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深山さんのゆるみ日和 #6 至らなさについて

先日の風邪っぴきから、かなりの日数が経過したが…
現在のところ、絶賛継続なうである。

いや、正しくは「悪化した」のち継続なう。

風邪から気管支炎に移行してしまったのだ。


体調管理が甘かった自分の「至らなさ」を痛感している今日この頃である。


私は、教会の礼拝で歌を歌う奉仕をしている。
そして、ゴスペルクワイヤを主宰し、人様に歌を教えることもしている。

その私が、気管支炎。
無理して声を出すことも「ドクターストップ」の状態に陥っている。

あぁ、なんて私は「至らない」のだろう。

と、密かに思い悩む日々を送っていた。


まぁ、表向きは「呼吸器以外は元気です」という顔をして暮らしているので…
家族でさえ、私が苦悩していることに気づいてはいないと思う。

しかし、私は苦悩していた。
昼寝して、悪夢にうなされる程度には悩んでいるのだ。

「もし、このまま声が出なかったらどうしよう」
「歌えなくなるんじゃないか」

そう考えては、悪夢にうなされているのだ。


そして、とうとう…
体調が芳しくないこともあり、日曜日に教会へ行かなかった。

最近は、コロナ禍の時に準備されたインターネット設備により「リモート」で礼拝に参加することができるので有難い。

あぁ、やっぱり声が出らん。
と、少しイライラしつつ賛美歌を聴いたとき…
涙があふれた。


私は、性質として超自然的な感覚を敏感に感じることがある人間だが…
この時は、まさに「それ」を拾ったのだと思う。

賛美歌の中にある、神さまからのメッセージ。
それは…

「至らない私」でも神さまから見たら「可愛い娘」であるということ。

そして、

至らない私であろうがなかろうが、私には「愛が注がれている」ということ。


このメッセージを拾ったあと。
私は、なんだか自分の中にある「至らない私」の存在がバカらしく感じた。

「至らない」という言葉は「到達していない」という意味の言葉であり「自分の能力や配慮が足りていない」ということを表している。
(と、Google先生が仰っている)

そう。
だったら、人間なんだから「至らなくて上等」ではないか。

私は一体、どこへ到達しようとしていたんだろうか。
完璧=神の領域だとするなら…
なんておこがましいのだろうか、私。

とりあえず、もう少し気管支炎とは付き合わざるを得ないだろう。
(とにかく、咳が止まらないからね。)

しばらくは「至らない私」のままかもしれない。

だけど、たとえ「至らなくても」私の価値は変わらない。

そのことに気づけただけでも、体調崩した甲斐があったというものだ(笑)

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