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104年前の丸善と三越〜寺田寅彦氏の随筆より
寺田寅彦氏の随筆
『柿の種』という随筆を借りた。
それもパラパラと読みながら、寺田寅彦氏の随筆集を2冊借りてきた。
岩波文庫のワイド版で第1巻と第2巻。
が、こないだの週末は首が痛くて沈没し、まだこちらもパラパラ。
丸善と三越
その随筆集の第1巻に『丸善と三越』という随筆があり、最初にそれを読んだ。
119ページから138ページに渡り書かれている。
私は丸善も三越(ここで書かれているのは日本橋三越)も好きなので、これが書かれた時代にも興味があった。
この随筆は大正9年6月、中央公論に書かれたもののようだ。
一部抜粋
何か少し特別な書物でも欲しいと言うと番頭はさっそく丸善へ注文してやりますと言った。
このくだり、番頭がいる暮らしが何だか羨ましい。
父も母も幼少期はまだお手伝いさんがいたようだ。
そんな時代がちょっと羨ましい。
自分の身の回りのお世話をしてもらいたい。
寺田寅彦氏が東京に出るようになると、丸善の二階に上がって棚の書物を隅々まで見るのが楽しみになる。
昔の丸善の旧式なお店(たな)風の建物が改築されて、今の堂々たる赤煉瓦に変わったのはいつ頃であったか思い出せない。多分自分がニ年ばかり東京にいなかった間のことであろうと思う。
元の薄暗い窮屈な室(へや)に比べて、天井の高い窓の多い今の2階の室は比較にならないほど明るく気持ちが良い。しかし自分にはどういうものか、昔の陰気な方が、少なくとも自分の頭に巣くっている丸善と言う観念にはふさわしい。
堂々たる赤煉瓦の丸善を見てみたかった。
階下の日本書や文房具の部は、たいていもうくたびれてしまって、見ないで済ますことが多い。それにこのほうは、むしろ神田あたりで別の日に見る方が良いと言う気がするので、すぐに表の通りへ出てしまう。
今、私は必ず地下一階に行くが、そこは文房具がある。
寺田寅彦氏はここはあまりいなかったようだ。
富士山の見える日本橋に「魚河岸」があって、その南と北に「丸善」と「三越」が相対しているのは、なんだか面白いことのように思われる。
丸善が精神の衣食住を供給しているならば、三越や魚市は肉体の丸善であると言ってもいいわけである。
三越の玄関の両側にあるライオンは、丸善の入り口にある手長と足長の人形と同様に、むしろない方が良いように思われる。玄関の両脇には何か置かなければならないと言う規則でもあるのなら、そういう規則は改めたほうがいいと思う。
三越には未だライオンはいる。
コロナの時にはマスクをつけていた。
でも丸善に手長足長の人形はいない。
調べたけど、よく分からなかった。
大正時代、丸善の店頭に手長と足長の人形がいたのだと思うと見てみたかった。
赤煉瓦の社屋はこれだと思う。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/138252802/picture_pc_fac8a273d84e3a8f1b945fd416d859e4.png?width=800)
リンクがうまく埋め込めないので、貼っておいた。
4階建てエレベーターまで設備された、日本初、赤煉瓦造りの鉄骨建築であった。
帝国ホテルでの落成披露パーティには、記者として徳富蘇峰、夏目漱石などが出席した。
1階は洋品、文房具、国内刊行書、2階は洋書、3階は事務室、4階はストック置場という割り当てになっていた。
この社屋は、大正12(1923)年の関東大震災の猛火に包まれ全焼。
いいなぁ、この建物の丸善に通いたかった。
この時は地下一階はなさそう。
なので、あの文中の階下=1階だと思われる。
この随筆が書かれた3年後に震災で消失してしまったのだ。残念過ぎる。再建する時も同じ雰囲気にしてもらいたかった。
三越の商品の主なるものは、何といっても呉服物である。こういうものに対する好尚と知識の極めて少ない自分は、反物や帯地やえりのところを長い時間引き回されるのはかなりに迷惑である。そして、これほどまでに呉服というものが、人間に必要なものかと思って、驚きや怪しんだことも一度やニ度ではない。「東京の人は衣服を食っているか」といった田舎の老人の奇矯な言葉が思い出される。
子供の頃、三井高利の話を読んだ。
この三井高利は越後屋で、呉服店は日本橋室町の三越本店、両替店は三井住友銀行などになって今も営業している。
確か反物を切り売りするなど、今まで人がやらなかったことをして繁盛していった才覚ある商人、みたいなことを子供の頃に本で読んだ。
まだ大正時代はその名残も多く、三越の主力商品はまだ呉服だったんだなぁと思う。
5階には時々各種の美術展覧会が催される、今の美術館の趨勢は帝展や院展や見なくても、いくぶんはここだけでも伺われる、のみならずそういう大きな展覧会に出ない人たちの作品まで見られる便利がある、そして入場は無料である。
ここではまたいろいろの新美術品が陳列されている。陶磁器漆器鋳物その他大概のものはある。これも今代の工芸美術の標本であり、また一般の趣味好尚の代表である。
ここの5階も見てみたい。
きっと当時も充実していたのだろう。
今でも三越や百貨店の美術品の階はなかなか楽しい。
今は6階で、アートギャラリーとしてホームページがある。
リンクがエラーになるから、
URLを記載。
https://www.mistore.jp/store/nihombashi/shops/art/art.html
今日までは、茶道具。
行きたかったなぁ。
104年の時間
寺田寅彦氏が書いた丸善と三越。
大正9年。
西暦になおすと1920年。
104年前のことが書かれていて面白い。
その時から形を変えてでも残っているものもある。
こういう脈々と続くものが好き。
104年経って、こんな風に自分の随筆が読まれていると彼は知っていただろうか。
他の随筆もちょこちょこ紐解いているが読み終わらない場合延長しよう。
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