親と過ごす時間は当たり前ではなく、かけがえのない時間
自分時間
自分のメンテナンスのために、リンパドレナージュに行った。
そのまま帰るつもりだったが、友達の誕生日プレゼントとあと向いのおばさまのバレンタインデーのお返しを買う暇がなかったので、そのまま街に出た。
ホワイトデー、気づいたら過ぎていて。
弟が向かいのおばさまにもらったバレンタインデーのチョコレートはほぼ、私と母で食べてしまったので私が買うのが筋かと。
30分、3箇所で急いで買い物
お昼(サラダと毛蟹ドリア)と母の大学芋、父と弟が好きなカイゼルハムのソーセージとウィンナーと、とらやのお汁粉を2個。
あとバッテラを買った。
いくら使ったかバタバタと買ったので分からない。
(リンパドレナージュは8,500円だった。)
駅構内の酒屋さんで父が気に入った山口県の特別純米酒の『貴』も購入。
リンク先の右側、水色のもの。
うちは大吟醸は飲まない。
フルーティさは求めていない。
この辛口はなかなか良く、父のお気に召したのでリピート。
ちなみにバレンタインデーのお返しは、中川政七商店のふきんと飴。
この缶、私も欲しい。
友達には、手縫い。
朱赤の大きめの丸いモチーフのもの。
明るい春らしい色にした。
くたびれたが、気掛かりを終えて一安心。
結局出かけると、なんだかんだお金を使う私。
こうして値段を気にせず買い物できることも幸せなんだと思う。
家族と会える時間
今日は弟が戻っているから、家族揃っての夕食。
こういう時間も、大切にしたい。
何気ない日常は当たり前ではないのだ。
誰か一人欠けたら、とても寂しいと思う。
地元を離れて10数年。
思えば帰省の時しか親と会えず、弟はその時にいなかったら年末年始くらいしか会っていなかった。
私も弟も20代の早い時期に実家を出たので、そう考えてみると、母の病気は私に家族と過ごす時間を与えてくれた。
もし両親が元気で、私が全国をまわっていたら、ある時突然の訃報で親の亡くなる時に会えないどころか、それまでも年に数回しか会えなかったのだ。
いろいろな逝き方
昨年から年明けにかけて、私の大事な友人達のお父様やお母様が、あちらの世界に逝かれた。
お風呂場でヒートショックで倒れ、そのまま他界したり、
転んでショートステイを利用した先でコロナに罹り、そのあと肺炎になり亡くなったり、
長い在宅介護の末に亡くなられたり。
いろんな逝き方がある。
話を聞くたびに、いつかは私もその瞬間に立ち会うのだと心がキュッとなる。
立ち会うためには親より長生きしなければいけない。
家族とのかけがえのない時間
親と過ごす時間も当たり前ではなくて、かけがえのないものだと自分に言い聞かせて介護生活を過ごしたら、ストレスも減るだろう。
朝起きて、家族全員がちゃんと目を覚まして、1日を無事に終えて、という日常の連続は決して当たり前ではないんだよね。
ついつい忘れて、父にイライラしたり、言うことを聞かない母にイライラしたりしてしまうのだが、
弟は違う。
細かいことを父に言うなと言う。
『喧嘩しないで仲良く過ごそう』といつも言っている。
(ずっと住んでいるとそうもいかない、も思ったりするが、彼は正しい。その方がいいに決まってる。)
親にイライラしないで、心穏やかに過ごせるように努力しよう。
そんなことを思う午後。
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