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【1/6】廃章 報酬系回路の電気刺激で行動制御は可能か――あるいは アマノサグメ

エピグラフ

わたしは不幸にも知っている。時には嘘によるほかは語られぬ真実もあることを
――芥川龍之介

レミニセンス

虹彩が狙いをつけている。
君は虹と関係しただろう。

指差したか。
写真を撮ったのか。

まさか根本に金の杯が埋まっているなんて嘘を信じて、あれに近づいたりはしていないね。
よく思い出すのだ。金の杯は掘り出したものを幸福にするが、手放した瞬間あらゆる不幸が襲いかかる。
失わせるための幸福なのだよ。ほら、向こう側からそれをはかる者の悪臭が、もう届いた。

……そうか。近づいたのは君自身ではないか。虹を動かした者がいるようだ。

虹は一瞬で、あちら側とこちら側を接続する橋。
強制的な繋がり。

君は虹に追われている。
嘘以外では、身を守れない。

アンテナ

左目の上の、奥の奥を起点とした頭痛が、真実を語っていた。
持ち上げようとした瞼の代わりに、ひんやりとした手のひらが、視界を遮る。
「心配しなくて良い。手術は成功した」
花のようなこうのような、瞑想を誘う薫りが前髪を伝い落ちていく。

「サイファー」

そう呼ぶと、至高のイデアは細い指に込める力を強くした。暗いまな裏に、虹が瞬く。
「何をした」
「アンテナを――」
手をやや乱暴に払いのけられて、美しい人外の、言葉が途切れる。
「――埋め込んだ。ここに」
不機嫌に細められた金無垢の瞳が視線で示すのは、やはり、左目の上だった。
左目の上の、奥の奥を起点とした頭痛が、真実を語っている。

……? 何かがおかしい。

小さな電気の蛇がのたうつように、空虚な痺れが思考を鈍らせた。

「アンテナ?」
だから馬鹿みたいに繰り返す。
「ラットを操縦するためには三つの電極が必要だ。この技術は戦前には実用段階に入っていた。
彼等はヒゲに物が触れると逆へ曲がるから、それを電気刺激で代行する。
上手くできれば報酬系に刺激を与えることで、この生き物はラジコンカーのように自由に走らせられるのだ」
淡い色をした唇が、酷薄な笑みをかたどる。
「それと似た処置を君に施した」

僕は習慣的に、このイデアの言葉を鵜呑みにしない。

「人間はそんなに単純じゃないだろう。
ラットにとってのヒゲのように一つの感覚に依存していないし、躰を自由に動かせても精神に影響できないなら、人間をコントロールできたとは言えない」
否定する言葉は次々と浮かんだ。それでもなお、サイファーのいつもの余裕を挫くまでに至らなかった。

けれど、見上げた顔が、僅かな憂鬱の翳りを含んでいる気がするのは錯覚だろうか。

相手は小さく息をつく。

「僕を好き、だろう?」

イデアは挑戦的に輝く瞳を、危うい率直さでこちらに据えてくる。
そして僕は出会った頃から変わらず、この人外が大嫌いだ。

「勿論」

考えうる限りの否定を。

「君を愛している」

……僕がこれを言った?

光に溶けて緩む雪のように、言葉は僕の口の中から溢れる。舌が満足感で熱い。
あり得ない。これはあってはならないことだ。

「君には一つの電極で十分だった」
サイファーが立てた華奢な人差し指から逃れるように、僕はソファーから腰を浮かせた。

「ギャンブル依存、アルコホリック、過食……行動嗜癖しへきにはいろいろあるけれど、その始まりは出来事と快情動が脳内で結びつくことだ。
ごく簡単に言うと、生来アルコールを好まない人でも、それを口にするたび報酬系を刺激されたなら、飲むことから逃れられなくなる」

僕の後を追って、心を持たない実験者が優雅に立ち上がる。

「それでは一つの行動を一つのボタンで起こせる、退屈なロボットを作れるだけじゃないか」
「その通り。脳を触った直後なのに明晰だね。

けれどこんな嗜癖しへきもある。
占い依存症……正確には占い師依存症。
依存のキーが他人そのものであればいいのだ」

「相手の声、行動、支配に耽溺するなら、複雑なことを強制できる、と」「けれど『誰か』と『快情動』の結びつきを依存にまで強固にするには、高度な技術と時間もいる」
「この、アンテナで……君に選択を明け渡す快楽を、僕は刻み込まれたんだな」
そういうのは嫌いだと言っていた。あれは嘘だったのだろうか。

「その調子だ。繰り返せば繰り返すほど、君の世界は灰色に蝕まれ、僕だけが色彩になる」

僕と敵対的で友好的なイデア・サイファーの関係は、白刃の上を走るような、危ういバランスで保たれてきた。
世界から至高のイデアのくびきが外れて、全てのルールがこわれたとき、また安定を自分たちだけで取り戻せると、僕も【御前】も信じられないから、一時の共存を選んだ。

顕著な裏切りには、時を置かない報復を。
僕には、この至高のイデアに対する切り札があった。

最も強い力を持つ魔述。
諱名いみなを音声化し、人外の干渉を封じる。

「ネロ、やめ」
諱名いみなの支配……それはさせない」
痛みはなかった。ただ、自分を律することがひどく億劫だと感じ始めただけ。
「もう君は僕の傀儡だ。直接解らせてもいいが――」
金無垢の視線と僕はぶつかる。
瞳にかき集めた敵意で、この人外を燃やすことができればいいのに。
「――感じたまえ」
アンテナを、形のいい指で掬うようになで上げられると、膝の力が抜けた。僕はサイファーの真紅のリボンに鼻面を埋める。自分より大きい相手を抱き止めたイデアは、少し脚をよろめかせた。

「こんなの、死んだ方がましだ」
やっと、それだけを言う。
大嫌いな相手の胸に縋って、そうでなければ立ってもいられない。

「……同感だ」
人外の耳元をくすぐる囁きが妙に誠実で、僕はその表情に真相を確かめようとした。白金髪が揺れて表情は帳の向こうに消え、サイファーは身を離す。

「さあ、学校へ行く時間だよ」

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