結ばれました。

この頃に、マスターメイソン・ジャックによってリンリスゴー(要塞)城が建てられたようです。
当時の城は1314年以降に破壊されたため(1350年に再建)、どんな姿だったのかわかりませんが、城は周囲を深い溝で囲まれていたそうです。
最初のほうに挙げたお城のように円筒型の塔があったかもしれませんね。

ジャックは1309年5月頃に、北ウェールズのビューマリス城の完成を見ることなく亡くなったそうです。
(ビューマリス城は未完成部分が多く残されている)

リンリスゴー城遺跡(現在)


1303年5月、イングランドとフランスはパリ条約を結び、ガスコーニュ戦争を終わらせました。
フランスとイングランドの間の平和は、1324年のサンサルドス戦争まで維持されました。サンサルドス戦争は百年戦争の前兆とも見なされています。


1304年までに、ほとんどすべてのスコットランドの貴族がイングランドに服従し、エドワード1世はスコットランド政府の再編成を行いました。
しかし、ウィリアム・ウォレスから始まった独立の気運はスコットランド人の心から消えることはなく、1307年にエドワード1世が死去すると再び独立運動は激しくなっていくのです。


第一次スコットランド独立戦争(1296年-1328年)
第二次スコットランド独立戦争(1332年-1357年)


***余談****

長くなりましたので、その後のスコットランドについては別の機会をとらえて書きます。

フランス王フィリップ4世といえば、1307年10月13日にテンプル騎士団を異端告発して火刑にしたことでも名が知られていますが、フィリップ4世はテンプル騎士団に莫大な借金があったと言われています。
借金の有力な原因として考えられるのは戦費でしょう。

フィリップ4世は、1302年のゴールデン・スパーズの戦いで、フランドル連合軍に敗北しました。
この戦争はフランスの財政に壊滅的な打撃を与え、通貨は37%も落し、金銀の海外輸出を禁じる新たな法令が発令されたそうです。


特筆すべき点として、騎士団が保有する資産(構成員が所属前に保有していた不動産や各国の王族や有力貴族からの寄進された土地など)の殆どを換金し、その管理のために財務システムを発達させ、後に発生するメディチ家などによる国際銀行の構築に先立ち、独自の国際的財務管理システムを所有していたとされる事が挙げられる。


フィリップ4世は、テンプル騎士団に反対することで負債から逃れようとしたというのが大方の見方ですが、最近の研究によれば、フィリップ4世はテンプル騎士団を弾圧することで、カペー朝の君主制を宗教至上主義の上の地位に引き上げようとしたとも言われています。


下の図は、テンプル騎士団の司令部地図です。
フランスに集中していたことがわかりますよね。
自分の領土に裕福な騎士団がこんなにも存在しているとは、借金王の心の中穏やかではなかったでしょう。

今日はこのへんで。
最後までお読みくださりありがとうございました。

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