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オジサン達は愚痴や説教を言い訳しながら繰り返す生き物である。

気をつけないといけないな。

私の日常は気を使わなくても良い仕事仲間といる時間のほうが多いので、感覚が鈍化してしまい、一般世間の良心とは少々意見や感覚がズレてしまっているようだ。

昨晩書いたこの文章は愛煙家の愚痴なので、嫌煙家の方々には気分を害する内容の横柄で下品な発想の代物でしかない。弱者が隅でコソコソと語るのが愚痴である。

いや、弱者に堂々と垂れるタイプのオヤジ的な愚痴も存在するか。どちらにしても愚痴は聞いていて気分が良いものではない。

今回のは、ポエマーな私でも堂々とポエムですとは言えないタイプの惨めな文章である。興味本位で読んでしまい後悔しないよう、気をつけて頂きたいと先に言い訳をしておく。

ポエマーと言えど普通の生活者と感性なんてあまり変わりはしないものなのだ、ポエマーな私はそう常々思っている。

ツイートでは書ききれないぞ、この気持。 作・よーかん

意識が高い方々の迷惑にならないように気をつけている。

煙草は私の数少ない楽しみの一つなので、他人の気分を台無しにしてしまうことで、自分の大切な時間を台無しにしたくない。良い景色の中でゆっくりと楽しむあの贅沢な時間が、最近なかなか持てないのは残念ではある。

遠くに向かってヤッホーと叫んでみたくなってしまう今日この頃。

私は大都会と比べるととても田舎な空間で暮らしている。国道沿いに解体車置き場、畑、コンビニなどが点在する、千葉ではお馴染みなあの風景を想像してもらえると分かりやすいかもしれない。通勤もほぼゴト車でするため、日常あまり喫煙所探しで困ったりはしないのだが、都会人の愛煙家は日々大変だろうなと想像している。

東京側から現場に来る同世代の連中は、すでに皆電子タバコの携帯者だ。彼らから、喫煙所以外で煙草に火を点ければ、ほぼ犯罪者扱いなのが都会の風潮だとは聞いているが、正直まだあまり実感がない。

しかし、たとえば上野のアメ横でも、慣れていない人が喫煙スペースを見つけるのは結構骨が折れるはずである。

私は十数年前から、上野に着くと同じ喫茶店にまずは寄り一服する習慣が出来ているから、すでに気にもならなくなっているが、考えてみればあのアメ横でである。少々清潔感を感じない雑踏感が魅力だったのがアメ横なのだが、最近では日本人より観光目的の外国人のほうが多いいように感じる、毎日が夏祭りのようなスペースに変わってしまっている。あれはなんでだろう?ビックカメラのせいだろうか?

そういえば、たまに現場で訪れる千葉の浦安でも、夜間の路上喫煙は犯罪である。

JR浦安の駅前ロータリーにはもちろん、あの忌々しい終日禁煙のマークが歩道のタイルに描かれている。人混みで歩きタバコをするようなキ印の連中なんていないだろうにと、自己憐憫的なボヤキをカマそうと思ったが、オイラが少年だった昭和の電車のホームでは、柱に灰皿があり、オジサンもオネエサンも所かまわず煙草の煙をくゆらせていた。朝の駅前ロータリーを歩き煙草をしながら大股で闊歩するサラリーマンなんて、当り前すぎる光景であったのだから不思議なものだ。あの時代は嫌煙家にとっては地獄のような世界だったのだろう。

異常と言えば異常なのだが、普通だった時代では誰も気にしていなかったようにも思える。たぶんそれもある意味では事実ではないだろうか。

こうやって、愛煙家にとっては悲しいが、逆らいようがない時代の変化に思いを巡らしていると、映画「美しきかな、人生」の中の映像が思い浮んだりする。両切り煙草をくゆらせながら映画を楽しむ男たちと、歓声を上げながら映像に夢中になっている少年達。あの映写機の光にただよう煙草の煙は、一昔前の姿の象徴としてだけではなく、時代の大らかさを象徴する小道具なのだろう。それは喫煙者の自己中心的な甘えであり、横暴で感傷的な過去の美化だ。そんな声が聞こえそうだ。まあその通りなのだからしょうがないか。

喫煙に対する肯定的な意見なんて、マジョリティーは聞くだけで嫌悪感に襲われてしまう、迷惑でしかない横柄な世界観である。

これは愛煙家なりに感じている危機感からくる妄想でしかないのだが。そのうち、煙と動物性蛋白質の焦げの発がん性が議題に上り、焼肉も規制対象になる日が来るのは、あまり遠い未来ではないのかもしれない。焼き鳥屋さんは職人達の健康への影響が憂慮され、これもいつか規制対象になるはずだ。ベジタリアンやビーガンの方々は歓声をあげるのかもしれないし、それもその時には、時代の変化だと認めるしかない。

皆が大好きなジョン・レノンはキャメルの両切りを吸っていたが、デジタル化社会がさらに進めば、喫煙中の写真は検索対象外になるのだろう。ピカソ、ヘミングウェー、ココ・シャネル、三島由紀夫、キング牧師、こうやって名前を上げていくと、偉人の中にも喫煙者がいたと気づけるはずなのだけれれど、煙草を吸うと早死にしてしまうのでこんな事は言ってはいけないのだ。受動喫煙の死亡者数を考えれば反論も出来ない。もっともなことだ。

「ティファニーで朝食を」のポスターもリデザインされてしまう時代はもうそぐそこだ。いや、それどころか現代のアメリカでは、登場人物「ユニオシ」のコミカルな姿が、日本人に対する下劣な人種差別だとして問題視され軽蔑対象にまでなっている。個人的に言わせてもらえば、あの時代はあんな風にしか日本人は観られていなかったのか、そう思うと感慨深くて面白い。ずっと昔に観た映画だが、ドリフの加藤茶が扮するキャラみたいだな、などと呑気に眺めて笑ってしまっていた。

そうなのだろう、鈍感は罪なのだ。そうなのだ世界は変化し続けている。

鈍感な私にしてみれば、あんなものを気にしているのは、意識が高い人ばかりだろうと思ってしまうのだが、気になってしまう人達の正論のほうが珍重されてしまうのが、今の時代なのだからしょうがない。「ローマの休日」が封建主義を美化したプロパガンダ映画だと共産党系左翼知識人に断定されお蔵入りになる日が来るのだろうか。笑っているかもしれないが、アメリカのリベラル知識人の発言力を舐めてはいけない。アメリカリベラル左翼は美しい笑顔の全体主義者だなんて暴言をはいたところで、意識が高い人達には、あまり理解されはしないのかもしれないけれど。

やれやれだ・・・。

ああ、文章も長くなってしまったことだし、怒らせてしまうだろうが、このさいダメ押しに言ってしまおう、まったく・・・体に悪い時代になってしまったものだ。

でもそうだな、時代に逆らったところで疲れるだけだし。

アメ横のど真ん中でヤッホーと叫んでみたら、どんな気分を味わえるのだろうか。

おしまい。

長々と愚痴に付き合っていただき、ありがとうございます。