見出し画像

平維盛が入水(じゅすい)自殺するまで - 1634文字

辞世の句 - 平維盛「生まれては つひに死ぬてふ 事のみぞ 定めなき世に 定めありける」

生まれてきた以上、最終的には死ぬということだけが、この不確かな世の中で唯一確かなことだ。

源平合戦は、源氏(東)、平氏(西)との争い。

維盛(小惑星)は、1987年に、新島恒男さんと、浦田武さんが発見し、名付けた。

沿革

  • 平 維盛(平清盛の長男の長男)は、平治元年に産まれる。

  • 維盛は、美貌の貴公子として、光源氏の再来とされた。
    平家を嫌う九条兼実も「容顔美麗尤も歎美するに足る「14歳であるというのに作法が優美で人々が驚嘆している」と評している。

  • 父・重盛が病死し、叔父の平宗盛が、後を継ぎ、後白河法皇が、知行国越前国を没収したことにより、経済的困窮した。

  • 1180年 9月5日富士川の戦い(富士山の南)の開始は、平維盛の家臣信心深い、伊藤忠清との内輪揉めで、順延

  • さらに、夏の凶作で、食糧難で、途中の道で、仲間を募る。

  • 10月17日、武田軍(東)が、平維盛の陣に、
    『かねてよりお目にかかりたいと思っていましたが、幸い宣旨の使者として来られたので、こちらから参上したいのですが路が遠く険しいのでここはお互い浮島ヶ原で待ち合わせしましょう』
    と書状が来たが、信心深い家臣の伊藤忠清さんが、平維盛さんの純粋さを利用としたと解釈をし、使者2人の首を斬った

  • 10月22日、平維盛・平忠度・平知度らによる追討軍が、福原から出立

  • 11月2日、追討軍は、駿河国(富士山の南)に到着

  • 西は、4000騎であったが、逃亡や敵軍へ投降するなどで、残兵は、1000〜2000騎ほどになった。

  • 平維盛は、引き退くつもりはなかったが、伊藤忠清再三撤退を主張、かつ、士気を失っている兵達も賛同し、撤退を余儀なくする。

  • その夜、富士沼に集まっていた数万羽の水鳥一斉に飛び立ち、その羽音を夜の敵襲と勘違いした平氏の軍勢は慌てふためき総崩れとなって敗走し、平維盛の命が未来に繋がる。

  • しかし、その後、色々あって、11月、平維盛はわずか10騎程度の兵で、電光石火の最期を望んだが、生き残ってしまい、京都の帰路に着く。

  • そして、祖父の清盛は、維盛の醜態に激怒し、

    『何故敵に骸を晒してでも戦わなかったのか、おめおめと逃げ帰ってきたのは家の恥である』

  • 維盛は、京都から出禁になる。

  • 同年、11歳の長男・清宗は、従三位で叙勲された。

  • 1181年 2月 祖父の清盛が病死する。

  • 3月 叔父の重衡らと共に勝利を収める(墨俣川の戦い)。現在の長良川

  • 1183年4月 維盛を総大将として、10万(4万)の平氏の軍を結集し、北陸へ向かう。その間、兵糧米が養和の大飢饉のため、京都朝廷で調達できなかったため、乱暴な取り立ててを行いながら進軍した。

  • しかし、5月の倶利伽羅峠の戦い・6月の篠原の戦いで義仲軍に大敗
    10万(4万)で甲冑をつけていたのは、4騎で平氏の過半数が死亡し、
    残りは、物具を捨てて、山林に逃げたが、討ち取られた

  • 平盛俊、藤原景家、伊藤忠経(忠清の子)は、一人にも支援されず、敗走した

  • 1183年7月 残った平維盛は、長男・清宗を京都に残し、さらに西・神戸市兵庫区に向かう。(後に、第24代 大内政弘が、山名宗全の招聘により、訪れる場所)
    先についた、平宗盛、平知盛は、妻子との名残を惜しんで、遅れた維盛を裏切られたのでは?と疑われる。

  • 1184年2月
    現在の神戸市兵庫区で起こった、一ノ谷の戦いにおいて、
    密かに、陣中から逃亡し、お万と恋仲になった後高野山で出家し、熊野三山を参拝し、船で、那智の沖の山成城に渡り、松の木に、実父と実祖父の名前を刻み沖に漕ぎ出し餓死及び、沈没死する目的で、窓や扉もなく、釘を外から打ち付けられた渡海船に乗り込む。

  • これは、仏教の宗教的行為であり、補陀落渡海・ふだらくとかいと呼ばれる。

  • その後、お万は、維盛の入水自殺を知った後、滝に身を投げた。

  • おそらく、自殺したには、数万羽の鳥の方が、不確かな世の中よりも確かであったため。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?