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【2/6】廃章 報酬系回路の電気刺激で行動制御は可能か――あるいは アマノサグメ

アヤメ

一週間に渡る長雨が、居座り続ける朝。

天気と同じ憂鬱が、日曜日のエディプス幤学校を満たしていた。日曜授業と引き換えになる明日の振替休日は、7日間連続登校の倦怠への報酬としてはささやかすぎた。

空から重力に引かれ落ちてくる雫が従う一定の法則と同様に、昇降口を通り抜けていく白い制服の群れも、緩やかな規則のもとにふるまう。
傘立てで一度立ち止まり、それぞれの靴箱に移動して、靴を履き替えて校舎の、左右どちらかの階段へと向かう。その繰り返しだ。

靴箱の周りに留まっておしゃべりを交わす一団は、紅茶に抵抗する砂糖の結晶のように、いずれ人の流れの中でほぐれて消えていく。

法則に敏感なものだけが気づくことができる停滞。
御手座みてぐら 巴は最初、大きな問題意識なく、それに接触した。

「綾目 若彦くん」

名前を呼ばれた生徒は、顔だけ彼女の方へ向けた。口元が痙攣の後、やっと笑顔らしき形状で安定する。

「何か用ですか、【御前】……じゃなくて御手座先輩」
「問題が発生したなら、お手伝いします」
「ああ、これですか」
綾目若彦は、靴箱の中に差し込んだ両手をゆっくり引き出した。
ぎざぎざに乱れた爪のアーチ。
それを噛む癖があるようだ。

「奥に靴紐が引っかかっただけで……お手を煩わせるまでもありませんよ」「上靴をもう履いているようですが、この時間に外に行くんですか」
壁にかかる時計が、8時18分を示している。朝礼まで12分しかない。

「あ……いえ、外靴を入れたとき変な感じがして、何かにひっかかってるみたいで。
大丈夫ですよ。もうちょっと粘って、無理そうなら先生に頼みます」

御手座 巴は整った眉宇をひそめた。
「綾目くんの外靴が引っかかっているのですね」
「はあ……なにかおかしいですか」
「他の人の靴箱に?」

鋭い舌打ちは隠しようがなかった。綾目 若彦は親指の爪の肉と貼り合わせてある部分を噛む。
怨嗟が歯の隙間から漏れた。

「御手座先輩。
クラスで行動するとき、靴箱が近いと互いが邪魔なので、割り振りはランダムですよね 。
つまり『久世さん』の位置を知っているなんて、仲がいいんですね」
後輩は、探るような目をした。

「では綾目くんも久世くんと仲がいいのですか」
対する御手座 巴の返答は、冷静を通り越したを理知を纏っていた。

「そんなわけないだろ!」

敬語が外れた。自己矛盾する綾目 若彦は、ついに食い破った指先から溢れる血を、吐き捨てた。

「8時30分だ。誰にも止められない。
今日の分を見つけたところで、どうせ終わりだ」

意味不明の宣告を、冬の臭いがする少女は撥ね付けはしなかった。
「話を聞かせてください」
一歩踏み出しかけたて、御手座 巴は躰を後方に引き戻す。
瞬間、後輩は確かに魔述の発動ワードを口にした。

「ルール、イリス」

彼は魔述師だ。そして、魔述によって逃げ去った。
後を追うにも、手がかりがない。

自らも魔述師の少女は、彼が固執していた幼馴染の靴箱を覗き込む。
揃えられた左右の上靴に、右は藍色、左は紫色の紐が結わえてあった。

(これに似た光景を、私は憶えている)

朝礼10分前のチャイムが鳴り始めた。

キオク

御手座巴は、二歳の誕生日の前にスイッチを入れ、今日まで途切れることなく彼女の主観を録画し続けている直感像記憶を手探りした。
五感を余さず記憶しているこの能力は、聞こえの華々しさとは裏腹に『病』である。

通常記憶は重要なものは取り出しやすく、そうでないものは奥深くにストレージされる。
このような緩急が情報処理の高速化に貢献することから分かるように、全てが等しい重要度で保管されてしまうと必要な情報を取り出すのは困難を極めるのだ。

彼女は成長の過程で、新刊がおびただしく入荷される図書館の孤独な司書のように、効率的な分類保管法を模索し続けてきた。
現在の検索速度は人より幾ばくか早い。
ただし範囲は比較にならないほど広く、情報の鮮明度も桁違いだ。

(見つけた)

3日前の記憶に降り立つ。
教室の自席で椅子を引くなり硬直した生徒がいた。
他のクラスメイトがほとんど着席している中、中腰の彼は奇妙だった。
顔に焦点を当てる。

やはり久世正宗だ。

巴は手元に焦点を当てる。苦労して何かを取り外そうとしている。
黄色い紐が椅子に結びつけてあるようだ。

……似たものを見たことがある。
異常な記憶力を持つ少女は、脳に蓄えた類似の場面に、フォーカスを移した。

5日前。
英文を読み上げるよう教師に指示された時、久世 正宗が開いた教科書の間から落ちたもの。
血かと一瞬錯覚したそれは、赤い紐。

紐。それに連なる記憶を、近い時間軸で検索する。

2日前。
並べて保管された生徒用の儀礼刀の1つに、緑色の紐が結ばれているのが、視界の端に残っている。

昨日。
彼の席の隣を通ったとき、机上の鞄を落としてしまった。
拾って渡しながら、その軽さに驚いたことを憶えている。
空の鞄を受け取った彼は、持ち手にたなびく緑色の紐を、さり気なく手の中に隠した。
儀礼等に結ばれていた色と形状が一致。

そういえば3日前から、久世 正宗は教科書やノートを忘れ続けている。
そこまで不真面目な生徒ではなかったにも関わらず。

チャイムがちょうど鳴り終わって、御手座巴は目の焦点を現実に戻す。

『8時30分だ。誰にも止められない。今日の分を見つけたところで、どうせ終わりだ』

綾目 若彦はそう言った。残り時間はわずかだ。
魔述ならば法則がある。それを解明しなければ。

魔述師の少女は、幼馴染の上靴を自分の鞄に納めた。
緊急だと言うのに、携帯端末にコールしても出ない彼には、今日スリッパで過ごしてもらうことになる。

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