見出し画像

詩、過去作品。

昔、「よーかん」というハンドルネームでブログを書いていた。

Google以前の時代のことだ。

文章を書くと心が落ち着く事に気づけたのは当時の私にとって人生最大の収穫だった。

ちょうど大好きだった映画にも落書きにも飽ききっていた頃だった。

だが続けていくうちに楽しみは減った。パソコンに向かいウィンドーズを立ち上げるのが億劫になった。伝えるための文章は伝えたい情報なんぞ持ち合わせていない人間にとっては労働でしかない。伝えるための文章を書き続ける事はすこやかな精神を持った健康な人達にしか出来ない事ではないかと思いド壺にハマった。

学校でキチンと授業に参加していなかったため書くという行為のルールや基準が分からなかったせいもあり、書くことは気持ちよいが書こうとすると辛くなるジレンマに囚われた。

だが当時の私にとって、インターネット上に言葉を残す行為はすでに必要な物だった。書く事で得られる安堵感を捨てる訳にはいかなかった。また再度心を拗らせ、街角でブツブツ独り言を言うような大人の一人になりそうな気配、そんな不安も当時はまだ私の中に強く残っていた。それはワタシにとっては重大な、悩める年頃なウザったい問題であった。

気づいた瞬間は思い出せない。ある日なんとなく気づいたのだろう。

そうだよなくらいの軽いエピファニー、思い付きだったのか、単純な事すぎて感動もせず、当たり前のように当時のワタシは路線変更した、それだけのはずだ。ワタシは情報も整合性もない文章を誤魔化すためにポエマーであると開き直ることにしたのだ。

考えてみると、その気づきは当時の自分にとって啓示的な閃きであったはずなのだが、全くその経緯も瞬間も思い出せない。だがそれで調子に乗れた。ポエマーと言ってしまえばコッチの物なのだ。評価さえ気にしなければ、書くことだけを素直に続けられる。ワタシはだから、途中何度も閉店期間がありはしたが、書くことだけは、ずっとあれから何にも縛られず勝手にやって来れた。それは私の人生を豊かな物にした。

考えようによっては取り返しのつかないない大きな過ちであったのかもしれないがそれがそれならそれでいい。

二十代後半の事である。

あらためて思いを巡らせると少々困惑してしまう。

ここではあえて困惑したほうがポエマーらしいから困惑してみた。中年になりサービス精神を身に付けてしまったのは少々イタイ。ポエマーは投げっぱなしのほうがずっとカッコイイ。

実を言うと、書き始める前にふと思いついた言葉、「拗らせるとはなんと美しい事なのか。」を書きたかったからこれを書き始めたのである。なんだかずいぶん目的からそれてしまった。だがそれでいい。ポエマーな日々に束縛はない。

そして自分が自由であれば、他者に自由を押しつける無礼を繰り返す必要もなくなる。

そこには勿論まだ、たどり着けてはいない。
.
.
.
.
ありがとうございます。
.
.
.
カラスとイヌのこと
     
   作:よーかん aka. Shiroshi.

ボクは人間が嫌いです。人間は犬を苛めるからです。犬は人間を苛めません。人間は犬をぶちます。犬をぶって怒ります。犬はぶたれると怖くって、体を固くして小さくなります。だからボクは人間が嫌いです。
 人間は首輪をつけて引っ張ります。どこかに行きたくても首輪があると、行きたいところにいけません。首輪に紐がついているからです。首輪はとても苦しいと思います。よしよしとなでると犬は喜びます。でもよしよしとなでるなら、ぶったりしないほうがいいと思います。
 犬もカラスみたいにどこか遠くにいきたいと思います。でも首輪があるからいけません。それとどこかに行ったら捕まってしまいます。犬を捕まえる会社があるからです。首輪がないと捕まえる会社です。でもカラスはつかまえられません。カラスは電線にとまるから、首輪がなくても捕まりません。夕方になると遠くに飛びます。犬よりカラスのほうが幸せだと思います。
 冬は寒くてもカラスなら大丈夫です。暖かい所に飛んでいけるからです。一人でも大丈夫です。カラスはなんでも食べれるからです。なんでも食べてもへいきです。カラスはすごく強いからです。カラスが食べるとなんでも糞になります。カラスは糞をするとカーカーカーと鳴いて飛びます。犬はワンワンと鳴いたり糞をすると怒られます。
 犬をぶつ人間がカラスに食べられたらいいです。カラスの糞になるからです。カラスがいっぱい食べたら、いっぱい糞をします。そうしたら春になった時に花がたくさん咲くとおもいます。
.
.
.
.

ありがとうございます。